第5話 修学旅行2.0
「……ちょっと提案があるんだけど、いいかな?」
彼女は肩に力が入り、緊張したように自分の右腕をさする。
「どうした?」
「その……言っても怒らないでほしいな」
ひと悶着が終わった今は3時過ぎ。駅前のバス停では待つ人たちの列が次第に延びていく。
「もし嫌だったら断ってね」
話し出そうとする犬井さんはしきりに指をモジモジさせ、落ち着きなくあちこちを見たりと落ち着かない様子だった。
「あのね。私……こんなことになっても、まだ修学旅行を諦めたくないんだ」
「そうは行ってもなぁ……」
彼女の気持ちは分かる。しかし、諦めるしかないのが現実だ。
クラスメイトを乗せたバスの行き先が分からない。
泊まるホテルがどこかさえ分からない。合流なんてもってのほか。
「この先の予定が何も分からないんじゃ、どうしようもないだろ?」
事実上続行不能、それが現実。
「……うん、だからさ」
犬井さんは一呼吸置くと、顔を赤くしながら口を開いた。
「改めて、修学旅行をしない? 一緒に、私たち二人だけでさ……行くところも、泊まるところも、二人で決めてさ」
言い終えた直後、犬井さんの顔は真っ赤になり、まつ毛に宿る微かな涙がきらめいた。
「まぁ、私にお金はないんだけどね……あはは」
『……訳があって私、お金がないんだ』と、梅が枝餅の時の彼女の発言を思い出す――
「それって……あぁ、なるほどね」
――僕が負担するのか。
「まぁ、額的に行けそうだもんな」
「……うん」
僕は今、一体どんな顔をしているのだろう。
犬井さんは顔をさらに赤くして俯き、ぎゅっとスカートの裾を握る。
「まぁ何というか、あれだな。うん」
遠慮を知らない提案だな、と思った。かなり控えめに言って。
「……あはは。分かってるよ、ズルいよね」
犬井さんは俯いたまま、これ以上なく気まずい愛想笑いをした。
「だからさ……」
彼女が一変して立つ瀬が無く、弱々しく縮こまっていく姿は直視できなかった。
あまりの居心地の悪さに目を逸らす。
「……」
「……百瀬くん。お願い」
犬井さんが身をこちらに寄せ、迷子の僕の手にひんやりとした手が重なる。
「お金は出せないけどさ、その代わりに……なんて全然足りないかもしれないけど――」
心臓が激しく打ち、あまりの強さで胸を破って飛び出すような錯覚に思わず顔を向けてしまう。
死にそうなくらい必死な表情を浮かべ、互いの吐息が頬を掠めるほどの距離で彼女は上目づかいに僕を見つめる。
「――百瀬くんのお願いを何でも聞く……なんて、どうかな?」
「ッ!?」
彼女はニコッと笑って見せる。
極限状態、絶望的、自暴自棄なんて生ぬるい。今の彼女を表せる語句が僕の辞書にはない。
それに、なにより――恐ろしい。なんでこんな状況で笑えるんだ。
「そ、その……」
「いつだって言うことは聞くし、肩たたきだってする! 迷惑も掛けないし、荷物持ちもするっ!」
上げた口角を震わせながら、彼女は破滅的な提案を重ねていく。
「絶対百瀬くんが楽しいって思えるように頑張るし! 嫌になったら途中で捨てたって――」
――ヒクッと苦しそうにつっかえ、彼女の右目から一粒の涙が零れる。
「い、犬――」
「それじゃ、だめ……かな? じゃ、じゃあ……」
遮られて彼女の耳には届かない。
彼女は覚悟を決めたように胸元をギュッと握り絞め、奥歯が砕けんばかりに歯を嚙み締める。
「……え、えっちなこと、だって」
「はぁ!?」
上がった声に怯えた表情の彼女は肩をビクッと震わせる。
置いて行かれたことも、彼女と一緒にいることも望んでいない。
けれど、こんなことはもっと望んでいない。
「いや、それは――」
「ダメかな? ほんとのほんとに、言うこと何でも聞くから……」
震える声、震える手。
「だから、お願いします……ずっと行けなかった修学旅行の、夢を見たいの」
諦めの境地のような空気が漂う。
彼女の声はどんどん細く、脆くなっていく。
「……じゃあ、そうだな」
晩冬の寒さの中、嫌な汗が背筋をツーッと流れていくるのが分かる。
答えがどちらにしろ、ただ答えるだけでは彼女を傷つけてしまう。
それに長引けばお互い嫌な気分になるのは必至だ。
「僕の旅行に付き合ってくれないかな、ただの友達として」
気の利いた言葉を言うために頭を急いで回したせいで知恵熱でも生まれているのだろうか。
脳みその奥を強く握られるような痛みと吐き気が強くなってきてる。
「……う、うん」
……どうして僕はこんなに気を遣わないとならないのだろう、こんな出会ったばかりの人間に。
「じゃあ、お願いも終わったことだし、泊まる所はどこにしようか?」
「えっ?」
拍子抜け、と顔に書いたような彼女の表情は分かりやすかった。
そのまま話をぶり返さないために僕はスマホに目線を移す。
疲れで内容は全く頭に入らないが……これ以上話すよりは何倍もマシだ。
「お願いって、それだけ?」
「聞いてもらえる願いは1個って相場が決まってるだろ。気にする必要はないよ」
「でも……釣り合ってないよ。そのお金を貯めるの、苦労したでしょ?」
犬井さんは袖を握って、本気で心配している目で僕を見る。
「……私、役に立ちたいの。そうじゃないと……私、ここに居ちゃダメじゃん」
力なく笑いながら、当然のことのように彼女は言った。
「それに……これじゃズルだよ。だから私のことなんて気にしないで、ね?」
どうすればいいか分からないまま目線が上がり、気が付けば通りをボーっと見つめていた。
もう30分以上、ここで話していると思う。おまけに半分以上がネガティブな話し合いだ。
出会ったときのウンザリするくらい明るかった犬井さんはどこへ行ったんだろう。御神牛を撫でていた時や、お賽銭の時、調子に乗った時の犬井さんは。
「じゃあ――」
片方は自殺しようとして、もう片方は自殺を止めて――それが今は逆転している。
「――笑ってよ、犬井さん」
「あはは、そんなこと言って……」
「本気で行ってるんだよ、僕は」
「えっ?」
僕は嘘を……吐いているんだろうか?
嘘と言い切れない。本心ではあるからだ。とは言え本音とも言いたくない。
犬井さんと出会ってから僕は分からないことばかりに直面する。彼女について、自分自身について。
今もこうして、自分が自分じゃなくなっている。
果たして僕の顔は今、何を浮かべているだろう。
「犬井さんは自分の事を低く見積もりすぎなんだ」
「……そんなことないよ」
「なら犬井さんが分かっていないだけだよ……君の思う以上に、大いに」
説教臭いことを、なぜ僕は偉そうに喋っているのだろう。
気が付けば乾いた口が勝手に開いて、舌が躍って、喉が震えていた。
「だから……つまり、とにかく笑って欲しいんだ。辛い表情はもうこりごりなんだ」
言い終えた後になって、ようやく自分が言ったことの内容が分かる。
……自殺とか関係なしに死にたくなってくるな、クソっ。
我に返ったときには犬井さんはポカンとしていた。それから彼女はキョロキョロ辺りを見回す。
「……そ、それって、こ、告白?」
「違う」
自分の世界から抜け出すと、真正面ではバスを待つ長蛇の列があった。よりによって目と鼻の先に。
その列からクスクスという笑い声が聞こえる。
一体、何人に聞かれたのだろうか……今は考えないでおこう。
「アハハ、顔真っ赤! あ~恥ずかしい」
「……そっちこそ」
犬井さんは恥ずかしそうに顔を隠して、ずっとクスクス笑っている。
「えへへ……そうなんだぁ……」
ふと見ると、彼女の左目から一粒の雫がポロリと流れていた。
そうして、また沈黙が生まれた。けれど、さっきのように気まずくはない。
心地いいと言うつもりもないが……とにかくマシだ。
「ま、まぁとにかく、旅費は気にしないでよ。あと、えっちなことは絶対に無しだ。僕らは対等だ、いいな?」
「う、うん、分かった」
僕らだけでの旅行か。死ぬ前にこんなこと、冗談じゃない……けれど、胸糞悪い思いをするくらいなら仕方ないか。
彼女が……こうして笑っていられるなら。
お茶屋を出たころはセーターが欲しくなるくらいの寒さだったのに、それが今、僕は暑さで首に汗をかいている……一体いつ、気温が上がったのだろうか。
◇
「犬井さんはどこか行きたいところはあるか?」
僕らは落ち着いてからも相変わらずベンチに座ったままでいた。
「ん~~っとね! 京都! 大阪! 名古屋県!」
「今日泊まる場所って意味だ。それと名古屋県じゃない、愛知県だ」
「ごめんごめん! それならね……」
犬井さんは腕を組んで深く考えだしたが、しばらくすると唸り声をあげた。どうやら、頭がオーバーヒートしたみたいだ。
「ううん……分かんないや」
「分からないって、何が?」
そう聞くと、彼女は指をモジモジとさせだした。
「じゃあ、笑わないでよ?」
「笑わないよ」
彼女は深呼吸をすると、首の後ろに手を当てて言った。
「私、地理が苦手でさ。ここが何県だかも……忘れちゃって」
「おい……でも、それくらいは大丈夫だろ。僕も県庁所在地は半分くらいは忘れたし」
「それはもっと分かんない」
「何だって?」
そのレベルで一体どうやって高校に受かったのだろう?
「ま、まぁ、いいや。なら今日は僕が決めてもいい?」
「うん! お願い!」
そうして一泊する場所を探すため、近場の宿泊施設を検索する。
太宰府から近く、アクセスが良く、かつご飯が美味しいところ。観光は……時間的に無理だから考慮に入れない。
それで、場所は思いのほかすぐに決まった。
「じゃあ、博多に行こう」
「博多って?」
「……ラーメンが有名な所だよ、何でも美味しいらしいけど。バスで一本なんだ」
「ラーメン! いいね!」
ラーメンという単語に犬井さんは目を輝かせていた。心なしか口元も輝いているような気がしたが、口を拭うとそれは消えた。
「でさ、どのバスなの?」
「丁度ここに来てる――」
『他にご乗車の方はいませんでしょうか』
指さす先で、無機質な運転手さんのアナウンスが聞こえる。
『ドア、閉まります』
「「あっ」」
プーッと発車を知らせるクラクションが鳴ると、無慈悲なエンジン音と共にバスは時刻通りに消えていった。
……公共交通機関はもう少し人情を知るべきだ。
しかし、逃したものはどうしようもなく肩をすくめる。
何というか、僕らはバスに縁がないのかもしれない。
「アハハ、また行っちゃったね」
「……とりあえず並ぶか」
「そうだね」
僕らはベンチから離れ、赤と黒の二色からなる太宰府の駅舎の前に立った。
一体どれくらいの時間、あのベンチを占有していただろう。
こうして僕らはバスに置いて行かれる不幸に再度見舞われたが、悪い気分ではなかった。
こう落ち着いていられるのは、待てば次のバスが来るから……だと思う。




