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第17話 零れた醤油と言葉

「やっぱりすごいね……」


 テーブルに広げた『京阪神・名古屋』の雑誌に、犬井さんは釘付けになっていた。一方で、『山陰・山陽』については「よく分からない」と、そこまで読んでいなかった。


「じゃあ、京都と大阪と名古屋は決まりって感じか」

「えっ、いいの!?」


 犬井さんは期待に目を輝かせている。


「あぁ。大阪と名古屋は行ったことないし、京都はまた行きたい」


 京都は中学の修学旅行で行ったが、東寺周辺のこげ茶と黒、石畳の灰色でまとまった街並みは荘厳な雰囲気が漂っていて、すごく良かった。


……1人でも浮かなかったし。


「えっ! 百瀬くん、行ったことあるの?」

「中学の修学旅行で1度なら」

「あっ、そうだね……あはは、忘れてた」


 そう言ってごまかすように笑った犬井さんの表情は、どこか硬かった。


……犬井さん、中学の修学旅行は行けてないとか言ってたな。


 どうやら僕の想像以上に彼女は気に病んでいたみたいだ。あまり話すべきではなかったかもしれない。


「……とりあえず、後半の3日でそれらを回るとして、今日と明日はどうする?」

「他は無いかな、よく分かんないし。でさ、百瀬くんはどこに行きたいの?」


 僕か……行きたい場所は正直ないが――


「山口か広島……かな」


――正直、もう疲れた。だから近場がいい。


「広島! いいね! 修学旅行っぽい! それと、山口県ってどんなところ?」

「福岡の上で――」


「お待たせしました!」


 説明しようとしたとき、茶色のエプロンと頭巾を着けた店員さんがやってきた。

 他の店と比べてやや空いていたこと、それと僕が九州の魚介を食べてみたくて、僕らは海鮮丼の店で昼食をとることにした。


「スペシャル丼が2つですね! ある程度食べたら、お出汁をかけてお茶漬けにしてお召し上がりください。ごゆっくりどうぞ!」


 そう言って、店員さんは急須を置くとカウンターに戻っていった。

 お盆の上にはセットでついてきた味噌汁と黒蜜プリン、それとメインの丼が載っている。

 みずみずしいマグロと見るからに油の乗ったサーモン、ねぎとろ、ブリ、鯛、イカ、イクラ、卵……スペシャルと冠するだけあって、色鮮やかな具の数々に埋め尽くされていて、下の米が見えない。


「……すごいね」


 犬井さんは頭が追いついていないみたいに口を開けて、ただ固まっていた。


「そうだな」

「こんな豪華なの、私なんかが食べちゃっていいのかな……」

「何のために頼んだんだ、安心して食べろ」

「そういうことじゃないけど……じゃ、じゃあ」



「「いただきます」」



 卓上の醤油を少しかけ、マグロと米を掬って口へ運ぶ。


「……ん?」


 醤油は砂糖が入っているのか、ほんのりと甘い。醤油が甘いのは少し慣れないが、タレとしてなら悪くない。

 けれど、そんなことは些細なことでしかなかった。


 肉厚なマグロは舌に触れた瞬間、これまで食べてきたものとは別物だと分かるくらいの旨味で襲ってくる。

 マグロに押されて主張が控えめな米は硬めに炊かれていて、口の中ではらりと解ける。あっさりとしているが、噛むと優しい甘みが少しずつやってくる。


「すっご……なにこれすごい美味しい」


 目を見開いている犬井さんは口元を押さえて、また固まっていた。

 口元を抑える。ただそれだけのことが、今は服装も相まって、とても上品に見えた。

 昨日のラーメンやカフェの時なんか、こんな所作はしなかったのに……所作が服装に引っ張られているのだろうか?


「……そうだな、本当に美味い」

「ねっ!」


 彼女は何か上手いことを言おうとしていたが語彙が足りなく……足りないのはもともとか。

 まぁ、言葉が浮かばなくなるのは分かる。実際、それくらい美味い。


「ねぇ、百瀬くん! お醤油、私にも貸して!」

「はい」


 僕が手渡すと犬井さんはさっそく醤油をかけて、また一口分を口へ運んだ。


「うふふ……」

「どうした?」


 咀嚼をしながら、犬井さんはクスクスと笑っていた。


「あっ、なんでもないよ! ただ美味しすぎて……訳分かんなくて、笑っちゃっただけ」

「……へぇ」


 食事で思わず笑うという感性はよく分からないが、まぁ、そういう人もいるのだろう。


……この先も、こういう美味しい店で食事をするのは、悪くないかもしれない。


 それにしても、服が違うだけで人はこうも変わるものなのか。


「……口に醤油がついてるから、落ちる前に拭けよ」


 いや、僕の目がおかしくなっているだけだ。服ごときで変わるなんてある訳ないだろ。


「大丈夫だって! 百瀬くんったら心配しょ――」


 彼女の唇についた醤油は、だんだんと雫型に形を変えて――


「あっ……ぶないな!」


――案の定ポロリと零れたが、何とか手で受け止めることができた。


「ほら見ろ!」

「ご、ごめん……」


 手のひらの醤油を見せると、犬井さんは少しシュンとした。

 あと一歩でエラいことになるところだったな。とにかく、犬井さんの服に付かずに済んでよかった。



「気を付けろよ、せっかく服が似合って……」



「えっ?」

「は?」



「服、私が、なんて?」

「……」

「百瀬くん?」


 犬井さんはまた驚いて、僕はおかしくなった。

 本当に、僕はおかしくなっている。


「ねぇねぇ! 百瀬くん! 顔赤いよ?」

「……べつに」


 顔を背けてみるが、「おーい」と彼女は僕の顔の前で手を振りだす始末。


「これ似合ってる!? 可愛い!? どう!?」


 犬井さんは有頂天で、もう手が付けられない。大きくなった彼女の声に、店中のお客さんの目がこのテーブルに釘付けになっている。



「……似合ってるよ」

「えへへ……ありがと!」


 屈辱だが、丸く収めるにはこれしかない……言いたくはなかったが。


 犬井さんは顔をのぼせたみたいに赤くして、落ち着かない様子でユラユラ肩を揺らしている。

 やっぱり、馬子は馬子だ。上品なんてありはしない。犬井さんは犬井さんだ、畜生め。


 手に付いた醤油は……拭く、ナフキンで、これでもかと、嫌味なくらいに。



 はぁ……恥ずかしいな、クソッ。





「ごちそうさま! 美味しかったね!」

「……そうだな」


 食べ終えた僕らは会計を済ませて、足早に店を出た。


 海鮮丼についてだが、正直、美味しかったかどうかはあまり覚えていない。

 もちろん、一口目は美味しかった。けれど、その後の出来事のせいで味覚が上手く働かなかった。

 味噌汁がしょっぱかったのだけは覚えている。プリンは知らない。


 それと店を出てからというもの、犬井さんは僕のすぐ横を歩いている。それこそ紙一枚も入らないくらいの近さだ。

 おまけに、腕を後ろで組んで僕の顔を覗きこんだり、かと思えばつま先を軸にクルリと回ってスカートをはためかせたりと、上機嫌この上ない。


 さっきからターンする彼女の手にはバッグが握られていて危なっかしい。

 こんな行動をする上に彼女のルックスもあって、どうしても通り過ぎる人の注目を集めてしまう。


……それだけ、美人というか――


「とりあえず、今日は山口県に泊まるので大丈夫か?」


――切り替えよう。全く、変なことは考えるもんじゃない。


「うん! 行こっ!」


 犬井さんは僕の前に出てきて、ニコッと笑った。


……早く駅へ行こう。犬井さんの言動で変な注目を集めて、こっちは動悸までしてきた。


 それもこれも、ここの居心地が悪いからだ、きっと。

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