1:早朝の誘い
びく、と身体が弾んで思わず目が覚めた。
落ちた夢を見たのだ。
「……っ」
酷い夢だった、と伊達は思う。
無人島に漂流した己が、なぜだか現代の銃火器で武装した原住民に追われていた。変身ができず、リボルバーの残弾が一発であるのを確認した所で、断崖に追い詰められていた。
眼下で飛沫を上げる大海原。覗き込めば誘われるような錯覚を覚える。
背後からは中隊規模の原住民。にくいことに隊列を乱さず、決して油断しない統率が完璧な一個の生物のように動いていた。
終わりだ、と思う。ならば敢えて捕まる理由はない。
伊達は潔く身を投げた。銃口を咥えなかったのは、連中に死後を扱われるのが嫌だったからだ。
そこで意識が覚醒したのだ。
じんわりと滲む汗を手の甲で拭い、身体を起こして時刻を確認する。
ガラス戸の上に掛けられてある掛け時計は、四時三八分を示していた。朝起きるには、二時間ほど早い時間だった。
朝は六時過ぎに起きれば十分で、家は七時に出れば間に合う。徒歩で一時間の距離だが、始業時間は八時三○分だ。寄り道をしても、時間には余裕がある。
伊達は簡単に寝袋と毛布を畳んで端にやると、雑誌を適当にテーブルに置く。
寝間着は部屋着を兼ねているし、パーカーとジャージだから外に出ても恥ずかしくはない格好だ。
少し散歩でもしてこよう。
財布と携帯、鍵をポケットにねじ込んで、伊達は素足にスニーカーを履いて外に出た。
澄んだ快晴にはまだ夜の藍色が残っている。ようやく日差しが出始めた東の空は眩しいくらいに白く染まり、静かな町に光と影のコントラストを散らしていた。
住宅街を歩けばランニングをしていた中年男性に追い抜かされる。向かいから、この時間にもかかわらず犬の散歩に出ている中高生らしき女の子がスポーツウェアで走り去っていく。
そんな穏やかな早朝。
結局行く所なんて無くて、十分ほど歩けば到着する遊歩道の入口まで来ていた。
そこは国道に出て反対車線側の歩道から入れる場所だ。この時間なら当然車通りも皆無に等しいので、寝ぼけ眼でも安全に通り抜けられる。
暫く進んだ先、ちょうど遊歩道の真ん中辺りに広場がある。軽くバスケットコート一面分はありそうな広さは半円形に開いていて、遊歩道の右手側にぽっかり開いた形になっている。
ちなみに左手側には池があった。昼過ぎになれば、鳩が集まり、鯉にエサをやる高齢の男性の姿が見られるのどかな場所だ。
その先は山と言うには低すぎる丘。とは言え斜面は急だし森というくらいには木々が生い茂っているから、遊歩道から外れるのは危険だが。
伊達は、その空間に配置されるベンチに座る。
予定や目的など無いけれど、なんとなくここは落ち着いた。
背後は濃密なブッシュ――森。見あげれば、空を覆うように木々が茂っている。そこからの木漏れ日が、チェック柄にレンガ調の地面を彩っていた。
「清々しい……」
こんな所でジグソーパズルができたら最高だ、と思う。
お気に入りの場所で趣味を堪能できることほど幸せなことはない。次に幸せなのは自分のカネでうまいものを喰うことだ。その次は思う存分昼寝をすることである。
怠惰、というよりは三大欲求に素直な少年だった。
「しかし」
こうなると、億劫にもなってくる。
今日は金曜日だ。明日は土曜。しかし今日は金曜日だ。
何が言いたいのかというと、こんな穏やかな日に学校に行かなければならないということである。
行く必要は、実の所ないのだ。
ただ、《兎人》が居て、それは日常を大切にしているということだ。いずれ保護されることを理解しているから、せめてその『Xデー』までは幸福を噛み締めていたいのだろう。
だがこの街に居る目標は《兎人》だけだ。運命の時は、殆ど伊達ら次第になってくる。
ならば、敢えて出来ぬ監視をしようとすることもないのではないか。そう思えてくる。
首を突っ込まずに、待っていれば良い。
そう確信できてくる。
なんだ。数学など糞食らえと言う前に、受けないという選択ができるではないか。
伊達は人知れず笑みをこぼせば、
「伊達くん?」
だらしなく緩んだ顔を、少女に覗き込まれていたことに気付く。
「……桜井? なぜここに」
ベンチの背もたれに両手を伸ばして、足を組んで空を見上げる。
そんな少年の脇に立っていた彼女は、汗ばんだ顔をハンカチでぬぐっていた。格好は、動きやすいシャツの上にランニングを重ね、下はスパッツ。それに運動靴という、いかにもランニングをしていたような格好だ。
長い黒髪は学校とは違い、後頭部の真ん中あたりで一括りにするポニーテール。
火照った頬を軽く抑えながら、桜井は言った。
「ほら、私の家って二駅隣だから。大体十キロくらいなんだけどね? 毎朝走ってて、登下校は電車なの」
走るのは健康にいいんだよ、と自慢げに胸を逸らす。制服姿では中々に分からぬ豊満なバストが揺れ、伊達は視線を泳がせながら頷いた。
隠れた逸材だ、なんて思いながら。
「面倒ではないのか」
「運動好きだし。どのみち、こっちの方までは通学路じゃないから来ないしね」
「ご苦労なことだな。少しは見習いたいものだ」
「じゃあ一緒に走ってウチくる?」
「俺はいい」
「あ、そ。でも、伊達くんって意外に早起きなんだね。まだ……五時前だよ?」
左手首の腕時計を確認して、改めて驚いた。
桜井が持つ伊達の印象は、生真面目だができる限り楽をしたい、というような少年だった。間違いではない。
事実、頼まれれば酒のつまみさえ作ってしまうくらい生真面目な彼だし、しかし無駄だと思った途端に学校を休もうと考える程度には面倒くさがりだ。
「早く目が覚めたからな。たまたま、偶然だ」
「二度寝とかしないんだ?」
いよいよ彼女は、伊達の隣に座る。胸がタンクトップの生地をぴんと張ってしわを作り、座ったせいで服が汗で張り付いて身体のラインがより淫靡に浮き出てくる。
女子高生とは思えぬスタイルに伊達は目をそらして、上肢を折り、手を組んだ。
「ああ。基本的に一度目が覚めたら身体を起こすようにしているからな」
「へえ、感心。私はどうしても寝ちゃうな~。特に冬場だと寒くて」
「冬は仕方がないな。俺も億劫になる」
「だよねえ。でもその分、ご飯が美味しいんだよね。もう、身体の芯から染みてくる感じがして」
「完全に同意だな。旨みの染みだした鍋などは汁まで余すこと無く飲み干せるのが良い」
極端な温度の変わり具合は嫌いだが、しかし季節に応じた料理の味わいは好きだった。
伊達は自然に頬を緩めて言い、桜井は満面の笑みで「そうそう」と相槌を打つ。
傍から見れば似合いのカップルのようだろう。会話は妙に食べ物に偏りすぎているが、基本的に趣味などの話が合わないのだから当然だ。
「しかし――不思議なものだな」
話に一区切りがついて、嘆息気味にそう言った。
「この遊歩道では、様々な事と出会う」
《鴉》を撃破したのはここだし、そもそも犬飼と再会したのもここだ。
《兎人》と交戦するのはいつもここで、さらには今日、桜井とも会った。
全ての道がローマに通じているように、伊達の吉兆はここに通じているのではないか。
彼はそう思う。ある種のゲン担ぎや、縁起担ぎのようなものだ。そう深い意味はない。
だが、よくも悪くも、この街は伊達と深い関わりがあった。
「それはいいことなの?」
「そうだな……少なくとも、君と出会えたのは良いことなのだろう」
「ははあ、伊達くんもそういうこと言うんだね」
彼女は口元を歪めて、ちょっとそっぽを向く。少ししてから、ぽつりと言った。
「ちょっと嬉しい、かも」
「それは良かった……む」
少年は携帯電話を、少女は腕時計を見て言った。
「あ。もうこんな時間」
二人は同時に、話しすぎていたことに気付く。
桜井は腰を上げ、伊達もそれに続いた。
時刻はすでに五時三○分を過ぎている。伊達はともかくとして、十キロを走って帰る彼女には一刻を争うだろう。
「じゃね、伊達くん。また学校で」
「ああ。気をつけてな」
そう手を振って別れる。二人は背を向けて、桜井は走り去り、伊達は大あくびを隠しもせずに家路についた。
ツナを敷いて、マヨネーズを格子状にかけて焼く。マヨネーズトーストはそれだけで出来た。
良く食うから一人二枚。それにコンソメスープと、散歩帰りに買ってきた野菜スティックを並べればそれなりに見られるようになった。
「俺は行ってくる」
起こす前に軽く済ませた伊達は、詰め襟の学生服に着替えて手提げかばんを肩にかけていた。
前を開いて、袖をまくる。
つま先を叩いてしっかりと革靴を履けば、リビングから気の抜けた声が聞こえてきた。
「おーう」
「いってらっさーい」
「ああ。戸締りはしっかりとな」




