第16話 雨の日の釘と、壊れた戸板
雨の音で目が覚めた。
屋根に落ちる水の粒が、葉と枝を何枚も隔てて、それでもちゃんと「降っている」と分かる音になっている。ざあざあではない。しとしとでもない。森の雨らしい、細かくて、途切れず、じわじわと全体を濡らしていく降り方だった。
小屋の中は思ったより暗い。
まだ朝だが、空は雲に覆われているのだろう。壁代わりの枝の隙間から入る光が、いつもより鈍い。湿った空気が肌へまとわりついて、寝起きの身体を少し重くする。
俺は起き上がり、まず炉の方を見た。
雨除け代わりに作った屋根は、どうにか役目を果たしている。完全ではない。端の方から細い雫が落ちているし、地面もいつもより湿っている。だが火床の真上は守れていた。昨夜の種火も灰の奥でまだ生きている。
「……よし」
声に出したのは、たぶん安心したからだ。
工房というものは、雨の日に本性が出る。晴れの日に何とか見えていたものが、雨の中でどう崩れるか、どこから水が回るか、何が湿気るか。それを見て、ようやく「使えるか」が分かる。
そういう意味では、今日の雨は悪くなかった。今の拠点の弱いところがよく見える。
小屋の入口近くへ寄って、外の様子を窺う。森は一面、灰色がかっていた。葉の表面を雨粒が転がり、枝先から雫が連なる。沢の音もいつもより太い。こんな日は村から誰も来ないだろう。来なくていい。静かに炉の様子を見て、濡れた材の置き場を考えて、ついでに灰黒色の鉱石でも試せれば上出来だ。
そう思ったところで、外からぱしゃ、と水を踏む音がした。
嫌な予感がする。
この手の嫌な予感は、最近あまり外れない。
「おはようございまーす! 弟子じゃないやつ来ましたー!」
「帰れ」
反射だった。
入口の向こうには、頭から粗末な布をかぶったリッカが立っていた。髪の先が少し濡れている。肩も濡れている。しかも片手には薪の束、もう片方には何か布に包んだものまで持っていた。
「朝一番の“帰れ”がもう挨拶みたいになってるな」
「雨の日に来るな」
「来たくて来たんじゃねえよ。途中で降られたんだ」
「じゃあ村へ戻れ」
「ここまで来たのに!?」
「知らん」
俺はほんとうにそう思っていたのだが、リッカはもう勝手に小屋の軒下へ入り込んでいた。濡れた布をばさばさ振るな。床が湿る。
「それ何だ」
「薪」
「見れば分かる方じゃなくて、もう片方」
「あ、これか」
リッカは布包みを持ち上げた。
「村の婆さんに頼まれた。『雨で戸板が外れたから、金具か釘みたいなの何とかならんか』だって」
「……」
「あと“森の鍛冶屋ならこういうのもやるだろ”って」
「余計な信頼をされてるな」
だが、話自体は理解できた。
雨の日は家の弱いところが出る。戸板の留めが甘いと、濡れて重くなった板が歪み、金具が抜けたり木の留まりが崩れたりする。村の家なら尚更だろう。
リッカは布包みをほどいた。中から出てきたのは、錆びた細い釘が数本、曲がった金具、それから割れかけた木の留め具だった。見るからに限界だ。
「戸板って、あの婆さんの家の?」
「そう。入口の横のやつ」
「ふむ」
頭の中で家の造りを思い出す。先日村へ行った時に見た、低い軒と、風を避けるための板戸。確かにあの辺りは、釘というより木の留めと簡単な金具で持たせている感じだった。
俺は布の上の部品をひとつずつ手に取った。どれも雑に壊れたわけではない。長く使ってきて、雨と開け閉めの負担で少しずつ痩せたのだろう。つまり、直す意味はある。
そう判断したところで、リッカが妙に得意げな顔になった。
「どうだ、こういうのも持ってきたぞ」
「持ってきたのはいいが、なんでおまえが受けてくる」
「だって婆さん困ってたし」
「おまえが直せるのか」
「いや、釘は無理」
「なら勝手に受けるな」
「でもおまえならやるだろ?」
「……」
言い返しにくい言い方を覚えてきやがった。
俺は少しだけ眉をひそめたが、布の上の金具をもう一度見た。たしかに、これは今日やるにはちょうどいい仕事かもしれない。雨の日だからこそ意味がある。しかも刀でも包丁でもない、ごく生活の鍛冶だ。
リッカは小屋の壁に寄りかかりながら、こちらの顔を覗き込む。
「なあ、こういうのもやるんだよな?」
「鍛冶屋なら、普通はやる」
「でもさ」
リッカは木の留め具をつまみ上げた。
「こういうの、あたし最初は“地味だな”って思ってた」
「今もそう思ってる顔だな」
「今はちょっと違う」
「どう違う」
「包丁とか斧みたいに、使った瞬間“おおっ”ってならねえじゃん」
「ならんな」
「でも、戸板って壊れると困るんだよな」
「当たり前だ」
「雨入るし、風も入るし、夜も落ち着かねえし」
「そうだ」
そこでリッカは、小屋の外の雨を見た。
「こういうのも、暮らしを支える鍛冶なんだな」
「今さらか」
「今さらだよ」
素直に言うあたりは、こいつのいいところかもしれない。うるさいが。
俺は立ち上がり、道具台の前へ向かった。
「おい」
「ん?」
「火、上げるぞ」
「おっ」
リッカの顔が明るくなる。だから弟子みたいな顔をするな。
「細薪、昨日の乾いたやつ持ってこい」
「はい!」
「返事が良すぎる」
「仕事も早いぞ!」
「自分で言うな」
そう言いながらも、手を動かす。
灰の中の火種を起こし、細薪を組み、風を送る。雨の日は空気が重いぶん、いつもと同じように火を上げると少し鈍い。だからこそ乾いた材の選別が生きる。リッカが持ってきた薪も、ちゃんと分かって選んだものらしく、火の拾い方は悪くなかった。
「炭、少しだけ細かいの混ぜるか?」
「そうだ。大きいのは後」
「了解」
こうやって普通に仕事の相談ができてしまうのが、一番困る。
炉が落ち着くまでのあいだに、俺は壊れた金具と釘を見比べた。新しく作ると言っても、大げさなものではない。必要なのは、戸板の重みと雨に耐えられる最低限の強さと、木に馴染む細工だ。見た目なんてどうでもいい。暮らしが止まらなければいい。
だが、どうせ作るなら少しでも使いやすくしたい。
そこが職人の厄介なところだった。
「……まず、釘を打つ場所が悪い」
「見ただけで分かるのか?」
「木が痩せてる。何回も同じ穴を使ってるだろ」
「あー、婆さんちの戸板、ぐらつくたびにそのへん叩いてた気がする」
「それだな。留める位置を少しずらす」
「へえ」
俺は鉄の細片を選り、火へ入れる。こういう仕事は派手な鍛造ではない。細く伸ばし、頭を作り、必要な長さで切る。だが、そこに手を抜くとすぐ曲がるし、木も割る。雨の日に戸板が外れる家というのは、たいていそういう「間に合わせの繰り返し」で弱っている。
だからこそ、少しだけでも整えてやる価値がある。
ごく小さな仕事なのに、火の前へ座ると不思議と気が締まる。生活の道具は、大きな名声を呼ばない代わりに、失敗した時の困り方が生々しい。戸板ひとつ止まらないだけで、雨が入り、風が入り、家の中の物が湿る。
それを知っていると、雑にはできなかった。
「……そんな真剣な顔で釘作るんだな」
横で見ていたリッカがぽつりと言う。
「当たり前だ」
「いや、釘だぞ?」
「釘だからだ」
「どう違うんだ?」
「包丁なら切れないで済む。釘が駄目だと、留まらない」
「おお……」
「留まらないと、家が困る」
「たしかに」
「だから雑にすると腹が立つ」
「そこまでか」
リッカは目を丸くしていたが、やがてふっと笑った。
「やっぱ、おまえ、名刀作りたいって感じの鍛冶屋じゃねえな」
「何だその言い方は」
「いや、もちろん打てるなら打つんだろうけど、目の前で困ってるやついたら、そっち先にやる顔してる」
「……」
「なんか、鍛冶が生活にくっついてる感じ」
言葉にされると、少しむず痒い。
俺だって刀を打ちたくないわけじゃない。むしろ打ちたい。異世界の素材でどこまでいけるか、考えるだけなら今でも楽しい。だが、この森と村で暮らし始めてから、目の前の現実はもっと切実だった。包丁、斧、鎌、戸板の金具。そういうものが先に要る。
結果として、そっちを打っているだけだ。
……だけ、なのかもしれないし、もう少し別の何かもあるのかもしれないが。
「木の留め具は」
リッカが壊れかけた部材を手に取る。
「これも作るのか?」
「作る。鉄だけじゃ駄目だ」
「木工もやるのかよ」
「少しは」
「鍛冶屋って何でも屋だな」
「暮らしの近くにいる鍛冶屋はそうなる」
「親父もそんな感じだ」
「だろうな」
そこからしばらく、雨音と火の音の中で二人とも黙っていた。
俺は釘と小さな金具を作り、リッカは言われた通りに木の留め具になりそうな材を選んで持ってくる。削りはまだ荒いが、選ぶ目は悪くない。水を含みすぎていない木、しかし割れすぎないもの。そういう癖をなんとなく掴んでいる。
火が回り、金具の形が整う頃には、小屋の前には小さな部品がいくつも並んでいた。どれも地味だ。見て「おお」と言う仕事ではない。だが、雨の日ほどこういう地味なものの価値が分かる。
「行くぞ」
「村に?」
「戸板、合わせないと意味がない」
「おっしゃ!」
リッカはすぐ立ち上がった。だから弟子みたいな動きをするな。
雨は少し弱くなっていたが、まだ細かく降り続いている。布を頭にかぶり、道具をまとめて村へ向かう。森から出る頃には、靴も裾もだいぶ濡れていた。
婆さんの家は、村の外れにある小さな家だった。戸板は案の定、片側の留めが外れ、上の方が浮いている。風が吹くたび、板がかたかた鳴る。これでは落ち着かないだろう。
「おお、ほんとに来たのかい」
婆さんが目を丸くする。
「雨だからこそだ」
「ありがたいねえ」
その素朴な礼に、俺は軽くうなずくだけで返した。
戸板の留めを外して状態を見る。木そのものが完全に駄目になっているわけではない。だが、今までの釘穴が痩せ、負荷のかかる場所が偏っている。留め具の位置を少し変えた方がいい。
俺が無言で作業に入ると、リッカが横から木片を差し出した。
「これ、ここか?」
「……ああ」
「釘は?」
「長いの二本、短いの一本」
「了解」
あまりに自然な手伝い方で、婆さんが目を瞬かせる。
「あんたら、親子かい?」
「違う」
「違います! 弟子じゃないです!」
「弟子じゃないのかい?」
「そこを今揉めてる」
揉めるな。しかも説明するな。
だが婆さんは楽しそうに笑っていた。雨の日に戸板を直しに来た若い鍛冶屋と、やたら元気なドワーフ娘。たしかに絵面としては妙だったかもしれない。
留め具を打ち直し、位置を少しずらして固定し、木の癖に合わせて締め具合を調整する。最後に戸板を開け閉めして確認すると、さっきまでのがたつきが嘘みたいに収まった。
婆さんが実際に手をかける。
ぎい、と戸板が動き、ぴたりと収まる。
「ああ……これで雨が吹き込まない」
その一言は、派手な感嘆よりずっと仕事の手応えがあった。
包丁で台所が変わるのもいい。斧で山仕事が楽になるのもいい。だが、戸板ひとつがきちんと閉まることで、家の中が落ち着くというのもまた、確かな鍛冶の仕事だ。
リッカが隣で、小さく唸るみたいに言った。
「……地味だけど、すげえな」
「だから言っただろ」
「こういうのも鍛冶なんだな」
「こういうの“が”鍛冶だ」
俺は雨に濡れた戸板を見ながら、改めてそう思った。
刃物ばかりが鍛冶じゃない。火と金物で、人の暮らしの弱いところを一つずつ支える。それもまた、立派に鍛冶師の仕事だ。
帰り道、リッカは雨の中なのに妙に機嫌が良かった。
「なあ」
「何だ」
「今日の、ちょっと好きかも」
「何が」
「釘とか金具とか、地味なやつ」
「派手じゃなくて悪かったな」
「違う違う。なんか、ちゃんと人の家守ってる感じがした」
「……」
「包丁とか斧もすごいけど、こういうのは“その人の一日”っていうか“その家の暮らし”に直で効くな」
そこまで言ってから、リッカは少し考える顔になった。
「親父も、こういうのずっとやってたんだろうな」
「そうだろうな」
「前は地味だと思ってたけど、今日ちょっと見方変わった」
「ならよかったな」
「うん」
素直に頷く横顔は、珍しく静かだった。
工房へ戻るころには、雨はだいぶ細くなっていた。屋根から落ちる雫を避けながら中へ入ると、火はまだ小さく生きている。濡れた空気の中でも、工房の中にはちゃんと仕事の匂いが残っていた。
リッカは炉の前にしゃがみ込み、少しだけ火を見つめてから、ぽつりと呟く。
「鍛冶屋って、思ってたより何でもやるんだな」
「何でもはやらん」
「でも、暮らしに必要なことはだいたいやるだろ」
「それはそうだ」
「じゃあ、何でも屋に近いじゃん」
「近くても嬉しくないな」
そう返すと、リッカは笑った。
その笑いにつられて、俺もほんの少しだけ口元が緩みそうになる。だが、それを表に出すのも癪なので、すぐに炉の方へ顔を戻した。
雨の日の仕事は地味だ。だが、地味な仕事ほど、その場所の暮らしを支えている。
その感触が、今日の雨にはよく合っていた。




