第1話 火のない森で、最初に欲しかったのは炉だった
鋼が、いちばん素直になる温度というものがある。
低すぎれば言うことを聞かない。高すぎれば機嫌を損ねる。赤の色合い、火の息づかい、炭の崩れる音、槌を当てたときの返り。全部を見て、聞いて、感じて、やっと「今だ」と思える瞬間が来る。
その瞬間だけは、誰にも邪魔されたくなかった。
工房の中は、いつものように暑かった。いや、暑いなんて言葉では足りない。夏の盛りでもないのに、炉の前だけは季節が一つ狂っている。肌にまとわりつく熱気、鼻の奥に残る炭と鉄の匂い、前掛けの内側にたまった汗。耳元では鞴の音が規則正しく響いていて、そのリズムに合わせるように俺は槌を振っていた。
カン、カン、カン――。
音は正直だ。
拙い打ち方なら拙い音がする。芯まで入れば、音が変わる。何度やっても、その瞬間だけは飽きない。むしろ、そこにしか心が動かないとさえ思う。
人と話すのは苦手だ。愛想もないと言われる。師匠にも「お前は刀にだけはやけに優しい顔をする」と呆れられたことがある。だが、仕方がない。鉄の方が人間より分かりやすい。言葉を間違えて気まずくなることもないし、気を遣って笑う必要もない。ただ、こちらが手を抜かなければ、鉄も応えてくれる。
だから、その日も俺はいつも通り、無駄口一つなく鋼と向き合っていた。
火床の中で赤く息づく地鉄を引き出し、金床に置き、槌を下ろす。散る火花。腕に返る重み。狂いのない一打を積み上げる、その単純で深い時間に没頭していた。
そのはずだった。
不意に、白いものが視界の端で爆ぜた。
最初は火花が大きく散ったのかと思った。だが違う。火花なんて生易しいものじゃなかった。工房の中が、一瞬で白に塗り潰された。熱とも音ともつかない衝撃が頭の奥まで貫いて、足元が消える。
何が起きたのか理解するより先に、身体が宙に投げ出されたような感覚があった。
そして次の瞬間、俺は土の上に倒れていた。
……土?
頬に触れているのは、工房のたたきではない。細かな砂が混じった、少し湿った地面だった。鼻に入ってきた匂いも違う。炭ではなく、青い葉と湿った木と、まだ陽を抱えた土の匂い。
目を開ける。
空が見えた。
いや、正確には木々の隙間からこぼれる空だ。見上げる先には高い梢が幾重にも重なっていて、その間を春とも夏ともつかない柔らかな光が落ちている。耳に届くのは鞴の音ではなく、どこかで鳴く鳥と、葉擦れと、虫の羽音だった。
しばらく、俺は瞬きもせずにそれを見ていた。
理解が追いつかなかったわけではない。むしろ逆で、分かりたくなかったのかもしれない。工房にいたはずだ。炉の前にいたはずだ。金床も、師匠の怒鳴り声も、壁際の道具も、全部そこにあったはずなのに、今はどこにもない。
身体を起こす。幸い、手足は動いた。骨が折れている感じもない。着ている作業着はそのままだ。腰の革袋もある。中を探ると、小さな火打石と小刀、布切れ、紐、それから普段なんとなく持ち歩いていた鉱石の欠片まで入っていた。
妙なところだけ現実的で、逆に腹が立つ。
「……は?」
声に出してみたが、聞き返す相手はいない。木が黙って立っているだけだった。
夢かと思った。頬をつねる趣味はないのでやらない。代わりに近くの木の幹に触れてみる。ざらついた樹皮の感触が掌に返ってきた。生々しいほど現実だ。
普通なら、ここで混乱するのだろう。
叫ぶとか、走り回るとか、助けを求めるとか。少なくとも、自分がどこにいるのかを真っ先に考えるべきだ。道はあるか、食べられるものはあるか、水はどこだ、獣はいるか――そういうことを。
なのに、俺の頭に最初に浮かんだのは別のことだった。
この土は、炉床に使えるだろうか。
自分でもどうかしていると思う。だが、そう思ってしまったものは仕方がない。
俺はその場にしゃがみ込み、地面の土を掬った。粒の細かさを確かめる。指でこねる。少し粘る。砂が多いが、全然駄目というほどではない。もう少し粘土質の土が近くで見つかれば、炉床は組めるかもしれない。
次に周囲の石を拾ってみる。灰色のもの、黒みがかったもの、川磨きされていない角のある石。いくつかは脆いが、硬さのある石もある。炉壁に使えるかもしれない。少なくとも、熱に当ててすぐ崩れるような顔はしていない。
木も見る。幹のまっすぐなもの、節の多いもの、樹脂の匂いが強いもの。薪に向くか、炭にしたらどうなるか、自然とそんな見方になる。
我に返ったのは、そんなことを何分か続けてからだった。
「……何やってんだ、俺は」
さすがに口に出して、自分で少し引いた。
ここがどこかも分からない。工房に帰れるかも分からない。人里が近いかどうかも知らない。それなのに土をいじっている。頭がおかしいと言われても否定できない。
けれど、逆に言えば、土と石と木があるなら何とかなるとも思った。
鉄がなくても、今すぐ刀が打てなくても、火は起こせる。火床と金床があれば、生きていける。少なくとも俺は、そういう人間だった。人の輪に入ることも、都会で器用に立ち回ることもできなかったが、火と鉄のそばにいる限り、どうにかやってこれた。
世界が変わっても、それはたぶん変わらない。
そう思うと、不思議と息がしやすくなった。
まずは水だ。
耳を澄ます。微かな流れの音がする気がした。風の向きと地形を見て、低くなっている方へ歩く。森の中は思ったより明るかったが、人の手の入っていない気配が濃い。膝まである草、絡む蔓、時おり感じる獣の気配。だが、しばらく進むと、小さな沢が現れた。
水は澄んでいる。掌で掬って匂いを嗅ぐ。泥臭さは薄い。口に含むと冷たかった。うまい。少なくとも今の俺には、それで十分だった。
水場の位置を頭に叩き込んでから、俺は少し高くなった場所を探した。雨が来た時に水が溜まらず、なおかつ水場が遠すぎない場所。理想を言えば風通しがよく、背後を取られにくい場所だ。そんな都合のいい場所がそうあるかと思ったが、森の端に岩のせり出した小さな斜面があって、その下だけ木々の開けた場所があった。
岩が庇になっている。完全ではないが、今夜をしのぐくらいなら使える。
そこを今日の寝床候補に決めて、陽が落ちる前に火を起こす準備を始めた。乾いた枝を集める。細いもの、指ほどのもの、腕ほどのものと分けて置く。火打石を打ち、布切れに火種を移し、息を吹き込む。じわりと赤くなった火が草と小枝に移って、やがて小さな炎になった。
その炎を見た瞬間だった。
胸のあたりに張りついていた、名前のつかない硬さが、ようやく少し緩んだ。
「……ああ」
焚き火なんて、普段なら工房の炉に比べれば玩具みたいなものだ。熱も弱いし、火の質も荒い。だが今の俺には、それがひどく頼もしく見えた。
火がある。
火は嘘をつかない。近づけば熱いし、放っておけば消える。ちゃんと面倒を見れば応えてくれる。工房の炉と同じだ。
膝を抱えるようにして焚き火の前に座る。ぱち、と枝が爆ぜる音がした。
その音を聞きながら、俺はようやく自分の状況を少しだけ認めた。
たぶん、ここは日本じゃない。
少なくとも、俺の知っている場所ではない。あの白い閃光が何だったのかも分からないし、どうしてこんな森に放り出されたのかも分からない。明日になれば元に戻る可能性だって、ないとは言い切れない。
でも、戻るかどうかを待って立ち尽くしていても仕方がない。
やることは決まっている。
雨風をしのげる場所を整える。水場を確保する。使える土と石を探す。炉を作る。道具を作る。できれば金床の代わりになる鉄塊か硬い石を見つける。話はそこからだ。
寝床より先に炉が欲しい、というのは我ながらどうかと思う。だが、そうしないと落ち着かないのだから仕方がない。柔らかい布団より、まともな火床の方がずっと欲しい。人として何か欠けている気もするが、今さら直るものでもない。
焚き火に枝をくべながら、ふと顔を上げた。
夜の気配が少しずつ降りてきていた。空の色は濃くなり、木々の輪郭もゆっくりと影へ沈んでいく。その向こう、森の切れ目のさらに先に、崖のようなものが見えた。
夕暮れを受けたその崖肌は、ところどころ赤茶けていた。
ただの土の色かとも思ったが、妙に目を引いた。赤い。湿った赤ではなく、乾いた鉄錆に似た赤だ。斜面の筋の出方も、単なる土崩れには見えない。地層の表情に、見覚えのある気配がある。
俺は立ち上がり、目を凝らした。
遠い。今から行くには暗すぎる。だが、あれは――。
鉄分を含んだ地層かもしれない。
もしそうなら、この森はただの遭難場所じゃない。生き延びるための場所から、鍛冶場になり得る場所へ変わる。
胸の奥で、さっきまでとは別の熱が静かに灯った。
工房からいきなり見知らぬ森に放り出された。状況は最悪だ。まともな寝床もなく、腹も減っている。明日の保証なんて何もない。
それでも、あの赤を見た瞬間だけは思った。
「……悪くない」
焚き火が、ぱちりと鳴る。
俺は炎の向こうにある夜の森を見た。
ここがどこの世界でもいい。帰れるかどうかも、今は考えない。まずは火を絶やさないことだ。炉を作る。そうすれば、たぶん俺は生きていける。
異世界だろうが何だろうが、やることは一つしかない。
鉄を打てる場所を作る。
そのために、明日はあの赤い崖を見に行こう。
そう決めたら、ようやく本当に腹が据わった気がした。
夜の森は静かだった。だが、焚き火の前に座る俺の心の中には、久しぶりに炉へ火を入れる前みたいな、乾いた期待が小さく燃え始めていた。




