序章「Start Up」
長生きしたいのなら、控えておくべきことは幾つもある。
飲酒。
喫煙。
過度なダイエット。
過度な食事。
過度な運動。
それら全ては、行き過ぎることで寿命を縮める。
だがもしただ一つの"それ"を手にしてしまったが故に、残り寿命を十年に縮めてしまうものがあるとしたら、どうする。
ただの事故でそれを手に入れたとして。
それを知った上で、手にしたとして。
それらが全て仕組まれていたこととして――残りの十年を、ただでさえ短いその十年を、平常にはない闘争の中に身を置く選択肢しか無いとしたら、どうする?
「狂ってる」
そう叫ぶ者も居た。
「悪夢だ」
嘆く者が居た。
全てを受け入れる者も居た。
何もかもを拒絶する者も居た。
しかしどれほど苦悩し絶望しても、この十年は確実に過ぎていく。
ただひとつ、幸福があるとするならば。
まだ幸も不幸も、酸いも甘いも知らぬ子供の内に、この最上の狂気を手に入れることなのかもしれない。
人は誠意を見せる時、全力で何かに取り組むだろう。
汚名返上のために躍起になることも、不手際の謝罪のために額を床に擦り付けることもする。
だが、目の前の相手が既に意識なく、それでも尚拳を構える場合はどうするだろうか。
死者への弔いという意味でも全力を出す。
憐れみ、手際よく撃破する意味でも力を抜く。
どちらも正しい。
特に不幸のどん底に居た人間が相手の場合は。
「っ、はあ――」
対なる火焔の剣が閃いた。眼前で交差するそれを、黒い影はまるで容易く回避する。
敵影はそれを認めるよりも早く、見逃した。攻撃を避けた相手がどこに居るか認識できない。
それでも直感で、振り向きざまに剣を振るった。切っ先に手応え。力任せに振り抜けば、敵の胸に一閃の斬閃がほとばしる。
斬撃の軌跡に火焔が走る。しかしそれが鎮火するとともに、傷跡は跡形もなく消え去った。
闇の中に走る音だけが響く。月光に照る結晶からなる肉体を、しかしその男は理解できない。
――自我がない。
それでも、強かった。
完全に死角から迫って拳を放つ。双剣はそれでも瞬時に翻ると、その腕を横に切り裂いた。肘先と、輪状の肘の二つが右腕から弾ける。
男は、完全に離れてしまう前に腕を押さえつけた。数秒もすれば、腕はすぐに完治する。
安堵はまだ無い。
暴風が噴いた。その焼けるような熱を感じた途端に、剣に宿っていた火焔が唸りを上げ膨れ上がる。視界に入る全ての色が、黒から白に変わった。
紅蓮の業火が鼻先にまで迫る。己を包む装甲が焼け始めた――瞬間に、彼は時の流れを、完全に支配した。
炎の瀑布の流れを見る。その噴出よりも早く動いて、敵の背後に回る。
時間の流れが緩やかになる――否、男の感覚が異常なまでに加速したのだ。
やがて無防備な背が見える。拳を構える隙に、知覚すら出来ていない彼の姿に、結晶体は応じようとその身体を翻しかけていた。
彼はただ、拳を突き出しただけだった。なのに、やけに息が乱れた。心臓が弾んだ。筋肉がこわばった。
己の腕が、鮮やかに月光を反射する巨大な結晶体を貫いていた。
人の形をしていた。喉から頭部は黒く染まり、瞳の部分からは鈍い白光が漏れていた。
「唐橋さん……」
思わず言葉が出る。目の前の男の、その名を呼んだ。
背中から抜けた手に握られているものがある。手のひら大の結晶は、まるで呼吸でもするように光が明滅していた。
――少年は肘から先だけを異形化していた。大型の手甲のようなそれは黒く染まり、連なる装甲を指先から肩口に向けて僅かに開いている。それが返しとなって、
「お疲れ様。ゆっくり、休んでくれ」
腕を引き抜けば、ただでは終わらせない。
腹の内部をズタズタに引き裂いて、粉々に抉った結晶を空気中に散布しながら、さらに結晶の大きな塊を辺りに撒き散らす。貫いた時よりもずっと大きな穴が、その肉体に穿たれていた。
身体が倒れ、大地に叩きつけられる。その拍子に、肉体はついに形を留める力を失った。砕け散った結晶が、さながら闇夜を照らす星々の明かりのように地上に広がる。
終わった。そう思う。
その男はまだ八年目だったが――唐橋隆という男の存在は、大きな支えとなっていた。
同胞として、素直に尊敬する。
ただ不満があるとすれば、
「まだ、か」
己はまた死ねなかった。
腕以外を生身で挑んだのに、その身には傷一つ無い。
見上げた戦闘能力だ。
そういうように、拍手のような乾いた足音が鳴った。
振り向いた先には、女が居た。白いタンクトップにスキニーパンツというラフな格好で、隙だらけな風貌で隣に並んだ。
「結局、あんたに任せちゃったわね」
「こういった事は、どうしても当人では解決できないことでもある。この二人組というものは、どうしようもない欠陥なんだ」
相いれぬ者同士でも、五年、十年の時を共に過ごせば少しは愛情も湧く。そういった信頼関係を築いた末にやることは、"暴走した"相棒を殺すことなのだ。
「君は、大丈夫か?」
地面に向けた視線をそのまま上げて、木々の合間に見える夜空を見上げる。しかし落ち着かず、また少年を見て、やがて手の中にある結晶体を見た。
動揺しているのだ、と思う。
彼は異形化した腕を戻し、結晶を彼女に手渡した。
「唐橋隆は死んだ。《鴉》のコアが作るのは、新しい《鴉》だ。もう唐橋は、戻らない」
「わかってるって。あんたにわざわざ言われなくたって、見てたし、理解で来てるし。ただ、納得ができないだけ」
「不条理を感じるのは、まともな証拠だ」
俺は。そう彼は何かを言いかけて、口をつぐむ。幸い、口が言葉の形をつくっただけだから、彼女は言おうとしたことにすら気づかなかった。
死ぬことしか考えていない。最近は、それで頭が一杯だと、なんて、とても言えない。
不謹慎だから、ではない。
言葉にしてしまえば、自分の相棒すら裏切ることになる。
そして――今している任務も、半ば放棄している形であることも。
「綺麗ね。私たちのコアも、こうなのかな」
天に掲げるようにして球形の結晶を眺める。月光を通して、乱反射して鮮やかに煌めく。
まるで己の心情と対照的な輝き。妙な焦燥、劣等感を覚えるのを、彼は素知らぬふりをして微笑み、頷いた。
「綺麗さ。俺たちに残された、唯一の純粋な部分なんだから」
「そう、だよね」
「……犬飼ありす。もしまだこの街に留まるなら、いい宿があるんだが、どうだ?」
「へえ、どんなとこ?」
悪戯っぽく微笑んで、彼女は少年を見る。彼はどこか遠くを見るような顔で言った。
「料理上手な学生と、飲んだくれが居る宿だ。騒がしいが、美味い飯が食えるぞ」
「あたし、賑やかなのはキライじゃないのよね」
「そうか。あいつも喜ぶと思う。落ち着いたら、来てくれ」
彼は強引に手を引かず、彼女をまともに見もしないで踵を返した。
そんな少年の背を見ながら、犬飼は手の中のコアを強く胸に抱く。彼がその場からいなくなって、しばらくしてからようやく、頬に熱い一筋の涙が伝った。




