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【さらに追記しました】結婚して3年経っても子供ができないという理由で離縁されたエマは、前世の記憶を思い出して幸せになる。周りが勝手に復讐してくれました。

作者: 山田 バルス

 結婚三年目の春だった。


 午後の光が、モナコラ伯爵邸の居間にやわらかく差し込んでいる。磨き上げられた床に、レースのカーテンの影が揺れていた。エマは、いつものように紅茶を用意して、夫の向かいに腰を下ろした。


 アンドレオ=モナコラ。二十七歳。伯爵家の嫡男であり、エマの夫。


 その横顔が、いつもより硬いことに、彼女は気づいていた。


「……話がある」


 その一言で、胸の奥がひやりと冷えた。


「両親から言われたんだ。

 ——側室を迎えろ、と」


 言葉は淡々としていた。まるで、天候の話でもするかのように。


 エマは一瞬、意味を理解できなかった。

 側室。

 それは、子をなすための女。


「……私では、足りないと?」


 声が震えないように気をつけたつもりだったが、自分でもわかるほど、弱々しい声だった。


「いや、そういう問題じゃない。伯爵家には、跡継ぎが必要だ。三年経っても子ができない以上……」


 その先の言葉は、聞かなくてもわかった。


 エマは、ゆっくりと紅茶のカップを置いた。指先が、かすかに震えていた。


「私は……奥方として、失格なのですね」


「……」


 アンドレオは答えなかった。

 それが、答えだった。


 数日後、エマに突きつけられたのは、離縁状だった。


 理由は簡潔だった。

 「世継ぎをなせなかったため」


 荷物は最低限にまとめられ、使用人たちは目を合わせようとしなかった。かつて「奥様」と呼んでくれた声が、今はもうない。


 屋敷の門を出るとき、エマは一度だけ振り返った。


 三年間、妻として生きた場所。

 笑顔を作り、祈り、耐えてきた日々。


 それらはすべて、「無価値だった」と告げられたのだ。


「……大丈夫よ」


 誰もいない馬車の中で、エマは小さく呟いた。


 けれど、その言葉は、自分自身を慰めるには、あまりにも頼りなかった。


◇ ◇ ◇


屋敷を出てから数日、エマは簡素な宿の一室で荷をまとめながら、ぼんやりと自分の指先を眺めていた。金髪は肩口で揺れ、白い指には、かつて伯爵夫人として許された指輪はもうない。


 ――思い出したのは、もっと別の人生だ。


 前世。

 観光地の片隅で、小さな体験教室を開いていた記憶。


 磨いた石をワイヤーで包み、ペンダントに仕立てる。誕生石や色の意味を語りながら、訪れた人々に「ラッキーストーン」を手渡す仕事。売上は多くなかったが、自分の手で作り、自分の言葉で価値を伝え、喜んでもらえる――それが、何より好きだった。


 冬の帰り道。

 凍結した路面で車が滑り、視界が反転し、次の瞬間には宙に投げ出されていた感覚。


(……あれが、死因だったのね)


 エマは、ひどくあっさりとそう結論づけた。悲しみも恐怖も、もう遠い。むしろ、思い出せたことが救いだった。


 現実に戻れば、離縁の支度金は一銭もなかった。

 「伯爵家の温情」など、最初から存在しなかったのだ。


 貴族の妻として、何も持たず、何も選べず、何も生み出せなかった自分。

 だが、今は違う。


「……行こう」


 エマは決めた。

 このフランセ王国では、貴族女性は働いてはいけない。離縁されても、過去の身分は影のようにつきまとう。


 だが、隣国スペイラ共和国なら話は別だ。

 商業国家で、身分よりも技と才がものを言う国。

 そこでは、元貴族などという肩書きは意味を持たない。


 エマは乗り合い馬車に乗り込み、国境を目指した。


     ◇


 峠道に差しかかったころ、空気が変わった。


「……止まれ!」


 御者の叫びと同時に、馬車が急停止する。

 次の瞬間、木立の陰から数人の男が躍り出た。顔を布で覆い、手には短剣。


 盗賊だった。


 悲鳴が上がり、乗客たちは身を縮める。

 エマもまた息を呑んだ、そのとき――。


「下がってください」


 低く、落ち着いた声。


 馬車の外に立ったのは、護衛の黒髪の男だった。

 ロドリゲスと名乗っていたはずだ。日に焼けた肌、無駄のない動き。


 剣が閃き、盗賊の一人が倒れる。

 無駄な言葉は一切なく、数合で勝負は決した。


 逃げ去る盗賊の背を確認し、ロドリゲスは剣を収めた。


「怪我は?」


「……大丈夫です」


 エマはそう答えながら、なぜか胸が熱くなるのを感じていた。

 助けられたこと以上に、「守られる価値がある存在」として扱われた気がしたからだ。


     ◇


 こうしてエマは、スペイラ共和国へと足を踏み入れた。


 街は活気に満ち、石畳の両脇には露店が並ぶ。布、香辛料、金属細工、宝石。

 人々は身分を問わず、声を張り、交渉し、笑っていた。


(……ここなら)


 最初は、小さな屋台だった。

 安価な石を仕入れ、前世の技術で磨き、ワイヤーで留める。

 石の色や意味を手書きの札にして添えた。


「この石は、旅の安全を願う人に向いています」


 そう説明すると、客は目を輝かせた。


 やがて、「体験教室をしてほしい」という声が上がる。

 子どもから大人まで、石を選び、自分の手で形にする時間。


 エマは、久しぶりに心から笑っていた。


 夜、売上を数えながら、ふと思う。


 伯爵夫人だった頃より、ずっと――生きている、と。


 離縁は、確かに痛みだった。

 だが、それは終わりではなかった。


 金髪のエマは、石に想いを託しながら、新しい国で、新しい人生を紡ぎ始めていた。


 ――スペイラ共和国での、彼女の物語は、ここから始まる。


◇ ◇ ◇


朝の市場は、澄んだ空気と人いきれが入り混じっていた。

 石畳に差し込む光が、露店の金属や宝石をきらきらと照らす。


 エマはいつものように、小さな机の上にアクセサリーを並べていた。磨いた石の腕輪、ペンダント、簡素な指輪。どれも高価ではないが、ひとつひとつに意味を込めて作ったものだ。


「……あ」


 視線を上げた瞬間、見覚えのある黒髪が目に入った。


 ロドリゲスだった。

 あの峠道で盗賊から馬車を守った護衛兵。今日は鎧ではなく、軽装で、剣も帯びていない。


「おはようございます」


 エマが声をかけると、ロドリゲスは少し気恥ずかしそうに頷いた。


「朝からやってるんだな。……繁盛してるみたいで、何よりだ」


「ありがとうございます。まだまだですけど」


 彼は机の上の品を眺め、やがて一つの腕輪に目を留めた。

 深い茶色の石を磨き、細い革紐でまとめた、質素な腕輪。


「これ、なんだ?」


「タイガーアイです。前に進む勇気と、力を引き出す石、と言われています」


「……力、か」


 ロドリゲスは小さく笑い、腕輪を手に取った。


「俺みたいな仕事には、ちょうどいいな」


 代金を支払い、腕輪を装着すると、彼は少し照れたように腕を見つめた。


「似合いますよ」


「そうか?」


「はい」


 短い沈黙のあと、ロドリゲスが咳払いをする。


「……今度、時間があったら、食事でもどうだ?」


 エマは一瞬、言葉を失った。

 伯爵夫人だった頃、誘いは形式ばかりで、心が動くことはなかった。


「……ぜひ」


 そう答えると、胸の奥が、ほのかに温かくなった。


「じゃあ、また」


 彼はそう言って去っていった。


     ◇


 夕方。


 市場が落ち着き始め、片付けに入ろうとしたときだった。


 足音が乱暴に近づき、エマの前に影が落ちる。


「エマ!」


 振り向くと、そこには息を切らしたロドリゲスが立っていた。

 朝とは違い、明らかに様子がおかしい。


「ど、どうしたんですか?」


 ロドリゲスは、腕に視線を落とし、そしてエマを見た。


「……あんたから買ったこの腕輪だが……」


 一拍置いて、真剣な声で続ける。


「これ、魔道具か何かか?」


「え?」


 思わず目を瞬かせる。


「いえ……わたしが作ったものですけど……?」


 ロドリゲスは頭をかき、苛立ちとも困惑ともつかない表情を浮かべた。


「やっぱり、おかしいんだ」


「何が……?」


「訓練場でな。いつものように剣を振ったら、妙に軽い。踏み込みも、打ち込みも……全部、いつもより強い」


 彼は一歩前に出て、拳を握った。


「力が、明らかに増してる」


 エマは息を呑んだ。


「気のせいじゃないのかと思って、仲間に鑑定してもらった」


「鑑定……?」


「ああ。魔力鑑定ができるやつがいてな」


 ロドリゲスは、驚きと興奮が入り混じった声で言った。


「結果は――力の補助効果。数値で言うと、約一・五倍」


 エマの頭が、追いつかなかった。


「……そ、そんな……」


「すごいぞ、エマ」


 ロドリゲスは、はっきりとそう言った。


「こんな腕輪、普通の露店に置いていい代物じゃない」


 エマは、頬が熱くなるのを感じた。


 前世では、石の意味は「気持ちの問題」だった。

 けれど、この世界では――石に宿る力が、現実になる。


(……知らないうちに、魔力を込めていたの?)


 理由はわからない。

 だが、自分の作ったものが、人の役に立った。


「……ありがとうございます」


 エマは、小さく頭を下げた。


「嬉しいです。そんなふうに言ってもらえて」


「いや、礼を言うのは俺の方だ」


 ロドリゲスは少し照れたように笑った。


「約束の食事、絶対に行こう。……その前に、腕輪のお礼も兼ねてな」


 エマは、こくりと頷いた。


 胸の奥に、確かな手応えがあった。


 離縁され、何も持たずに始めたこの国で。

 自分の技が、力が、価値になる。


 夕暮れの市場で、金髪のエマは、恥ずかしさと喜びを胸に抱きながら、新しい未来を思い描いていた。


     ◇ ◇ ◇


 約束の夜は、思ったよりも早く訪れた。


 市場から少し離れた通りにある、小さな食堂。派手さはないが、窓辺には花が飾られ、厨房からは香ばしい匂いが漂ってくる。


「こういう店、嫌いじゃないだろ?」


 ロドリゲスがそう言って扉を開けた。


「はい。落ち着いていて……好きです」


 そう答えると、彼は少し安心したように笑った。


 席に着くと、温かいパンとスープ、香草を効かせた肉料理が運ばれてくる。どれも素朴だが、丁寧に作られているのがわかる味だった。


「……おいしい」


 思わず零れた言葉に、ロドリゲスは満足そうに頷く。


「だろ? 訓練帰りによく来るんだ」


 食事をしながら、他愛ない話をした。市場のこと、訓練の愚痴、最近増えた盗賊の噂。気がつけば、エマは自然に笑っていた。


 食後、温い果実酒が運ばれてきたころ、ロドリゲスがふと真面目な顔になる。


「……なあ、エマ」


「はい?」


「無理にとは言わない。でも、もし話せるなら……あんたのこと、もう少し教えてほしい」


 エマは一瞬、杯を見つめた。


 言うつもりはなかった。

 けれど、言いたい気持ちが、胸の奥で静かに育っていた。


「……わたし、元はフランセ王国の貴族でした」


 ロドリゲスは驚いた様子も見せず、ただ黙って聞いている。


「伯爵家に嫁いで、三年間……子どもができなかった。それだけで、離縁されました。支度金もなく、理由は“世継ぎをなせなかったから”」


 言葉にするほど、胸が締めつけられる。

 それでも、彼の視線が逸れないことが、支えだった。


「努力が足りなかったわけじゃない。祈りも、薬も……でも、結果がすべてで」


 エマは小さく笑った。


「価値がない、と言われた気がしました」


 次の瞬間。


「……クソだな」


 低く、怒りを押し殺した声。


 ロドリゲスは拳を握りしめていた。


「最悪だ。そんな理由で、人を捨てるなんて……貴族だかなんだか知らないが、胸糞悪い」


 その言葉に、エマは目を見開いた。


「……怒って、くれるんですか?」


「当たり前だろ」


 即答だった。


「三年だぞ。妻として生きてきた時間を、そんな一言で切り捨てる? ふざけるな」


 彼は乱暴に杯を置いた。


「……あんたは、ここでちゃんと価値を作ってる。俺は、この腕輪でそれを知った」


 エマの視界が、滲んだ。


 同情でも、建前でもない。

 一緒に怒ってくれる人がいる。

 それが、こんなにも救いになるなんて。


「……ありがとうございます」


 かすれた声でそう言うと、ロドリゲスは照れたように視線を逸らした。


「……で、だ」


 少し間を置いて、彼は言った。


「次は、防御力が上がる腕輪を作ってほしい」


「え?」


「ほら、力が上がるなら、守りも欲しいだろ?」


 冗談めかした口調だったが、その目は真剣だった。


 エマは、思わず笑ってしまった。


「……わかりました。やってみます」


「頼んだぞ」


 そう言って笑う彼を見て、エマは胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。


「それと」


「はい?」


「明日、冒険者ギルドに行った方がいい。正式に鑑定してもらえ。……あんた自身もな」


「え、わ、わたし?」


「ああ。念のためだ」


     ◇


 翌朝。


 エマは少し緊張しながら、冒険者ギルドの扉をくぐった。


 中は想像以上に広く、掲示板には依頼書がびっしりと貼られている。鎧姿の冒険者や、魔術師風の男女が行き交い、活気に満ちていた。


「いらっしゃいませ」


 受付にいたのは、落ち着いた雰囲気の青年だった。

 年は二十代後半だろうか。整った顔立ちで、柔らかな笑みを浮かべている。


「受付のランフォートです。ご用件は?」


「えっと……鑑定をお願いしたくて」


「承知しました。では、こちらへ」


 丁寧な案内に、エマは少し緊張が和らぐのを感じた。


 まずは腕輪の鑑定。

 結果は、すぐに出た。


「……防御力上昇。効果倍率、一・三倍」


「本当に……」


 ランフォートは驚きと感心が混じった顔で言った。


「かなり高品質です。付与も安定している」


 そして、彼はふとエマを見た。


「……失礼ですが、作成者であるあなた自身も、鑑定してよろしいですか?」


「はい」


 言われるまま、魔法陣の上に立つ。


 淡い光が、エマの身体を包み込んだ。


 次の瞬間。


「――え?」


 ランフォートの表情が固まった。


「……聖女、判定です」


「……せ、せいじょ?」


 エマは言葉の意味を理解できなかった。


「正確には、“付与特化型聖女”。あなたが意図せず作った魔道具が高い効果を持つのは、その影響でしょう」


 彼は静かに続ける。


「聖女が付与した魔道具は、効果が現実として発現しやすい。……つまり、あなたの作る腕輪は、本物です」


 エマは、呆然と立ち尽くした。


 価値がないと言われた人生。

 役に立たないと切り捨てられた自分。


 けれど。


 ここでは。

 自分の手が、生き方が、力になる。


 光が消え、ランフォートは穏やかに微笑んだ。


「ようこそ、スペイラ共和国へ。聖女エマ」


 エマは、胸に手を当て、静かに息を吐いた。


 新しい人生は、思っていたよりも――ずっと、輝いていた。


 ◇ ◇ ◇


 聖女エマの名は、瞬く間にスペイラ共和国中に広がった。


 付与特化型聖女――その力は、これまでの常識を大きく覆すものだった。


 エマが作る腕輪や指輪、簡素な護符や武器は、見た目こそ素朴だが、いずれも高い効果を安定して発揮する。しかも、特別な儀式や大量の魔力を必要としない。

 彼女が石を選び、磨き、想いを込めて形にするだけで、それは確かな「力」になる。


 冒険者ギルドは、正式にエマを保護対象とし、彼女の工房を整えた。

 商人たちは素材の供給に奔走し、冒険者たちは彼女の作った装備を身につけ、再び迷宮や魔物の巣へと向かっていった。


 結果は、目に見えて現れた。


 かつては犠牲を覚悟せねばならなかった魔物討伐が、少人数でも成功するようになり、死傷者は激減。

 街道の安全度は上がり、交易路は安定し、共和国の経済は活気を取り戻していく。


「……すごいですね」


 工房の窓から街を見下ろしながら、エマは小さく呟いた。


 人々が笑い、商いをし、子どもたちが走り回る――

 その平和が、自分の作った小さな腕輪や護符から始まっていると思うと、胸の奥が静かに震えた。


「エマ、無理はするな」


 背後から声をかけたのは、ロドリゲスだった。

 今では、彼は冒険者ギルドの実戦指導役として名を知られる存在になっている。


「わかっています。でも……やりたいんです」


 エマは微笑んだ。


「必要とされている場所で、役に立てるのが、嬉しいから」


 ロドリゲスは少し困ったように笑い、それ以上は何も言わなかった。


 ◇ ◇ ◇


 一方、その頃。


 フランセ王国王城。


 重厚な謁見の間で、国王は苛立ちを隠そうともせず、玉座の肘掛けを叩いた。


「――スペイラ共和国に、聖女が現れたというのは本当か?」


「は。間違いございません」


 宰相は深く頭を下げたまま、続ける。


「付与に特化した聖女とのことで、共和国の冒険者たちは彼女の作った装備で魔物を討伐し、国境周辺の安全度は著しく向上しているとのことです」


「……我が国では、なぜそのような人材が現れぬ」


 国王の声には、焦りと苛立ちが混じっていた。


「呼べ。条件は問わぬ。金でも爵位でも、何でもくれてやる」


 その言葉に、宰相は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。


「……恐れながら、それは難しいかと」


「なぜだ」


「その聖女――名をエマと申しますが……」


 宰相は、静かに事実を告げた。


「かつて、アンドレオ=モナコラ伯爵の妻でございました。世継ぎをなせぬとの理由で、離縁されております」


 謁見の間の空気が、一瞬で凍りついた。


「……何だと?」


 国王の声が、低く震えた。


「つまり、我が国は……聖女を、自ら追い出したと?」


「そのような形に、なります」


 次の瞬間。


「愚か者がぁっ!!」


 国王の怒号が、天井を震わせた。


「国の宝を、女一人の腹一つで判断し、追い出すなど……! 伯爵家の判断が、どれほどの損失か、わかっているのか!」


「……」


「モナコラ伯爵を、即刻呼べ!」


 宰相は深く頭を下げ、退出した。


 ◇ ◇ ◇


 呼び出しを受け、王城に出向いたアンドレオ=モナコラ伯爵は、謁見の間で、かつてない叱責を受けることになった。


「貴様は、国を滅ぼす気か」


「……陛下?」


「聖女を追い出した罪は、重い。いや、罪ですらない。ただの愚かさだ」


 伯爵は、何も言い返せなかった。


 あの女は、子を産めなかった。

 それだけの理由で、切り捨てた。


 それが、ここまでの事態を招くとは、夢にも思っていなかった。


 だが、後悔は、すでに遅かった。


 ◇ ◇ ◇


 スペイラ共和国では、ある決定が下されていた。


「フランセ王国には、聖女エマの付与品を一切流通させない」


 冒険者ギルド、商人組合、共和国評議会――

 すべてが一致した判断だった。


「聖女に非礼を尽くした国に、力を与える理由はない」


「むしろ、聖女を守るためにも、当然だ」


 エマ自身は、その決定を聞いたとき、少しだけ戸惑った。


「……そんなことまで、しなくても」


「いいや」


 ロドリゲスは、はっきりと言った。


「これは、あんたのためだけじゃない。俺たち自身の誇りの問題だ」


 エマは、それ以上、何も言えなかった。


 ◇ ◇ ◇


 やがて、世界は別の形で動き始める。


 スペイラ共和国周辺で、魔物が激減した影響――

 食物連鎖の頂点に立つ存在が、餌場を失ったのだ。


 ドラゴン。

 古代種。

 S級指定魔物。


 彼らは、新たな狩場を求め、国境を越えた。


 向かった先は――フランセ王国。


 ◇ ◇ ◇


 モナコラ伯爵領に、異変が起きたのは、ある朝だった。


 空が、赤く染まった。


 地鳴りのような羽音。

 熱風。

 咆哮。


「――ドラゴンだ!」


 城壁は、一撃で崩れた。


 付与装備もなく、対策もない領地は、為す術もなかった。

 兵は散り、街は炎に包まれ、伯爵邸もまた、例外ではなかった。


 アンドレオ=モナコラ伯爵は、瓦礫の中で、呆然と空を見上げていた。


(……あの女を、追い出したからか)


 思考が、ようやくそこに辿り着く。


 聖女。

 エマ。


 価値がないと切り捨てた存在が、世界を救い。

 自分は、何も残せなかった。


 ドラゴンの影が、彼の上に落ちる。


 その最期を、誰も語らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 遠く離れたスペイラ共和国の工房で。


 エマは、静かに石を磨いていた。


 過去を憎むことはない。

 だが、戻ることもない。


 彼女の人生は、もう――前を向いている。


 小さな石に想いを込めながら、聖女エマは、新しい世界を支えていく。


 それは、誰かに与えられた価値ではなく、

 自らの手で掴み取った、確かな光だった。


 ――物語は、まだ続いていく。


 ◇ ◇ ◇


 聖女としての生活が、日常になり始めたころ。


 エマの朝は、石を選ぶことから始まる。

 市場で仕入れた原石を、光に透かし、指先で撫で、わずかな魔力の響きを確かめる。


「今日は、これね……」


 淡い緑の石。

 防御と回復を併せ持つ、相性のいい素材だった。


 作業台に向かい、黙々と磨いていると、背後で扉が軋む音がした。


「邪魔じゃないか?」


 聞き慣れた声に、エマは自然と微笑む。


「ロドリゲス。いえ、ちょうど一区切りついたところです」


 彼は工房の壁にもたれ、腕を組んでエマの手元を見ていた。

 鎧を着ていない私服姿は、戦士というより、少し不器用な青年に見える。


「……相変わらず、集中すると周りが見えなくなるな」


「そうですか?」


「呼んでも、気づかないことがある」


 からかうような口調に、エマは少し頬を染めた。


 以前なら、そんな距離感に戸惑っていたはずだ。

 けれど今は、彼がここにいることが、当たり前のように感じられる。


「今日は、訓練は?」


「午前は終わった。午後は若い連中の指導だけだ」


 そう言って、ロドリゲスはふと視線を逸らした。


「……なあ、エマ」


「はい?」


「今夜、時間はあるか」


 その問いに、胸がわずかに跳ねる。


「ありますけど……」


「じゃあ、街の外れまで散歩しないか。騒がしくない場所だ」


 それは、命令でも提案でもなく。

 ただ、一緒にいたいという、不器用な願いだった。


「……はい」


 エマは、はっきりと答えた。


 ◇ ◇ ◇


 夕暮れ時。


 街を抜け、小川沿いの道を並んで歩く。

 水面には茜色の空が映り、風が草を揺らしていた。


 しばらく、二人とも言葉を発しなかった。

 沈黙が、気まずくない。


 ロドリゲスが、先に口を開いた。


「……俺は、戦うことしかしてこなかった」


「はい」


「守るのも、斬るのも得意だ。でも……寄り添うことは、わからない」


 彼は、歩みを止めた。


「だから、もし……不器用なことを言っても、許してくれ」


 エマも足を止め、彼を見上げる。


 真剣な目だった。

 戦場で見せるそれとは、違う。


「わたしも……人を信じるのが、少し怖いんです」


 エマは、静かに言った。


「結婚して、妻として、ちゃんと生きていたつもりでした。でも……突然、全部否定されて」


 言葉にするたび、胸が締めつけられる。

 それでも、彼の前なら、逃げずに言えた。


「もう一度、誰かに“選ばれる”のが、怖い」


 ロドリゲスは、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと、しかしはっきりと言った。


「俺は、選びたい」


 エマの心臓が、強く打つ。


「聖女だからじゃない。価値があるからでもない」


 彼は一歩近づいた。


「市場で、石の説明をしていたあんた。

 腕輪を作って、照れて笑っていたあんた。

 怒って、泣いて、それでも前を向く――エマを」


 名を呼ばれた瞬間、胸の奥が熱くなる。


「……それでも、いいか?」


 エマは、答える代わりに、そっと手を伸ばした。


 指先が、彼の手に触れる。

 一瞬のためらいの後、ロドリゲスは強く、しかし優しく握り返した。


「……はい」


 その一言が、すべてだった。


 ◇ ◇ ◇


 それからの二人は、少しずつ距離を縮めていった。


 忙しい日々の合間、短い食事。

 工房の片隅で交わす、他愛ない会話。


 ロドリゲスは多くを語らないが、必ず迎えに来る。

 エマは、彼の無骨な優しさを、言葉ではなく行動で受け取った。


 ある夜、作業が長引いた日。


「……もう、遅いな」


「送ります」


 彼の言葉は、自然だった。


 宿の前で、立ち止まる。


「今日は……ありがとう」


 エマがそう言うと、ロドリゲスは一瞬、迷うように視線を彷徨わせ――


 そっと、エマの肩に手を置いた。


「……触れても、いいか」


 確認する声が、ひどく真面目で、愛おしい。


「はい」


 彼は、そっと抱き寄せた。

 強くはない。だが、確かな温もり。


 エマは、胸元に顔を埋め、静かに息を吐く。


(……怖くない)


 それが、何よりの驚きだった。


「……大丈夫だ」


 ロドリゲスの低い声が、耳元で響く。


「もう、ひとりじゃない」


 エマは、小さく頷いた。


 過去は消えない。

 傷も、なくならない。


 それでも。


 今、この腕の中にいることが、未来への答えだった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 工房の窓から差し込む光は、昨日より少しだけ、柔らかく感じられた。


 エマは、新しい石を手に取る。


(……守るための腕輪)


 誰かのためであり、

 そして――自分自身のために。


 外では、ロドリゲスが待っている。


 戦うだけだった男と、価値を否定された女。

 二人は今、並んで歩き始めていた。


 ゆっくりと。

 確かに。


 ――聖女エマとロドリゲスの物語は、恋という形で、新しい章を迎えた。


 ◇ ◇ ◇


 エマの心臓が、はっきりと音を立てた。


 選びたい。


 その言葉は、過去を否定する刃ではなく、未来へ差し出された手だった。


「……俺は、選びたい」


 ロドリゲスは視線を逸らさず、続ける。


「守るからでも、助けられたからでもない。

 聖女だからでもない」


 不器用な言葉だった。けれど、誤魔化しはなかった。


「エマ、あんた自身をだ」


 夕風が、二人の間を静かに通り抜ける。

 水面の茜が揺れ、遠くで鳥が鳴いた。


 エマは、すぐに答えられなかった。


 過去の記憶が、胸の奥でざわめく。

 期待して、信じて、裏切られたあの日々。

 価値を奪われ、「不要だ」と告げられた瞬間。


 けれど――。


 今、目の前にいるこの人は、

 条件も、役割も、肩書きも口にしない。


 ただ「選ぶ」と言った。


「……すぐに、答えは出せません」


 エマは、正直にそう言った。


「怖いんです。

 また、何かを失うことが」


「それでいい」


 ロドリゲスは、即座に頷いた。


「急がせるつもりはない。

 答えが出なくても、そばにいる」


 その言葉に、胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「……ありがとうございます」


 エマは、小さく微笑んだ。


「でも」


 彼女は、そっと一歩だけ近づいた。


「今夜、一緒に歩けていることは……

 嫌じゃありません」


 一瞬、ロドリゲスの目が見開かれ、次いで、照れたように細められる。


「……それで、十分だ」


 二人は、再び並んで歩き始めた。


 手は触れない。

 けれど、距離は、もう遠くなかった。


 エマは思う。


 愛とは、急いで形にするものではない。

 信頼とは、奪われるものでもない。


 選び、選ばれ、

 何度でも確かめながら、育てていくものなのだと。


 夜の帳が降りる中、

 小川のせせらぎだけが、静かに続いていた。


 ――聖女エマの物語は、

 「救う者」としてだけではなく、

 「一人の女性」としても、ゆっくりと、確かに前へ進み始めていた。


 ◇ ◇ ◇


(物語は、まだ続いていく)


聖女エマが「側室候補」として名を挙げられたのは、彼女自身の耳に入るよりも先に、共和国の上層部をざわつかせた。


 きっかけは、ある一通の書簡だった。


 封蝋には、周辺諸国でも名の知れた大貴族――ラグナード侯爵家の紋章が刻まれていた。


「……側室、ですか」


 工房の一室。

 エマは、差し出された書簡を読み終え、小さく息を吐いた。


 内容は、極めて丁寧で、礼儀正しいものだった。


 ――聖女エマの功績を高く評価していること。

 ――自国に迎え、厚遇したいと考えていること。

 ――正式な婚姻ではなく、あくまで「側室」としてであれば、立場も自由も保証するということ。


 言葉は柔らかい。

 だが、その本質は、痛いほど理解できた。


「……また、ですか」


 呟いた声は、震えていた。


 価値。

 血筋。

 役割。


 かつて、エマが切り捨てられた理由と、何ひとつ変わらない。


「エマ」


 傍らにいたロドリゲスが、即座に声をかける。


「読む必要はない。俺が処理する」


「いいえ」


 エマは、首を横に振った。


「逃げたくないんです。……もう」


 そう言いながらも、胸の奥が、ひどく冷えていくのを感じていた。


 側室。


 子を産むための存在。

 愛ではなく、役割としての女。


 三年前の記憶が、容赦なく蘇る。


 ◇ ◇ ◇


 数日後。


 スペイラ共和国評議会は、正式な会合を開いた。


 議題はひとつ――

 「聖女エマへの他国からの婚姻・側室打診への対応」


「正直に言おう」


 年配の評議員が、重々しく口を開く。


「政治的には、悪い話ではない。

 大貴族と縁を結べば、共和国の発言力は格段に上がる」


「だが!」


 別の評議員が、即座に遮った。


「それは、彼女を“道具”として扱うということだ。

 フランセ王国と同じ過ちを、我々が繰り返すのか?」


 空気が、張りつめる。


 エマは、静かに立ち上がった。


「……発言を、許してください」


 全員の視線が集まる。


「わたしは、共和国に守っていただいています。

 だからこそ、正直に言います」


 一拍、息を整える。


「側室として迎えられることは――

 わたしにとって、再び“価値を条件づけられる”ことです」


 その声は、はっきりとしていた。


「聖女だから。

 力があるから。

 子を産めば有益だから。


 そういう理由で選ばれるなら、わたしは、行きません」


 沈黙。


「……ただし」


 エマは、視線を落とさず、続けた。


「もし共和国が、政治的に必要だと判断するなら。

 そのときは……拒みません」


 その言葉に、ロドリゲスが思わず一歩踏み出す。


「エマ!」


「いいんです」


 エマは、微笑んだ。


「選ばれるだけの存在には、戻りたくない。

 でも、守られてばかりでも、いたくない」


 評議会は、最終的に結論を出した。


 ――聖女エマの意思を最優先する。

 ――側室・婚姻の打診は、すべて本人が拒否すれば即時却下。

 ――共和国として、聖女を“外交の駒”にはしない。


 その決定は、すぐに各国へと通達された。


 ◇ ◇ ◇


 だが、それで終わりではなかった。


 ラグナード侯爵は、引かなかった。


 数週間後、彼は自らスペイラ共和国を訪れた。


 銀髪に、威厳ある顔立ち。

 年齢は四十代半ば。

 穏やかな笑みの奥に、支配者の目を宿した男だった。


「直接、お話ししたい」


 それが、彼の要望だった。


 面会の席で、侯爵はエマを値踏みするように見た。


「噂以上だ」


 静かな声。


「聖女としても、一人の女性としても」


 エマは、背筋を伸ばした。


「……ご用件は、すでに書簡で伺っています」


「そうだな」


 侯爵は、あっさりと認めた。


「側室として迎えたい。

 だが、誤解しないでほしい」


 彼は、指を組み、淡々と言う。


「君を縛るつもりはない。

 工房も、活動も、自由だ。

 子が生まれなくとも、責めることはない」


 その言葉に――

 エマの胸が、ひどく軋んだ。


 「子が生まれなくとも」


 まるで、それが前提であるかのような言い方。


「……一つ、質問してもよろしいですか」


 エマは、静かに尋ねた。


「はい」


「もし、わたしが“聖女でなかったら”。

 もし、何の力も持たない女だったら――

 あなたは、わたしを側室に望みましたか?」


 侯爵は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 そして、正直に答えた。


「……それは、ない」


 その瞬間、エマの中で、何かがすっと冷えた。


「ありがとうございます」


 エマは、はっきりと言った。


「その答えで、十分です」


 彼女は立ち上がり、深く一礼する。


「わたしは、もう“役に立つから選ばれる”人生を生きません」


 侯爵の目が、わずかに鋭くなる。


「後悔するかもしれないぞ」


「しません」


 エマは、迷いなく答えた。


「過去に戻るより、前に進む方が、ずっと怖い。

 でも……だからこそ、意味があるんです」


 ◇ ◇ ◇


 面会の後。


 工房に戻ったエマは、しばらく、石を握ったまま動けずにいた。


 指先が、冷たい。


「……怖かったか」


 ロドリゲスが、低く尋ねる。


「はい」


 正直な答えだった。


「でも……言えました。

 あのとき、言えなかった言葉を」


 ロドリゲスは、何も言わず、そっと隣に立つ。


「もう、側室にはならない」


 エマは、静かに言った。


「誰かの価値を満たすための存在には」


 彼女は、ロドリゲスを見上げた。


「……もし、いつか。

 誰かと共に生きるなら」


 一拍。


「選ばれるんじゃなくて。

 一緒に選びたいんです」


 ロドリゲスは、ゆっくりと息を吐いた。


「……ああ」


 短い返事。


 だが、その声は、確かだった。


 聖女エマは、もう“側室候補”ではない。


 自分の人生を、自分の意思で選ぶ女として、

 この世界に、しっかりと立っていた。


 ――そして、物語は、さらに先へと進んでいく。


◇ ◇ ◇


その考えに至った夜、ロドリゲスは一人、共和国の城壁の上に立っていた。


 遠くに見える街の灯りは穏やかで、平和そのものだ。

 だが、その平和が、どれほど脆い均衡の上に成り立っているかを、彼は嫌というほど知っていた。


(個人の力だけじゃ、足りない)


 剣を握れる。

 戦えば、負けない自信もある。


 だが――それだけだ。


 聖女エマを狙うのは、剣を持った盗賊ではない。

 肩書きと血筋と国力を持った、合法的な“捕食者”たちだ。


(俺は、何者だ)


 共和国の一兵士。

 少し腕の立つ戦士。


 それだけでは、彼女を「守る」とは言えない。


 守るとは、剣を振るうことではない。

 奪えない存在にすることだ。


 そのために必要なのは――地位。

 誰もが無視できない称号。


「……ドラゴンスレイヤー、か」


 呟いた瞬間、腹の底が冷えた。


 ドラゴン討伐。

 英雄譚の象徴であり、同時に、墓標の代名詞でもある。


 だが、それでも。


 彼女の隣に立つためには、

 彼女に「選ばれる資格」を得るためには、

 それしか道がないと、ロドリゲスは悟っていた。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。


 共和国評議会に、異例の申請が持ち込まれた。


「隣国フランセ王国領内に出現したドラゴンの討伐に、志願したい」


 静まり返る会議室。


 評議員たちの視線が、一斉にロドリゲスへ向けられた。


「……理由は?」


 問われるのを、彼は待っていた。


「称号が必要です」


 はっきりとした声だった。


「共和国の守護者として。

 そして、聖女エマを守る者として」


 空気が、わずかに揺れる。


「個人の忠誠では、彼女は守れない。

 国と国の思惑の中では、剣の腕など無力です」


 一人の評議員が、重く息を吐いた。


「つまり……自ら英雄になろうと?」


「違います」


 ロドリゲスは、即座に否定した。


「英雄になりたいわけじゃない。

 ――英雄でなければ、彼女の隣に立てないからです」


 沈黙。


 それは野心ではなく、覚悟の言葉だった。


「……無謀だ」


「承知しています」


「死ぬ可能性の方が高い」


「それも」


 それでも、彼は視線を逸らさなかった。


 評議会は、最終的に許可を出した。


 ――共和国は、彼を止めなかった。

 止める資格がないと、理解していたからだ。


 ◇ ◇ ◇


 その知らせを聞いたのは、エマだった。


「……ドラゴン、討伐?」


 手にしていた石を、取り落としそうになる。


「ロドリゲス、嘘でしょう……?」


 彼女は、すぐに彼のもとへ向かった。


「やめてください!」


 工房の中、珍しく声を荒げる。


「命を賭ける理由なんて、どこにも――」


「ある」


 ロドリゲスは、静かに言った。


「エマ、あんたを守るためだ」


「守られなくても、わたしは――」


「違う」


 彼は、一歩踏み出した。


「俺が欲しいのは、“守ってやれる立場”だ」


 エマは、言葉を失う。


「側室として狙われる。

 聖女として、価値で値踏みされる」


 彼の声は、低く、抑えられていた。


「それを、俺は横で見てるだけだった」


「それでも、あなたは……」


「それでも、俺は何者でもない」


 ロドリゲスは、苦く笑った。


「一兵士が吠えたところで、誰も止まらない。

 だが、ドラゴンスレイヤーなら話は別だ」


 英雄の称号。

 国が、他国が、無視できない存在。


「……あんたを守るためにも」


 彼は、まっすぐエマを見た。


「俺には、その称号が必要なんだ」


 エマの胸が、締めつけられる。


「それは……選ぶ、ということですか?」


 震える声。


「わたしを、選ぶために……死ぬかもしれない道を?」


「違う」


 ロドリゲスは、首を振った。


「選ぶのは、あんただ」


 一拍。


「俺は、選ばれる覚悟をするだけだ」


 その言葉に、エマは息を詰めた。


 彼は、彼女に縋っていない。

 守ることを理由に、縛ろうとしていない。


 ただ、隣に立つために、自分を賭けようとしている。


「……行かないで、と言っても?」


 エマは、祈るように尋ねた。


「行く」


 即答だった。


「怖いですか?」


「怖い」


 正直な答え。


「それでも?」


「それでも行く」


 彼は、柔らかく微笑んだ。


「生きて帰る。

 その資格を持って、もう一度、あんたの前に立つ」


 ◇ ◇ ◇


 出立の日。


 ロドリゲスは、共和国の門前で立ち止まった。


 そこに、エマがいた。


「……これ」


 彼女は、小さな護符を差し出す。


「無事に帰ってきたら、返してください」


「借り物か」


「はい」


 エマは、はっきり言った。


「命を賭けて手に入れた称号で、

 わたしを縛らないでください」


 ロドリゲスは、静かに頷く。


「ああ」


「帰ってきたら……」


 一瞬、言葉を探し。


「また、一緒に考えましょう。

 “選ぶ”ということを」


 ロドリゲスは、護符を握りしめた。


「必ず戻る」


 そして、背を向ける。


 向かう先は、隣国フランセ王国。

 ドラゴンの巣がある、死の山脈。


 英雄になるためではない。

 愛を誓うためでもない。


 ただ、

 選ばれるに足る男になるために。


 聖女エマは、彼の背中を見送りながら、強く願った。


 ――どうか、生きて。


 ――称号より先に、あなた自身を失わないで。


 物語は、ここから――

 命を賭けた試練の章へと入っていく。

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― 新着の感想 ―
ものすごい才能を感じる作品でした  他作品も読みたくなりました 賛否両論あるだろうなと思った点 ・あらすじの長さ… あらすじがもはや短編 あらすじの長さを見て読むのをやめそうな読者いそう  (作者…
側室を迎えるなら、離縁じゃなくて、正妻として存在し続ける、だから主人公にも先に説明した。なのに、突然前世を思い出して失踪したようにしか思えない。 追い出されて無価値って、荷物を持ち出して失踪してるのに…
尻切れ蜻蛉すぎる 展開は面白いのに残念だった
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