第12話 嵐の家出少女 遥野(21)
「んん、ぅ……」
ピピッと電子的な音が聞こえる。もう朝か……
眠気はスッキリ取れている。こんなにぐっすり寝られたのはいつぶりだろう。
目を擦ろうとするが、何かに引っかかるようで腕が顔に届かない。
毛布を剝がそうとしてみるが、押さえつけられていて腕がうまく動かない。
どうしてだ?
体がだるい……わけではない、疲れはきちんと取れている。多少寝ぼけているとはいえ頭も働く。
何というか、体が重い。比喩ではなく本当に重い。特に腕が。
そうだ、犬井さんを起こさないと――
「あぅッッ!!」
向きを変えようと頭を動かした途端、ゴツンと硬い何かにぶつかった。それに伴って小さなうめき声がする。
腕と背中から何かがふわりと離れた感覚の後、腕がスゥッと冷たくなった。
「もっ、百瀬くん、おはよぉ……」
「……おはよう――痛っ!」
腕が軽くなり、ようやく向きを変えると犬井さんは涙目で鼻を押さえていた。どうやら、僕の頭が犬井さんの鼻にぶつかったみたいだ。
そして、腕が痺れだす。二の腕から先の感覚が完全に無く、ゴム製のマネキンの腕みたいだ。
……朝から鼻をぶつけたり、腕が痺れたりと何かが変だ。何か、致命的な原因が隠れている気がする。
「……とりあえず、顔を洗ったらチェックアウトをしようか。それと、鼻はごめん」
「そ、そうだね! あと、鼻は大丈夫! あっ、でも――ッ!?」
犬井さんは突然、歯を食いしばった。
「う、腕がすごく痺れちゃって……辛いから待って?」
「わ、分かった。僕も痺れてるし」
犬井さんの右目から涙が一粒、ぽろりと零れた。
何で犬井さんまで痺れるんだ。
原因は犬井さんにある気がするが、やはり分からない。
……まぁ、いいか。
◇
時刻は5時半。顔を洗い、歯を磨き、犬井さんとフロントへ向かう。
「おはようございます。チェックアウトをお願いします」
「おはようございます。ルームキーとお部屋番号をお願いいたします」
手首に着けたカギを受け皿に乗せる。
「742番です」
「少々お待ちください……ご宿泊はお一人さまでお間違いないでしょうか?」
「はい?」
どういうことだ、犬井さんもいるじゃないか?
「いえ、ふた――」
――いや、違う! 遥野さんに『一人』として泊めてもらったんだ。
「はいッ、一人ですッ」
「えっ……」
振り返ると、犬井さんは「私は?」とでも言うように自分のことを指さしていた。
……バレるだろうが。
「一人ですよ、一人部屋ですし。二人はないですよ! ええ、二人はない!」
「では、そちらの方は?」
また振り返る。「あっ」と犬井さんは察したようだった。
「……知らない人ですね」
「えっ……」
「はぁ……分かりました。」
またしても犬井さんは声を出した。捨てられた子犬みたいな表情をして、一体何に傷ついているんだ。
フロントの方は目を細め、訝しげに僕らを交互に見た。やがて面倒になったのか、あるいは何かを察したのか、小さくため息をついた。
「チェックアウトのお手続き完了しました、こちらがご利用明細書になります」
「はい、ありがとうございます」
「お忘れ物はございませんか?」
ポケットに手を入れる。スマホに財布、充電器、ちゃんと全部ある。
犬井さんについては……知らない。心配する素振りを見せたら、不審がられる。
「ないです、お気遣いありがとうございます」
「ご確認ありがとうございます。では、ご利用ありがとうございました、またのご利用お待ちしております。」
「こちらこそ、お世話になりました」
「お次にお並びの方……えっ?」
フロントの方に頭を下げて、僕らは早足でホテルを後にした。
犬井さんが真っ直ぐについて来てバレそうになったが……もう気にしないことにしよう。
◇
「ぶぅ……」
5時半の博多の街、駅ビルの窓に反射する日光が眩しい。僕らの歩く通りに人はおらず、駅前にはタクシーが数台。人も数える程度しか見えない。
ようやく落ち着けると思い、深呼吸をする。
夜が明けてすぐの温まっていない空気が肺へ集まって気道がひんやりとする感覚が心地いい。
「ねぇ、百瀬くんひどくない? 知らない人ってさ!」
ホテルから抜けて歩いていると、犬井さんは頬を膨らませて抗議をし始める。
「仕方ないだろ、バレたらどうなるか分からない」
「それは……そうだけどさ!」
彼女が不満げに答えた時、向こうから見覚えのある姿が近づいてくる。
「よぉ、二人とも」
「「遥野さん?」」
黒いセーターに白いダウン。深い灰色のふくらはぎに届くスカート。細いチェーンのネックレス、ピアス、カールのかかったポニーテール。
スーツ姿の時とは印象が大きく違う……目つきは鋭いままだが。
「これからお仕事ですか?」
「デート。野郎にカフェでケーキ奢らせて、食ったら帰るんだよ」
「へ、へぇ……」
鼻で笑っていた。相変わらず色々強いな。
しかし、デートにしては時間が早すぎないか……したことないから知らないけど。
「早いですね」
「あぁ、渡すものがあるからな」
そう言って遥野さんはバッグに手を入れ、クリアファイルを差し出した。
「二人とも、連絡先を教えろ。それと、はい犬井ちゃん」
「? 何ですか、これ?」
「未成年の保護者同意書。旅行するならこれがないとダメだからね」
「ありがとうございます! ……って、なんか名前が書いてありますけど」
同意書を見せてもらうと、キッチリした書式の用紙にボールペンの筆跡で保護者の欄に確かに『犬井 咲』と書いてある。
「それはウチの名前。犬井ちゃんの姉ってことにしてくれれば、連絡が来ても対応するから」
「えっ、いいんですか!」
「うん、楽しんできな。もしもっと必要だったら、それをコンビニとかでコピーすればいけるから」
いやいや、まずいだろ。苗字を詐称するなんて。
「それ大丈夫なんですか?」
思わず聞いてしまった。
「バレなきゃな。ってか、お前が言えた立場じゃないだろ、年齢詐称」
「うっ……」
「それとモモセ。お前には同意書のデータ送るから、親に書いてもらいな」
そうして、犬井さんはニコニコしながらRUINの画面を見せた。
僕は……正直あまり連絡先を送りたくない、面倒な予感がする。
……が、結局は抗えずに僕も連絡先を送った。
「とりあえず、これだけあれば旅行はなんとかなるだろ」
「ありがとうございます! 遥野さん!」
「いいのいいの!」
犬井さんが目を輝かせているのを見て、遥野さんは照れくさそうに頭を掻いた。
「本当に、泊めてもらったり同意書だったり、こんな面倒を見てもらって助かります」
「ん? あぁ、いいんだよ」
遥野さんはこっちを見ると、表情を硬くした。
多分、僕のことが苦手なんだろう。理由は分からないが、まぁ仕方ないか。
「じゃあ、時間だしそろそろ行くわ」
「うん、またね! 遥野さん!」
「それでは、またいつか」
犬井さんと僕は手を振って別れようと――
「あっ、そうだ。なぁモモセ」
「えっ」
――遥野さんは思い出したように僕を指さす。
「お前の親父さんってどこで働いてる?」
「はっ、え? どうしてですか?」
「いいから」
遥野さんはどんどん距離を詰めてくる。思わず緊張してしまう……ドキドキというより、恫喝の類いとして。
「たしか、出版社です」
「大手? 親父のポストは?」
「まぁ……それなりだと思います」
それを聞くと、遥野さんはバッグから手帳を取って書き込むと、千切って僕に押し付けた。
「これ、ウチの連絡先。無くすなよ、親父さんによろしくな」
「は? どういうことですか?」
訳が分からず僕が聞くと、遥野さんは僕の肩を叩いて言った。
「ウチ、そろそろ上京したいんだよ。まぁ、つまりは売り込みだな」
「いや、僕に頼まれても……」
遥野さんはずる賢そうにニヤッとすると、劇でも演じているような大げさに身振りで――
「規則を曲げて泊めたよな? あれ、これから面倒なんだぞ」
「は、はぁ」
「それに同意書も書いたよな? 見返りくらい、あってもいいだろ?」
なんというか、すごい面倒事の予感がする。
「昨日の宿代なら払いますし、朝食とかでよければ出しますよ」
「いいっての! それよりも、もし人手が空いたら連絡するよう親父さんに言ってな。部署とかは問わない、何でもやるって言ってくれよ」
「え、ちょ……」
「頼んだぞ、モモセ!」
そう言うと、こっちが言い切る前に遥野さんは風のように走り去っていく。
……来た道を引き返していった気がするが、本当にデートだったのだろうか?
「えぇ……」
「行っちゃったね」
嵐のように去った後を、犬井さんはボーッと見ていた。
「遥野さん……カッコイイね」
「ま、まぁ、そうだな」
「私もあんなふうになれるかなぁ?」
「それはやめておいた方がいいと思う」
何というか、あんなに逞しいというか、したたかな人はこの世に一人だけでも多すぎるくらいだと思う。
「ねぇ、百瀬くん。今日はこれからどうするの?」
「そうだな……」
時刻はちょうど6時。とりあえずは……
「ちょっと歩いたら、カフェで朝食でも食べに行くか」
「やったぁ、朝ごはん! ちょうどお腹空いてたの!」
よっぽど嬉しいのか、犬井さんはぴょんぴょんと飛び跳ねだす。
カフェで食べながら、この先の計画についても考えよう。
何泊で帰るか、行く場所はどうするか、着替えについて。




