第二章「Stand By」
「くっ……正気じゃない」
まだ眠い目をこすりながら、伊達は月曜の朝から携帯端末をいじっていた。
横から覗かれても見えないコーティングがされているフィルムが張られている、携帯情報端末のタブレットだ。七インチで、持ち運びにも便利なシロモノである。
「何してるの?」
だから、横から訊いてくる桜井にはまるでわからない。
時刻はまだ七時五○分。授業が始まるまで、四○分ほどある。だから教室には、まばらにしか人が居ない。
彼がこんな時間に来ているのも珍しいことだが、同じく桜井にも言えることだった。だから彼女は、そこを突っ込まれないように言葉を選んでいたのだが、伊達は気にすらしていない様子である。
「探しものをな」
端末で見ているのは教員の権限でしかアクセスできないデータベースだ。意外にもこれを得意とするのは高城で、既存のソフトを活用して伊達でもアクセスできるようにしてもらった。
しかし、見つからない。
「なにを?」
そういえば、彼女には訊いていないことだった、と思い出す。
「卯野櫻子」
見つけた。ようやく二年一組の名簿のファイルを発見する。
指でタッチ。それを開く瞬間に、体重をかけた鋭いタックルが伊達を襲う。
手の中から転がり落ちた端末が机の上で弾み、床に落ちる。なぜか千鳥足のようにたたらを踏んだ桜井が、踵を端末の画面に叩き込んだ。
一部分に体重がかかり、破滅的な音が響く。同時に、強化プラスチックの画面に放射状の亀裂が走った。
周りのケースも折れて真っ二つにへし折れていた。
驚愕のあまり硬直していれば、桜井は舌をちょろりと見せながら、辛うじて繋がる端末をぷらぷら揺らしながら言った。
「ごめんね」
「おい弁償しろ、これ幾らすると思っているんだ? 俺の口座から引かれるんだ。五万もするんだぞ」
メーカー品ではなく、特価品でもない。政府から支給されるこの端末は本来ならば格安で入手できるのだが、紛失、破損した場合は弁償以前に、罰金が課される。これが五万。
金払いにルーズでもない彼だが、これはかなりの痛手だ。
「わかってるよお。弁償するから、そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「弁償しなくても怒るだろう? 君の携帯電話を目の前で破壊されたらどんな気持ちだ」
冷然とした態度で桜井は伊達の言葉を受け流す。
伊達は口調こそ落ち着いているが、声色は静かに、相手を責め続ける。
「壊してしまっても、新たに買えばいい。まずこの発想がおかしいんだ。良く聞け、櫻子。君の転倒は明らかに不審だった。ここに何か言い分はあるか?」
「あるよ」
彼女は涼しい顔で言った。
「言ってみろ」
「私、櫻子じゃないから」
伊達に顔を向けて、目はどこか遠くを見ながら言った。素直な人間である。
ただ引っかからなかっただけ、狡猾だ。
伊達は短く舌打ちをしながら、
「そうか」
とだけ言って、壊れた端末をバッグにしまう。
まるで怒りを忘れたように、伊達は短く息を吐く。
それもそうだ、彼は怒ってなど居ない。
半ば確信があるのだ。《兎》の正体の当てはある。
今回はカマをかけてみた。それだけだったが、まさか大物が釣り上がるとは思わなかった。それだけの事なのだ。
《兎》で無ければ伊達に近づく理由がない。
相手は残りの学園生活を楽しもうとしている。
伊達はそれを阻害し、平穏とは縁のない場所へ連れだそうとしている。
両者の意見は不一致であり、さらに伊達は相手の姿すら知らない。《兎》は転校生を見つければいいだけだから、ラクなものだ。
《兎》は、もし伊達が学園を気に入れば、彼自身もここに長く滞在してくれるものだと思っている。彼が離れられない期間は、そのまま《兎》も学園生活を楽しめる時間となるからだ。
伊達とて、その気持ちは十二分に理解しているつもりである。だから、今のいままで、といっても二週間程度だが、積極的に動くことはあまりなかった。
「君には関係のない話かもしれないが」
短く、まくし立てないように一息分だけ置いて、続けた。
「いずれ協力してもらう機会があるかも知れない。その時だけでいい、力を貸してくれ」
伊達の寿命はもう一年もない。
《兎》のコアが馴染むまで、恐らく期間としては同じようなものだ。
ならば、と思わないこともない。相手次第だ、とも思っていた。
「なに、悪いようにはしないさ」
薄く笑いながら言う。
桜井は真顔のまま聞いていた。整った線の薄い顔。凛然とした眉に、大きな目。固く結んだ口。長い髪は首の後ろで一つにくくられていて、それが腰まで伸びていた。
わがままに膨らんだ蒼穹は制服の中で窮屈そうにしていて、その存在を主張している。
決して目立つ方ではない彼女だが、美形には違いない。
もしこんなことに巻き込まれなければ、幸福な人生を歩んだに違いない。そう思われて、はばかられたが。
言わずに置いて、巻き込まれて殺されるよりはよっぽどいい。
彼女は既に、この世界に足を踏み入れたのだ。
全ての責任を負えるほど無責任な過保護さを、彼はどうしても持てなかった。
「君のためでもある」
席に座る桜井を、見据えて、静かに言った。
彼女はポツリと、呟くように訊く。
「どういうこと?」
「目的というものは、どうしても必要だろう?」
これから十年、戦いしか無い。
惰性で戦っても、鬱屈とした日々を過ごすだけだ。
「何のために生きるか。誰のために握る拳か。いずれ、決める時が来る」
伊達はそれだけ言って席を立った。
桜井は慌てたように立ち上がって、彼の背に声をかける。
「ど、どこにいくの?」
「トイレだよ」
短く返して、伊達は教室を後にする。
時刻は八時十ニ分。授業開始まで、あと十八分。
しかしその日、伊達仁志が教室に戻ることは無かった。




