第5話 森の小屋と、工房らしきもの
鉈が一本あるだけで、世界はずいぶんまともになる。
昨日のうちにそれを嫌というほど思い知った俺は、朝からほとんど休まず手を動かしていた。切れる道具がある。木を払える。材を取れる。柱を立てるための地面を整えられる。たったそれだけのことで、森の中の「ただの空き地」が、少しずつ人の暮らしに近づいていく。
もっとも、その「暮らし」の優先順位が普通の人間とだいぶ違うことは、自分でも分かっていた。
沢で水を飲み、顔を洗い、拠点へ戻る途中、俺は頭の中で今日の段取りを組み直していた。
まず柱になる木をもう二本切る。昨日確保した材の枝を払い、使える長さに揃える。次に、屋根の骨組みを組む。そのあと壁。……いや、壁は最低限でいい。先に炉の上へ雨除けを作るべきか。寝床に雨が吹き込まなくても、炉が湿れば全部が止まる。炭も駄目になるし、土で固めた炉壁も崩れやすい。
「やっぱり、先に鍛冶場か」
独り言が自然に出る。
誰に相談するでもない。相談相手がいたとしても、たぶん止められるだけだろう。普通は先に寝る場所をちゃんと作る。分かっている。分かっているが、鍛冶場のない生活は俺にとって「暮らせている」に入らない。寝床なんて狭くていい。風が多少吹き込んでもいい。だが火を守る場所だけは、どうしても譲れなかった。
昨日切り出した木材を前に、俺はまず太さと反りを見て使い道を分ける。真っ直ぐなものは柱、やや細いものは梁、癖のあるものは壁の押さえや補助に回す。節の位置と割れの入り方も確認する。森の木は工房に届く整った材木とは違う。個体差が大きく、どれも少しずつ扱いが難しい。だが、その癖を見ながら使い道を決めるのも嫌いじゃなかった。
鉈で余分な枝を落とし、小刀で接合部を削る。木口を揃え、地面を均す。縄の代わりに裂いた蔓を使い、組めるところから組んでいく。釘がない以上、きれいな仕事は望めない。だが、崩れなければいい。いや、違う。崩れないだけでは足りない。使いやすくなければ意味がない。
柱を立てる位置を決める段階で、俺は何度も立ち止まった。
小屋そのものの大きさは最小でいい。寝るだけなら、身体を横たえられる幅と、少し荷物を置く余裕があれば十分だ。問題は、そこに対して鍛冶場をどう置くかだった。
炉の位置は風下に寄せすぎると煙が溜まる。かといって開けすぎた位置に置けば、横風で火が安定しない。沢との距離も考えないといけない。熱した素材を扱う以上、水場に近いのは助かるが、近すぎると湿気が敵になる。道具を仮置きする台も必要だし、炭を雨から守る場所もいる。
気づけば、寝床になるはずの小屋の位置を決める前に、鍛冶場の動線ばかりを考えていた。
「……いや、別に間違ってないだろ」
誰も責めていないのに、なぜか言い訳みたいな声が出た。
間違っていない。暮らしというのは、結局は毎日何度も使う場所の勝手で決まる。俺にとってその中心が鍛冶場なら、それに合わせて全部を置くのが正しい。
そう開き直ると、手は早かった。
まずは炉の上に簡単な屋根をかける。四本の柱を立て、梁を渡し、細い枝を格子状に組んで、その上へ大きな葉と切りそろえた若枝を重ねる。完全に水を弾けるほど立派じゃないが、直に雨を食らうよりずっとましだ。屋根の角度も少し前に流すようつけた。煙が滞らず、雨だけが落ちる形が理想だ。
次に、道具置きの台を作る。
と言っても、木を二本並べて板代わりの薄い材を渡しただけの粗いものだ。だが、地面に直置きするのとでは大違いだった。小刀、火打石、鉱石、木炭、紐。そういう細かなものが所定の場所にあるだけで、作業の流れは一気に良くなる。
俺は一つ一つを並べながら、何度か位置を直した。
小刀は利き手側。鉱石は炉に近いが火の粉は届かない位置。炭は乾いた側へ。水を汲んだ器は熱から少し離す。使い終えた鉈を置く場所も決める。
たぶん、他人が見たら大差ないだろう。どこに置いても同じに見えるかもしれない。だが違う。半歩の差が手間になる。一手の遅れが火色を狂わせる。鍛冶はそういう細かな積み重ねだ。使い勝手を軽んじると、あとで全部が濁る。
鍛冶場の骨格が整ってから、ようやく小屋に手をつけた。
こちらは本当に簡素なものだった。柱を立て、片流れの屋根をかけ、三方に粗い壁を作る。壁と言っても、枝を並べて蔓で留め、その隙間に草と葉を押し込んだ程度だ。風は普通に入るし、隙間だって多い。だが夜露をしのぎ、身体を丸めて眠るには足りる。
床になる場所だけは少し丁寧に均した。地面の石を取り除き、乾いた草を厚めに敷き、その上へ切りそろえた細枝を並べる。布一枚の上で寝るよりは、ずっとましになるはずだ。
作業の途中、何度か自分で笑いそうになった。
屋根の出来を確かめるより先に、炉の煙の抜け方を見ている。
壁の隙間を埋めるより先に、炭置き場の湿り気を気にしている。
寝床の広さを測るより先に、鉈の置き場所を二度三度と直している。
我ながら、ひどい優先順位だ。
けれど、そのひどさこそが、自分にとっての自然でもあった。
昼を過ぎる頃には、汗で服が身体に張りついていた。腕も重い。腹も減っている。それでも、目の前に少しずつ「形」が生まれていくのを見ると、不思議と疲れは嫌じゃなかった。
何もなかった場所に、柱が立つ。
屋根がかかる。
炉の上に影が落ちる。
道具が並ぶ。
自分の動きに合わせて、場所が意味を持ちはじめる。
その変化は、小さいくせにやけに嬉しい。
夕方近く、最後に小屋の入口代わりに太い枝を一本渡して区切りをつけたところで、ようやく俺は立ち止まった。
拠点を見渡す。
立派な家ではない。いや、家と呼ぶのも気が引ける。小屋は狭いし、壁は粗いし、屋根だっていつ大雨で崩れても不思議じゃない。鍛冶場も「工房」と胸を張るには程遠い。石を積み、土を盛り、枝と葉で雨をしのげるようにしただけの、ほとんど仮設だ。
それでも、そこにはもう「何もない森」ではない気配があった。
小屋がある。
炉がある。
道具が並んでいる。
仕事の跡が残っている。
俺は鍛冶場の屋根の下に入り、炉の前にしゃがみ込んだ。昨日より安定した火床。横には炭の山。叩き台の石。仮置きの台。粗い鉈。拾い集めた鉱石。
指先で炉壁を軽く叩く。土はしっかり締まり始めていた。まだ手を入れる余地はあるが、使える。十分に、使える。
そしてなにより、静かだった。
人の声がしない。誰かに呼ばれもしない。無駄話もない。あるのは葉擦れと、遠くの沢の音と、火の気配だけ。
その静けさの中に座っていると、胸の奥がようやく深く落ち着いていくのが分かった。
「……悪くない」
また同じ言葉が口から出る。
でも今回は、今までよりずっと実感がこもっていた。
ようやく最低限、暮らすための形ができたのだ。昨日までは「生き延びる」だった。今日は少しだけ「暮らす」に近づいた。火を守れる場所があり、眠れる場所があり、道具を置ける場所がある。それだけで、人間の気分はこんなにも変わるのかと、自分で少し驚く。
工房らしきものの前に座り込んだまま、しばらく何もしなかった。
急ぐ必要がない時間というのも久しぶりだった。火を起こしてもいい。鉱石をいじってもいい。だが今は、ただこの場所が出来上がったことを味わいたかった。
俺にとって理想の暮らしなんて、大したものじゃない。
騒がしくないこと。
火が絶えないこと。
必要な時に道具へ手が届くこと。
あとは、静かに鉄を触っていられればそれでいい。
その意味では、この粗末な小屋と鍛冶場は、かなり理想に近かった。
日が傾き、沢から汲んできた水が減っているのに気づいて、俺は木器代わりにしている容れ物を手に立ち上がった。暗くなる前にもう一度、水を汲んでおくべきだ。
拠点から沢までの道は、もう少しで自分の中に馴染みそうだった。枝を払ったせいで歩きやすくなっている。鉈を腰に下げて歩きながら、俺は自然と周囲へ目をやった。森の見え方も少し変わっていた。昨日までは「どこも同じ木と草」に見えたのに、今日は「あの木は梁に向く」「あそこの土は炉壁にいい」といったふうに、役割が見える。
沢で水を汲み、容れ物を満たす。その帰りだった。
森の外れ、木々の密度が少し薄くなるあたりで、地面の様子に違和感を覚えた。
足を止める。
草が、妙に寝ている。獣が通った跡にしては幅が揃っている。さらに近づいてしゃがみ込むと、土の表面にうっすらと押し固められた筋が見えた。完全な道ではない。だが、何度か人か、それに近いものが通った跡に見える。
指で土をなぞる。新しいものばかりではないが、古すぎもしない。枝の折れ方も自然ではなく、腰の高さのあたりで払われたようなものが混じっていた。
「……人、か?」
森の中で初めて、その可能性をはっきり意識した。
完全な孤立地帯ではない。
この森には、どこかへ通じる流れがある。村か、狩場か、採取場かは分からない。だが少なくとも、俺一人だけが存在する閉じた森ではないらしい。
その事実に、安堵と警戒が半分ずつ胸に浮かぶ。
人里が近いなら、いずれ物資のあてになるかもしれない。塩も布も、まともな器も欲しい。逆に言えば、こちらの存在も見つかる可能性がある。静かに暮らしたい身としては、喜んでいいのか難しいところだ。
だが、いずれにせよ知っておく価値はある。
水の入った容れ物を持ち直し、俺はその痕跡をもう一度だけ確かめた。草の倒れ方、土の締まり、枝の折れた向き。森の外へ向かって細く続いている。
「……明日、少し見てみるか」
そう呟いてから、拠点の方へ顔を向けた。
木々の間から、俺の作った粗末な屋根が少しだけ見えた。小屋と呼ぶにはあまりに小さい。工房と呼ぶにはまだ頼りない。けれど、確かにあれは、今の俺が帰る場所だった。
異世界に来て初めて、自分の足で戻る場所がある。
その事実を胸の中で転がしながら、俺は水を抱えて森の中へ戻っていった。




