第一章「Loading」
地獄の終わりだぞ――誘うような祝福の鐘の音は、授業の終了を伝えるものだった。
生徒たちは賑やかに笑いながら、慌てるように教室を後にする。あるいは教室に残って談笑を続け、あるいは眠りこけて終業に気づかない者も居る。
そんな光景を一瞥してから、固く表情を引き締めた『伊達仁志』は真剣な眼差しで教科書に視線を落としていた。
伊達には数学がわからぬ。
伊達仁志は形成者として、小学二年生から役人に保護され義務教育とは無縁の生活をしてきた。けれども、劣等感には人一倍敏感であった。
伊達は激怒した。
かの無知蒙昧な発言を除かねばならぬと決意することは――できなかったが。
二次関数など、社会で使わぬではないか。
そう数学担当の老爺に問いただす勇気は無かったが。
そもそも二次不等式とはなんだ。
教科書を見ていても、内容はからっきしだった。
「予習してるの? 感心だねぇ」
隣の席についた少女が、茶化すように伊達の肩を叩く。
むっつりとした顔で伊達が睨めば、派手でも地味でもない、いかにも無難さを志しているような少女は明るく笑った。
「こんなことで怒らないでよ。なんのために授業中助けてると思ってるの? 伊達くんが落第生にならないためだよ?」
「しかしだな……」
授業中だけじゃないか、という呪詛は飲み込んで、代わりの言葉を吐く。
「君には感謝している」
「そうそう、それでいいの。それで? どこがわかんないの?」
机に手をついて、ほとんど寄り添うように教科書を覗きこんでくる。
腰に届くか否かという長さの髪は、首の付け根あたりで一括りにされていて、それが伊達の肩に触れた。
全てだ、とはさすがに言えない。
「……取り敢えず、次の授業に出るところだけご教授頂ければ問題ない」
「リョーカイ。でもその前にお昼行こうよ」
「ああ……君は、友だちはいいのか?」
「問題ないよ。私ってほら、お決まりのメンバーみたいなのないから」
「胸が痛むことを言わないでくれ」
「み、みんなと仲がいいだけだから……」
「うむ……」
釈然としない調子で、伊達は小さく頷いた。
転入してきて、早くも一ヶ月が経過していた。
伊達仁志の秘密は、この学校に潜む"目標"を発見して保護することが目的であることだ。
政府の狗として、同胞である『形成者』を見つけるのだ。だというのに、一ヶ月が経過する現在、その姿はおろか手がかりすらない。
協力してくれている仲間は既に正体を知っているというが、その対象は正体の露呈を望まないという。
曰く――"日常を、日常のまま過ごしたい。接触して、特別にはなりたくない"らしい。
だから短期間の潜入任務は、いつしか無期間になっていた。
世界は誰に対しても等しく時間を刻み、けれども不平等に、義務教育過程の苦痛を敏感にさせていた。
◇◆◇◆
築四十年の二階建てのアパートの角部屋が、少し前から伊達らの自宅だった。
バス・トイレ別で、キッチン、二間続きのリビングなど充実している。
そんな自宅の鍵穴に、鍵を差す。
ひねるが、しかし手応えがない。
思わず息を呑んで、鞄の底板の下から自動拳銃を抜く。護身用のそれを片手に、扉をゆっくりと開ける。
「……ふう」
玄関には一足の靴。編み上げブーツは片方が壁に寄りかかって、片方が倒れていた。この持ち主は、一人しか居ない。
『高城千里』は既に帰宅している。
敵であったとしても、部屋の中にさえ入ってしまえば武器など必要ないのだ。
飽くまで『形成者』は機密情報だが、見る者が居なければ外骨格の形成は自在なのだ。
「今帰った。おい、居るんだろう? 鍵くらいしっかりと掛けておけといっているだろうが」
「うーい」
キッチンとリビングを隔てたガラス戸の向こうから、気のない返事。
足元に下ろした買い物袋を手にする。
室内と玄関との境界が数センチの段差しかないそこに革靴を脱ぎ、伊達は上着を脱いで小脇に抱えながらガラス戸を開けた。
途端に、もわっと迸る酒気。すさまじい酒のにおいが、伊達の臭覚をなぶり殺す。
思わず顔をしかめて、椅子に身体を預け、背もたれから右腕を垂らす男の姿を訝しげに見る。
傷んだ髪は金髪には軽くパーマがかかって、色男然としていた。
だらしなく開いた口、眠そうな半眼。通った鼻筋、きりっと鋭い眉に、意外にも小さな顔は締まれば二枚目だろう。しかし酒気を帯び火照ってゆるんだ顔は、いかにもな三枚目だった。
「いつ戻ってきた?」
「一時間くらい前だなあ」
テーブルの上に転がる缶ビールは五本。開いたさきイカのパックは半分くらい減っていて、大皿に盛られた焼きそばにはまだ手が付いてなかった。
彼と、その対面の席に取り皿と箸。
妙に律儀なところは、伊達が出会ってから変わらなかった。
「済まなかったな、食料を買いに行っていた」
「あ! あれ買ってきたか? カニカマ」
「ああ」
「酒は?」
「学生服では断られた」
「めんどくせーな。なら今夜買いに行くか」
生もの、飲料水を冷蔵庫に、野菜を置いて、アイスを冷凍庫に、カニカマを手に伊達は席についた。
鞄は椅子の横において、上着は背もたれだ。
さっそく箸を取り、やきそばの山に突っ込む。大盛りを取り上げて取り皿に取れば、対面の男はカニカマが入っている真空パックを引きちぎって一本を口に放り込んだ。
「それで? 劣等生くんは学校が楽しいかね?」
いやみったらしい笑みを貼り付けながら言った。
「楽しくはないが、つまらなくもない。《兎人》がどこに居るかわからず酷いストレスだが、決まりきった時間に行動するのは中々に楽だぞ」
「友だちは?」
「……隣の席の桜井という少女と仲良くしている」
もっとも、桜井というのはあだ名だが。
「他は?」
「居ない」
がっくり、とはいかない。
男はニヤつきながら追撃のように牙をむいた。
「ってことは、友だちの居ないお前に女の子がツルんでくれてるってことだろ?」
「ああ……凄まじい顔だな、どこの筋肉を使えばそんな表情を作れるんだ?」
三日月のように口角が釣り上がる相棒に少し身を引きながら、手に皿を、もう一方の手で山盛りのやきそばを崩し続ける。
「キがあるんじゃねえのか?」
「精神病の類か? 確かに彼女は物好きだが……」
「気が違ってるか? じゃねーよ! ほの字だよ、"ほ"の字! 惚れてんじゃねーの? ってこと!」
「ありえんな。彼女は俺の食事スタイルを馬鹿にする」
思い出したように、鞄から保温袋に入ったマヨネーズのボトルと一味の瓶を取り出した。
常温で放置されたそれを、新たに小皿に盛った焼きそばにかけて、その上に一味をふりかける。
焼きそばだからこそ抜群にあうだろうそれらは、しかしうどんやソバ、カツ丼にされたら見ているだけでも胃にくるものがある。
「お前の舌がバカだからだよ。マヨラーとか、今時面白みの欠片もねーだろ」
「なぜ一芸のように食事スタイルを変えねばならん? レモンをまるごと絞れというのか」
「なんでレモン……そういや酢を飲むと身体にいいらしいぞ」
「ああ。身体は柔らかくならんが、疲労回復やダイエット効果があるらしいな」
「バナナ酢みたいなので、飲みやすいのあるらしいぜ? 発想がすげーよ、プロは違うってことよな」
「確かに」
会話は不毛の一途を遂げたが、しかし朝昼晩、それを咎める者は居ないし不快に思うわけでもなかった。
同じ話題が繰り返されようとも、適当すぎる会話でも、相槌が無くとも、それでも二人の心が逆立つようなことはない。
十年に近くなる二人は歳こそ離れたが、異性でさえ近づき難い親しさがあった。
半ば兄弟のようなものである。
形成者として最長のコンビである二人は、そう称されていた。
「し、とぅ、れいぃぃぃぃ~」
鍵を開けて侵入してきた女は、指を四、ニ、ゼロの形に変えながらそう言う。
肩までかかる黒髪を内に向いたシャギーにしている。身体つきは熟してグラマラス。
悩ましげな身体は革つなぎのライダースーツに包まれて艶やかだが、アホな登場の仕草で全てをぶち壊していた。
『犬飼ありす』はそんな女だった。
「お、姐さん……と酒」
彼女が手にしている半透明の買い物袋には、幾本もの缶が収まっている。
彼女はブーツを脱いでから、気だるそうな足取りで高城の隣に座る。
「どう? 二人共、調子は」
「オレは別に。結局学校を監視してるけど、危険そうな影はちっとも。周りも平和そのものだよ」
「俺も同じようなものだ。勉学に追われながらも《兎人》を探しては見ているが、気配すらない」
そのくせ、と続ける。
ぷしゅ、と小気味よい空気の抜ける音に愉悦を感じながら、高城はチューハイに口をつけた。
「深夜街を歩いていれば、たまに接触する」
「言ってたわね。ゆうべも?」
「ああ。あの、人気のない遊歩道で」
数週間前、《鴉》を撃破した場所と同じだ。
「どれくらいの頻度で?」
「週に一度か。どれも、まるで外骨格を確かめるような格闘ばかりだが……」
「それで、あんたが撒かれるわけ?」
「面目ない」
はあ、と大きなため息。袋から焼き鳥のパックを取り出して、安い発泡酒を開ける。
「伊達ちゃんらしいわね」
「仕事はマジメなんだけどな~」
口を揃えた批判に、伊達はむっとしながら、やがて焼きそばの大皿を空にする。
自分の取り皿により分けた残りを犬飼に差し出せば彼女は頷き、焼き鳥のパックについてきた割り箸を割る。
ついでにマヨネーズと一味を出せば、彼女は一味の蓋を開けて軽くふりかけた。
「しまった」
半分に減ったマヨネーズを見ながら伊達が言う。
「これで備蓄が切れた」
「備蓄を常備すんじゃねえよ」
「そんな使うもんじゃないっしょ。明日、学校帰りに買えば?」
「そうだな。そうしよう」
きりり、と顔を引き締めながら大皿と、高城の皿、箸を片付ける。洗い物をしまって、おわんを出し、冷蔵庫からバニラアイスとヨーグルトを選ぶ。
「喰うか?」
二人の背中に声をかければ、音で察したのだろう。
「お前ほんと食い意地だけはすごいよな。まあ食うけど」
「あ、あたしも。ある? あたしの分」
「見くびってもらってはこまるな」
三人分のおわんとアイスとスプーンをテーブルに置いた。
得意げな顔で胸を逸らす。
二人はそんな少年に賞賛の拍手を送りながら、さっさと自分のアイスの蓋を開けた。
既に十二時をまわったころ、伊達仁志はようやく洗濯物を干し終えて一息ついた。
ふすまの閉まった隣の部屋からは高城の高いびきが聞こえてきて、伊達は網戸から吹く清涼な風を受けて大きく深呼吸をした。
室内の酒気がすぐに抜けていく。清々しい気分だ。
部屋の隅に置かれるテレビの反対側、ふすまに半分くらいかかる形でソファがある。風呂あがりの犬飼は火照った身体でそこを占領して、片手にワンカップ酒を持っていた。
「おつかれさま。っていうか、外に干して大丈夫なの?」
薄手のシャツ一枚に、下は腿をむき出しにするデニムのショートパンツ姿。胸に浮かぶ二つのぽっちを見ぬふりをしながら、伊達は言った。
「問題ない。明日は快晴だ。予報でもそうだし、今夜も星が綺麗だった」
「まあ男だしねえ」
「犬飼の服もあるが」
「下着はコインランドリーだし」
しかし、と息を吐く。
定位置の椅子に腰をかけて、リモコンでテレビをつける。ぶうん、と気配が広がり、寒々しい笑い声が聞こえ始めた。
「お前が来てから寝床が無くなった」
今まではソファに毛布だったが、今ではこのリビングで寝袋だ。布団を買いに行く時間がないためである。
「今日は見回りに行かないの?」
「話を逸らすな……ああ、行かん。酒盛りで疲れた」
とはいうものの、伊達は一滴たりともアルコールを摂取していない。
未成年だから、という以前に、昔ビールを飲んでから「まずい」という印象しかないのだ。
今日はいつもより賑やかな上に、締めにアイスを供したというのにその後につまみを作らされたのだ。味噌汁に使おうと思っていた油揚げを炙ってしまったので、また買いにいかなければならない。
「センリはいつか、みりんまでも飲みかねん」
そんな執着心がある。
密かに伊達が恐れていることだ。だから料理酒は常備しないことにしている。
マジメな顔で言う伊達に、犬飼は思わず吹き出した。
「あははっ、さすがに心配しすぎよ。酒好きだけど、アル中じゃないでしょ」
「あまり楽観でもきんぞ。奴は既に酒の味など捨ててきている。質より量だ」
「それはおカネの問題でしょ? あたしたちに支給されんのは、月に十万がせいぜいなんだから」
その収入は、毎月政府から払われているものだ。
形成者として保護されている彼らは、同時に"なぜだか世に解き放れている"同胞を保護ないし撃破しなければならない。その報酬はもちろんあるが、平時はこれが基本だった。
そこから家賃、光熱費、食費、通信費などを支払う。
身分証明など必要なものは支給されるが、多くはやりくりが必要だった。
今でこそ犬飼が来たおかげで収入が実質的に十万増えて生活が潤っているが、これまでは酒代と食費がかさんで毎日かつかつだった。
「長生きしたければ贅沢は言わんことだ」
「そーね。あたしもできる限り控えるわ」
「そしてこの生活から抜け出すために、できるだけ《兎人》を保護しなければならない」
伊達が一ヶ月前から通う学校にそれがいるのは、既に犬飼が突き止めている。
だが潜入している伊達でさえ気づけない。無論、彼と同じく人として生活しているのだから当然だ。
『形成者』は特殊な気配も、習慣も、癖も電波も何もない。外骨格を形成しない限り、限りなく人であるのだ。
だから、できる限り深夜に接触できる内に確保したいのだが……。
「むう」
目がしょぼしょぼし始める。
既に風呂は終わり、洗濯物も干した。明日の朝はトーストだから下ごしらえが必要な物はないし、宿題も無い。制服はハンガーに通してガラス戸の梁にかけてある。
よし、と頷き、テレビ横に畳んである寝袋を取った。
「眠るが、寝る時はテレビと電気をしっかり消しておけ」
「あいあいさー」
「おやすみ。お前も早く寝ろよ、犬飼」
「ええ、おやすみなさい。善処するわ」
伊達はさっさと寝袋の中に身体を収めて、要らない雑誌を枕に、身体に毛布を掛けて眠りに就いた。




