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侯爵夫人として扱うな」と仰ったのは旦那様ですよね? ~離縁の鐘が鳴った瞬間、妻から債権者に変わりますのでご了承ください~

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/10/09

「君を愛することはない」


使用人たちがずらりと並んだ玄関ホールで、夫になったばかりの男はそう言い放った。


男の名は、ジェラルド・ヴァルモント侯爵。

今日、神殿で誓いを交わした相手だ。


左の手首には、その証の白い紋がまだ淡く光っている。

大理石の床から、冷えが靴底を這い上がってくる。


彼の腕には、私の義妹のカミラが寄り添っていた。


「お前に侯爵家の印章に触れることを許可しない。屋敷の者も、この女を侯爵夫人として扱うな」


ジェラルド様は、並んだ使用人たちをゆっくりと見渡した。


「跡継ぎはカミラが産む。三年経てば、白い結婚として離縁だ。それまで離れで大人しくしていろ」


カミラが扇の陰で笑った。


「お義姉様は、お金さえあれば幸せな方ですもの。離れで銀山の帳簿でも眺めていらしたら?」


「金勘定など、商人の血の者がすることだ」


ジェラルド様は鼻で笑った。私の母が商家の出だと、知っていて。

銀山ほしさに私を娶った、その同じ口で。


強欲な悪女。

社交界で私がそう呼ばれるようになったのは、伯爵だった父の葬儀のすぐあとからだ。


母の遺した銀山を家のために差し出せと継母に迫られ、首を横に振った。

それだけで、噂が広がるには十分だった。


後見人の継母がまとめたこの縁談を、十八の私は断れなかった。


その銀山が、今は持参金としてこの家のものになっている。

上がりの一部は、カミラを通して継母の懐にも流れるのだろう。


この縁談を急かしてきたカミラは、夫の腕の中で笑っていた。



「…承知いたしました」


それだけ答えて、私は頭を下げた。

手袋の中で、指先にぎゅっと力がこもった。


三年。紋が白いまま三年を越えれば、婚姻は解かれる。


落ち度のない妻には、持参金が戻る。

でも、それまでに逃げ出せば夫を捨てた妻として銀山を失う。


だから、耐えるしかない。


顔を上げたとき、列の端にいた白髪の執事だけが、目を伏せていた。



離れの暮らしは、思ったより静かだった。

もちろん、夫は一度も顔を見せない。


母の遺した銀山の上がりは、カミラの首や指を飾る石に変わっていった。


本邸からは、夜ごとに楽団の音が漏れてくる。

カミラの笑い声は、窓を閉めていてもよく通った。


庶子では侯爵家を継げない。

だから二人は、三年が明けて正式に結ばれる日を指折り数えているようだった。


私は離れの小さな机で、その日の出来事を書きつけてから眠った。


宝飾店ルヴェールの馬車が、本邸に着いた日。カミラが新しい石をつけて、庭を歩いていた日。


最初の異変は、嫁いで最初の冬、厨房から漏れてくる女たちの話し声で知った。


「今月もお給金が出ないんですって…」


「辞めたくても、紹介状がなけりゃ次の奉公先なんて……」


私はそれを聞き、母の遺してくれた私財の小箱を開けた。


その夜、使用人部屋を回って、一人ずつ封筒を扉の隙間から置いていくことにした。

封筒には給料分の小切手と私の名前入りの紹介状を添えた。



しかし、ジェラルド様に言われているのか、直接礼を言いに来る人は、いなかった。



そんなある日、私の離れを誰かが訪れた。

扉を開けるとそこにはあの白髪の執事が立っていた。


彼はハロルドという。先代の侯爵に四十年仕えてきたと聞いている。


「奥様、これは……私にはいただけません」

彼はそう言って私が置いていった封筒を差し出してきた。


「あの人曰く、私は奥様ではないそうよ。だからこれは、私個人からの立て替え、それでもだめかしら?」


皺の刻まれた手が、封筒の上で止まった。

それから彼は、ゆっくりと深く腰を折った。


「リディア様、ありがとうございます…」



この屋敷に来て、誰かに頭を下げられたのは初めてだった。

なんだか喉の奥が、少しだけ熱くなった。




でも、給金も払えないこの家の懐事情が気になる。



私はハロルドに頼んで、侯爵家の借金の証文を見せてもらった。

担保は王都の屋敷と、本領の荘園。額面は金貨二万枚。返済は、とうに止まっていた。


「債権者は、商人の方々ばかりでございます。商人が侯爵家を神殿に訴え出ても、門前払いでして。もう回収を諦めておいでです」


「つまり、安くても手放したがっている、ということね」


「……左様で」


「では、伯爵家の娘の名義なら?」


ハロルドは、少しだけ黙った。


「奥様でさえなければ、訴え出られましょう。残念ながらこの国では、妻は夫を訴えられませんので…」


額面の一割、金貨二千枚。それが、見放された証文の値段だった。


その夜、私は初めて母の生家に手紙を書いた。

ベルナー商会。会頭は、母の兄にあたる伯父だ。


返事は、すぐに届いた。


『平民の身では、貴族の縁談に口は挟めん。だが金なら貸せる。お前は姉さんの娘だ。お前の目利きに賭けよう』


右上がりの癖字に、思わず小さく笑ってしまった。

母も昔、この字は読みにくいと文句を言っていた。


伯父の金を借りて、侯爵家の借金の証文を一枚ずつ買い集めた。

小箱が空になってからは、使用人の給金も伯父の金から回した。



侯爵家の印章には触れるな、と仰ったのは旦那様だ。だから印章には触れない代わりに証文の名義は、すべて私になる。


ペン先から、魔力が文字に移っていく。この署名は、誰にも偽れない。



最後の一枚が私の名義になったのは、二度目の冬が訪れる頃のことだった。


妻でいるあいだは、ただの紙切れだけれど。


夜更けに証文を数え直すたび、薄い紙の束がやけに重く感じた。

三年のうちに一度でも落ち度を作られたら、私は伯父への借金を抱えたまま、銀山まで失う。

母が遺してくれたものを、何ひとつ守れずに。




――数字は嘘をつかないのよ、リディア。


十歳になるまで、私は母の膝の上で帳簿をめくって育った。

強欲だと笑われたその癖が、今は私を支えている。


督促の手紙が止んだとき、ジェラルド様は上機嫌だったらしい。


「さすがは侯爵家の信用だ、と仰せでした」


ハロルドは淡々と言った。


「返済の猶予をいただいた、とだけ申し上げております。嘘ではございませんので」


猶予を与えたのは、私だ。

証文の名義が変わった知らせも、すべてハロルドが受け取っていた。


ジェラルド様は、金の話が書かれた封筒を開けない。卑しいから、だそうだ。


そして、満三年の夜会の三日前。

ハロルドが、二冊の帳簿を抱えて離れを訪ねてきた。


「旦那様から、帳簿を書き換えるよう命じられました。奥様に家政費として、金貨三千枚をお渡ししたことにせよ、と」


「……それで、あなたは」


「書き換えました。お断りすれば、私を辞めさせて、別の者に書かせるだけでございましょうから」


彼は、抱えた二冊を持ち直した。

乾いた紙と、インクの匂いがした。


「夜会の晩まで、二冊とも私がお預かりいたします」


どちらを出すつもりなのか、私は聞かなかった。

あの日、玄関ホールの列の端で目を伏せた人を、信じることにした。



夜会の広間は、蝋燭と香水の匂いでむせ返るほどだった。

離縁と、カミラとの婚約を披露する夜会だ。


離れにまで、出席を命じる使いが来た。


招かれた貴族たちの視線が、入ってきた私に刺さる。

哀れみと、好奇心と、ほんの少しの期待。


皆、悪女が裁かれるところを見に来たのだ。

宝石ひとつ着けていない私の胸元を、誰かが怪訝そうに見た。


日付が変われば、婚姻の日から満三年になる。

真夜中まで、あと少し。


「皆に聞いてもらいたい」


ジェラルド様が杯を掲げた。

隣に立つカミラの胸元で、大粒の青い石が揺れている。


「我が妻リディアは、この三年のあいだに侯爵家の金を使い込んだ。家政費として渡した金貨三千枚を、すべてだ」


ざわ、と広間が波立った。


「やっぱり……」


「強欲な方だとは聞いていたけれど」


顔見知りの子爵夫人が、わざとらしく私から一歩離れた。


ジェラルド様は、一枚の紙を私の前に差し出した。

魔法契約書だ。私が自分の手で署名しない限り、効き目はない。


「持参金の銀山を放棄すると、ここに署名しろ。鐘が鳴る前にだ。そうすれば、神殿には訴えずにおいてやる」


彼は顔を寄せ、私の耳元で低く囁いた。


「拒めば、この帳簿と皆の証言を持って神殿に行く。悪女の言い分など、誰も信じんぞ」


ペンが、私の手に押しつけられた。

手袋の中で、指が震えていた。

それでも、声さえ出れば十分だ。


壁の時計の針は、真夜中の少し手前を指していた。


「いいえ、お断りいたします」


私は、ペンを卓に置いた。


「何だと?」


「そもそも、私は家政費を一枚もいただいておりません」


「帳簿が証拠だ! ハロルド、持ってこい!」


呼ばれた老執事が、人垣の中から一歩前に出た。

両腕に、二冊の帳簿を抱えて。


「旦那様。ご命令どおり書き換えました帳簿は、こちらでございます」


ハロルドは小声でそう囁き、一冊目だけを卓に載せた。

ジェラルド様の口の端が、満足げに上がった。


息が止まりそうになった。


二冊目は、まだ彼の腕の中にある。

それでも、私は声を出した。


「では、家政費をお渡しになった日付を、読み上げていただけます?」


「いいだろう。ハロルド、読んでやれ」


ハロルドが、静かな声で日付を読み上げていく。

私は、離れの机でつけてきた控えを開いた。


「……どれも、宝飾店ルヴェールの馬車が本邸に着いた日ばかりですわね」


「悪女の言い分など、誰が信じる!」


「では、こちらを」


ハロルドが、二冊目をその隣に並べた。


「先代様の頃から私がつけております、本物の帳簿でございます。家政費とされた日付と金額は、すべて宝飾店ルヴェールへの支払いと一致いたします」


挟まれていた注文書が、蝋燭の光の下に広げられた。


「どの注文書にも、旦那様ご自身の魔力の署名がございます」


二冊の帳簿が、卓の上に並んでいる。

数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、人間のほうだ。




広間が、しんっ…と静まり返った。


誰かの視線が、カミラの胸元に落ちた。

ひとり、またひとりと、同じところを見て、こそこそと話している。


「カミラ様の着けていらっしゃる宝石ってルヴェールのものよね…なぜあの悪女じゃなくてカミラ様が…?」


カミラの指が、青い石を隠すように首元を押さえた。


「ええ。お値段は、その帳簿に書いてあるわ」


私が言うと、さざめきが広がった。


扇の陰の囁き、抑えきれない笑い声。

それが少しずつ大きくなって、広間を満たしていく。


「ば、馬鹿な……ハロルド、貴様、誰の執事だと……っ」


「わたくしは侯爵家の執事でございます、旦那様」


ハロルドは、眉ひとつ動かさなかった。

ジェラルド様の杯を持つ手が、宙で止まった。


そのとき、王都の時計塔から、真夜中の鐘が鳴った。


ひとつ。ふたつ。

低い音が、床から足もとへ伝わってくる。


左の手首が、すうっと冷たくなった。


三年間そこにあった白い紋が、霜が溶けるように薄れていく。

ジェラルド様の手首でも、同じことが起きていた。


最後の鐘が鳴りやんだとき、紋はどこにもなかった。

ジェラルド様の目が、白紙のままの契約書に落ちた。


「……ふん。これで離縁だ。どのみちお前は、ここを出ていくしかない」


声が上ずっていた。


「ええ、出てまいります。その前に、清算を済ませませんと」


私は、使用人たちに振り出した小切手の控えを卓に広げた。

振出人の欄には、すべて私の魔力の署名がある。


「まずは、私が立て替えてまいりました、これまでの使用人たちのお給金から」


「給金……だと……?」


「止まっていたのも、ご存じありませんでしたか?今までお屋敷の皆さんにお支払いしてきたのは、私ですから」


ジェラルド様の喉が、ごくりと鳴った。


「それから、こちらが本題です」


私は、最後の束を差し出した。


「侯爵家の借金の証文です。額面は金貨二万枚。担保は、このお屋敷と本領の荘園。返済の期限は、とうに過ぎておりますが…」


「二万枚……」


「このお屋敷が、担保ですって?」


客たちが、思わず天井や床を見回した。

そのざわめきの中で、ジェラルド様は証文に記された名義を見た。


金の話が書かれた紙を、この人はおそらく生まれて初めて、自分の手で読んでいた。

その顔から、みるみる血の気が引いていく。


「なぜ、ここにお前の……名前が……?」


「妻のあいだは、旦那様を訴えられませんでしたので。この三年間、ゆっくりとお待ちしていたのです」


私は、ドレスの裾をつまんで一礼した。


「本日より、私は旦那様の債権者となりますので、ご了承くださいませ」


「ふ、ふざけるな……!侯爵夫人ともあろう者が、夫の家を潰す気か!」


広間に、彼の声だけが響いた。

三年間、一度も呼ばれたことのない呼び名だった。


「『侯爵夫人として扱うな』と仰ったのは、旦那様ですよね?」


ジェラルド様の口が、開いたまま止まった。


「ああ…もっとも、もう旦那様でもございませんでしたわね」


隣で、カミラがそっと腕をほどいた。一歩、二歩と後ずさる。


「カミラ……?」


「わ、私……お屋敷がなくなるなんて、聞いておりませんもの!」


扇で顔を隠して、義妹は人垣の向こうへ消えていった。


私が歩き出すと、人垣が黙って道をあけた。


あの子爵夫人は、今度は目を伏せていた。


広間を出たところで、膝から力が抜けた。

ハロルドは、黙って腕を貸してくれた。


怖くなかったわけじゃない。

ハロルドが、あの二冊目を出してくれなかったら。


鐘が鳴る前に、押しつけられたペンを置けなかったら。考えるだけで、息が浅くなった。



夜明けの玄関ホールには、三年前と同じように、使用人たちが並んでいた。



違うのは、皆が旅支度をしていることだ。

銀山のある町で働き口を用意すると伝えたら、ほとんどの者がついてくると答えてくれた。



ハロルドは最後に、壁にかかった先代侯爵の肖像の前に立っていた。

長いあいだ、黙ってその肖像画を眺めていた。


「本当にいいの?四十年仕えた家でしょう」


「先代様が守れと仰ったのは、家の名ではございません。ここで働く者たちでございました」


彼は、ほんの少しだけ口の端を緩めた。


「それに、お嬢様の帳簿をつける者が要りましょう」


奥様、ではなかった。

誰の妻でもない、ただの私に戻った呼び方が、なんだかうれしくて、こそばゆかった。



屋敷と荘園は、証文の担保として回収手続きに入る。


銀山の上がりを当てにしていた継母のもとにも、今日のうちに知らせが届くはずだ。帰ってくる娘と一緒に。


爵位だけを抱えた元夫が、誰もいなくなった屋敷で何を思うのか。

それはもう、私には関係のない話。





扉を開けると、澄んだ朝の空気が頬を撫でた。


左の手首を見下ろす。

紋の消えた肌は、ただ白かった。



――数字は嘘をつかないのよ、リディア。



ええ、お母様。

私……三年かけて、ちゃんと確かめました。



【終】

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