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追放の果てに禁断の森で遭難したら、人間嫌いの龍に拾われました

作者: 貞明み木

 私の世界は、古いインクの匂いと、雨上がりの湿った土の香りで満たされている。


 侯爵令嬢エリアーナ。それが世間から見た私。

 けれど本当の私は、きらびやかな夜会のドレスよりも、墨で汚れた研究用の白衣の方がずっと落ち着く、ただの植物好きだ。

 流行りの刺繍の図案を覚えるよりも、顕微鏡を覗き込んで新種の胞子の形をスケッチしている時間の方が、何倍も心が躍る。


 父が遺してくれたこの宮廷植物園と書庫こそが、私のすべてだった。


「エリアーナ。またそんな所にいたのか」


 その声に振り返ると、婚約者のアルフォンスが不機嫌そうに眉を寄せて立っていた。

 彼は国内でも有数の権力を持つ宰相の息子で、私たちの婚約は互いの家にとって有益な取引でしかなかった。


「見て、アルフォンス様。ついに『夜光苔』が芽吹いたの。きっと、どんな灯りよりも優しく王宮の夜を照らすわ」


 私の弾んだ声に、彼は興味なさそうに鼻を鳴らした。

「そんなことより、君が発見した『月光草』の効能についてだ。あれは高く売れる。栽培法を独占し、隣国に売りつければ莫大な利益になるだろう。早く製法をまとめ、私に渡せ」

「……これは、薬を必要とする人々のために研究しているのです。お金儲けの道具ではありません」

「いつまでも子供のような夢を見ているんじゃない」


 その瞬間、私の体からすっと血の気が引いていくのがわかった。

 彼にとって、私が命よりも大切にしているこの研究は、金勘定の数字でしかない。


 その数日後だった。

 私のささやかな世界は、何の前触れもなく崩れ落ちた。


「国王陛下暗殺未遂の容疑である! エリアーナ・フォン・クライネルト嬢、ご同行願う!」


 突然、研究室の扉が蹴破られ、武装した衛兵たちがなだれ込んできた。

 インク瓶が倒れ、書きかけの研究日誌が無残に汚れていく。何が起きているのか理解できなかった。


 私が、陛下を?

 ありえない。何かの間違いだと叫んでも、私の腕は乱暴に掴まれ、薄暗い牢へと放り込まれた。


 そして引きずり出された法廷で、私は信じがたい光景を目にする。

 証人台に立ち、悲痛な表情で私を指さしていたのは、婚約者であるはずのアルフォンスだった。


「彼女は常々、王家の研究支援が少ないと不満を漏らしておりました。そして、これが彼女の温室から見つかった毒草です。陛下の薬湯に混入されたものと、成分が一致したそうで……」


 嘘。全部、嘘だ。

 彼の言葉に合わせて、私が管理する温室から証拠の小瓶が運び込まれる。

 頭が真っ白になった。あれは、私がアルフォンスに研究の悪用をさせないため、厳重に保管していたものだ。


 周りを見渡しても、私を信じてくれる者は誰もいなかった。

 昨日まで笑顔で言葉を交わしたはずの宮廷の人々が、まるで汚物でも見るかのように冷たい視線を向けてくる。父の代から親交のあった貴族たちも、皆そっと目を逸らした。


 ああ、そうか。これが、私の居場所の真実。

 変わり者の令嬢が起こした、愚かな事件。筋書きは、とうに出来上がっていたのだ。


「これまでの功績に免じ、死罪は免除し、全財産の没収、ならびに国外追放を命ずる」


 牢に戻された私から、衛兵は最後の持ち物まで奪い取った。

 研究日誌を、そして、亡き母の形見であるロケットペンダントを。「せめて、これだけは」と伸ばした私の手は、無慈悲に払い除けられた。


 ぼろぼろの平民服に着替えさせられ、私は城門の外へと突き出された。

 降り始めた冷たい雨が、涙なのか雨粒なのか、もうわからなかった。

 嘲笑する声が背中に突き刺さる。

 城壁の上から、勝ち誇ったように私を見下ろすアルフォンスの顔が見えた。


 悔しい? 悲しい?

 違う。そんな言葉では言い表せない、体の芯が凍てつくような絶望が、私を支配していた。


 *


 三日も経たないうちに、からからに乾いた喉の渇きと、胃がねじ切れるような空腹が私を襲った。


 太陽は容赦なく肌を焼き、夜は石のように体を冷やす。

 舗装された街道から追い立てられ、私が進むのは棘だらけの獣道だけ。

 

 知識だけはあった。この草は食べられる。あの木の根は水分を含んでいる。

 けれど、乾ききった思考では、猛毒を持つトリカブトの若葉と、食用のセリを見分ける自信すらなかった。

 一度しゃがみこんだら、もう二度と立てない気がした。


 かつて私を慰めてくれた植物たちが、今は私を拒絶している。

 雨が降れば体温を奪い、風が吹けば体力を削る。世界から色が消え、音が消え、ただ苦しいという感覚だけが、私という存在のすべてになった。


 アルフォンスへの憎しみも、裏切った人々への怒りも、もう思い出せない。

 そんな感情を抱く余力すら、この体には残っていなかった。

 時折、母の優しい笑顔や、植物園の穏やかな日差しが幻のように浮かび、そのたびに胸が張り裂けそうになる。


 だから、もう何も考えないことにした。


 思考を捨て、感情を殺し、ただ、歩く。

 私はもう、エリアーナではない。名もなき、生きるだけの何かだ。


 視界が白く点滅し始めた頃だった。

 もう一歩も歩けない、と、ついに膝が折れ、地面に手をついたその時。目の前に、それが現れた。


 森。


 これまで私が歩いてきた、死んだように灰色の大地とはまるで違う。

 命そのものが形になったような、深く、濃い緑の壁。空を覆い尽くさんばかりに枝を伸ばす巨木たち。


 人々が恐れる「龍の森」。近付けば二度と戻れない、禁断の聖域。

 けれど、朦朧とした私の意識は、そんな警告を思い出すことすらなかった。

 むしろ、その濃密な生命の気に、まるで母親の腕に抱かれるような、抗いがたい引力を感じていた。


 呼ばれている。

 そんな気がした。


 ふらふらと、吸い寄せられるように森の中へ一歩、足を踏み入れる。

 途端に、空気が変わった。外の乾いた風が嘘のように、ひんやりと湿った、土と苔の匂いが肺を満たす。

 喧騒も、風の音も、何もかもが遮断された、荘厳なまでの静寂。

 鳥の声ひとつしないのに、不思議と寂しくはなかった。


 ああ、なんて静かなんだろう。


 恐怖はなかった。むしろ、心の底から安堵していた。

 やっと、還るべき場所にたどり着けた。そんな、ありえない感覚に包まれる。


 苔むした巨大な樹の根元に、もたれかかるようにして体を横たえる。

 もう、指一本動かせない。ゆっくりと、まぶたを下ろす。ざらついた樹皮の感触が、なぜか心地よかった。


 ここで、終わるんだ。

 そう思った時だった。


 ドン……。


 大地が、かすかに揺れた。

 規則的で、ゆっくりとした、まるで巨大な心臓の鼓動のような振動。


 ドン……。


 遠のいていく意識の中で、私は自分の上に、巨大な影が落ちるのを感じた。

 太陽を覆い隠すほどの、圧倒的な何かの気配。


 けれど、もうどうでもよかった。

「……ああ、やっと、眠れる」


 それが、私の最後の思考だった。

 その巨大な影の正体を確かめることもなく、私は深い闇の中へと沈んでいった。


 *


 意識は、深く温かい水の底から、ゆっくりと浮上していくようだった。


 最後に覚えているのは、荒野の冷たい土の上で、もう二度と開くことはないだろうと覚悟して閉じた瞼の重み。

 けれど今、私の体を包んでいるのは、凍えるような寒さではなく、不思議な熱を帯びた、穏やかな温もりだった。


 どこから来るのだろう、この暖かさは。

 鼻腔をくすぐるのは、雨上がりの森のような、湿った土と深い苔の匂い。

 夢を見ているのかもしれない。追放される前の、植物園の温室でうたた寝をしてしまった、あの頃の夢を。


 けれど、夢にしてはあまりに感覚が鮮明だった。背中に触れる苔は驚くほどに柔らかく、私の体の形に添うように沈み込んでいる。

 そして、微かに聞こえる音。それは低く、規則正しい……まるで、巨大な生き物がすぐそばで寝息を立てているかのような、空気が震える音。


 最後に感じた、あの、大地が脈打つような巨大な鼓動を思い出す。

 私は、死んだはずではなかったか?


 その疑問が、重かった瞼をこじ開ける力になった。

 ゆっくりと開いた視界に映ったのは、夜空ではなかった。

 高く、どこまでもドーム状に広がる天井に、無数の鉱石が埋め込まれ、満天の星のように淡い光を放っている。ここは、洞窟……?


 自分が柔らかな苔のベッドに寝かされていることに気づき、混乱はさらに深まった。

 荒野で倒れたはずの私が、なぜこんな場所に? 誰かが私を? 親切心から? それとも……。


 身を起こそうと、苔に手をついたその瞬間だった。


 空気が、鉛のように重くなった。


 息ができない。肺が機能を停止し、心臓が氷の手で鷲掴みにされたかのような衝撃に、喉がひっと引き攣る。

 殺意とは違う。憎しみでもない。

 ただ、そこに在るというだけで他のすべての存在を無に帰すような、絶対的な威圧感。


 私の全細胞が、本能が逃げろと絶叫している。

 なのに、体は蛇に睨まれた蛙のようにぴくりとも動かせない。


 恐る恐る、凍りついた首を動かし、視線を巡らせる。

 そして、闇の最も深い場所に――それを見つけた。


 二つの、溶けた黄金。

 最初、それは洞窟の壁に埋まる巨大な宝石かと思った。

 だがそれがゆっくりと瞬きをした時、私はそれが瞳であると理解した。

 爬虫類を思わせる縦長の瞳孔が、私というちっぽけな存在を分析するかのように、すっと細まる。

 その動きだけで、私の心臓は止まりそうだった。


 鉱石の淡い光が、その巨体の一端を照らし出す。

 一枚一枚が丹念に磨き上げられた黒曜石のような鱗が、ぬらりと光を反射した。

 その輪郭は闇に溶け込み、全容を把握することなど到底不可能だった。

 まるで山そのものがそこに鎮座しているかのように、大きく、そして、美しかった。


 ――竜。


 その恐ろしさと美しさに魂が震え、声にならない叫びが胸の内で木霊した。


「――目が覚めたか、人の子よ」


 声ではなかった。

 思考の海に直接投げ込まれた石つぶてのように、その言葉は私の脳を内側から揺さぶった。

 私のちっぽけな思考や感情がその響きの前に上書きされていくような、抗うことのできない感覚。


「我が領域を侵した罪は重い。どうだ、ひと思いに塵にしてやろうか」


 その言葉には、怒りも、苛立ちも含まれていなかった。

 まるで、嵐が木々をなぎ倒し、川が土手を決壊させるのと同じ、自然な揺るぎない摂理としての響きだけがあった。


 この絶対的な存在にとって、私を殺すことは、呼吸をするのと同じくらい当然の行為なのだ。

 私はただの侵入者で、排除されるべき異物。それ以上でも、それ以下でもない。


 死ぬ。

 その絶対的な事実を、私はただ受け入れるしかなかった。


 不思議と、走馬灯のように過去が蘇ることはなかった。ただ、目の前にあるあまりにも完璧な死の形に、魂が釘付けになっていた。

 溶かした黄金の瞳。その中で揺らめく、冷たく、美しい光。どうせ塵になるのなら、この世で最も美しいものに見届けられるのも悪くない。

 そんな場違いな感傷すら、頭の片隅をよぎった。


 しかし。

 私の視線が、その黄金の瞳から、山のように雄大な巨体へと滑り落ちた時だった。

 そこに、あってはならない一点の汚れを見つけてしまったのだ。


 一見すれば、完璧だった。

 寸分の狂いもなく並んだ黒曜石の鱗は、さながら神が作り上げた芸術品。

 しかしその滑らかな曲線が、脇腹のあたりで、無残に途切れている。

 そこだけ宝石の輝きは失われ、鱗はささくれ立つように剥がれ落ちていた。

 覗いているのは赤黒く爛れた皮膚。


 そして、そこからは、ゆらりと黒い瘴気が陽炎のように立ち上っていた。


 全身を縛り付けていた恐怖が、その瞬間、わずかに緩んだ。

 凍り付いていたはずの体が、無意識に前のめりになる。もっと、よく見たい。

 植物学者としての私の目が、死の恐怖に抗って、爛れた傷口に焦点を結んだ。


 見えた。

 鱗と皮膚の境目、その縁に沿うように、黒い粒状の何かがびっしりとこびりついている。


 それはただの汚れやカビではなかった。

 鉱石の淡い光を受けて、一つ一つが生命を持つかのように、ぬらりと湿った光を放っている。

 そして、気のせいだろうか。

 それは、竜の呼吸とは違う、もっと微細な周期で、呼吸でもするかのように蠢いているように見えた。


 心臓が、恐怖とはまったく別の理由で激しく鼓動を打ち始めた。


 なんだ、あれは。

 脳内で、私がこれまでに得た全ての知識が、猛烈な勢いで回転を始める。

 寄生菌類? いや、組織の形成がもっと複雑だ。

 地衣類の新種? 竜の体液を直接栄養源とする、特殊な形態の植物……?


 どの文献にも、どの分類にも、当てはまらない。

 未知だ。これは、この世の誰一人として見たことのない生命体。


 絶望で空っぽになっていた私の魂に、熱いマグマのような何かが、奔流となって流れ込んでくるのを感じた。


 知りたい。

 解明したい。

 この神話の生物の生命力を吸い上げて生きるという、途方もない存在の謎を、この手で。


 ああ、そうか。私は、まだ。

 私はまだ、終わっていなかった。

 私はエリアーナ。侯爵令嬢でも、追放された哀れな罪人でもない。

 一人の、植物学者なのだ。


 この世紀の発見を目の前にして、みすみす殺されてなるものか。

 この謎を解き明かさずして、死ねるものか。


 ふと気づくと、あれほど酷かった体の震えが、ぴたりと止まっていた。


 竜の巨大な顎が、ゆっくりと開かれていく。

 その喉の奥深くで、終焉を告げる紅蓮の炎が、まるで溶鉱炉のように揺らめいたのが見えた。

 空気が焦げる匂い。死が、数メートル先まで迫っている。


「お待ちください!」


 乾ききった喉からほとばしったのは、自分でも信じられないほど甲高く、鋭い声だった。

 気づけば私は、苔のベッドから膝立ちになり、恐れも忘れて竜の脇腹の傷をまっすぐに指さしていた。


 揺らめいていた紅蓮の炎が掻き消え、竜の動きがぴたりと静止する。

 黄金の瞳が、驚愕に見開かれるのがわかった。ほんのわずかな隙。それを逃せば、次はない。


「あなたを蝕んでいるのは、寄生植物です!」

 竜の嘲笑が、思考の中に響く。

「矮小なるものが、何を……」

 その言葉を、私は遮った。

「見てください、その黒い粒を! もしこれがただの傷やカビならば、これほど規則的で緻密な形状の胞子が付着するはずがない! この瘴気、あなたの持つ強大で清浄な魔力とは、明らかに異質でしょう!? あなた自身が一番よく分かっているはずです!」


 必死だった。けれど、頭は不思議なほど冴えわたっていた。

 これは、私が生涯で積み上げてきた知識と観察眼のすべてを賭ける、たった一度の機会。


 私の言葉に、洞窟の空気を支配していた絶対的な威圧がさざ波のように揺らいだ。

 竜の黄金の瞳から、私という虫けらを見るような侮蔑の色が薄れ、代わりに、数千年という悠久の時の中で初めて浮かべたかもしれない、純粋な興味という光が宿り始めていた。


 長い心臓が凍りつきそうなほどの沈黙。

 やがて、地鳴りのような声が、今度は嘲りではなく問いとして響いた。


「……面白い。人の子よ、名は何という」


 名前。

 この絶対的な存在が、名もなき人の子ではない、私という個を認識した。


「……エリアーナ、と申します」

 絞り出した声は、震えていたかもしれない。


「よかろう、エリアーナ。我が名はイグニス」


 イグニス。神話の存在が自らの名を明かす。

 イグニスは、その黄金の瞳で私を射抜くように見つめ、厳かに告げた。


「お前の言葉、一度だけ信じてやろう。この我の苦痛を、お前の矮小な知識とやらで、取り除いてみせよ」


 そして、彼の言葉は続く。


「もし成し遂げたならば、この森への侵入の罪は許し、その命だけは助けてやる。だが……もしそれが、その場しのぎで吐いた虚言であったなら――」


 洞窟の空気が、再び氷点下まで凍り付く。


「――その時は、お前のその矮小な魂をこの爪で引きずり出し、我が紅蓮の炎で、永遠に燃やし続けてくれるわ」


 それは、絶対強者が、路傍の石ころに与えた、気まぐれで残酷な機会。

 けれど、私にとってはそれで十分すぎた。


 私は、この手で、この知識で、自らの未来をこじ開けた。

 無力に殺されるだけの存在から、命を賭した交渉のテーブルへと、自力で這い上がったのだ。


 私はイグニスの黄金の瞳をまっすぐに見つめ返した。

 そしてはっきりと深く、一度だけ頷いた。

 私の新しい人生が始まる。この、竜の棲む森で。


 *


 イグニスとの奇妙な共同生活は、徐々に私の日常となっていた。


 私の一日は、洞窟の奥で眠る彼の傷を清めることから始まる。

 冷たい湧き水で湿らせた柔らかな苔布で、爛れた皮膚の縁をそっと拭う。

 初めて触れた時は恐怖で震えた黒曜石の鱗も、今ではその一枚一枚の感触の違いがわかるほどになった。


 巨大な体躯が、私の拙い手当ての間、ぴくりとも動かない。

 それは絶対的な強者ゆえの我慢なのか、それとも、この小さな人間に対して芽生えた、ほんのわずかな信頼の証なのか。

 彼の体から伝わる、地熱のような温もりに包まれるたび、私は人間社会で失った安らぎを取り戻していく気がした。


 寄生植物の特効薬を探すための森の探索は、常に彼と共に行われた。

「よかろう。だが、我が吐息の届く範囲を離れるな」

 その言葉通り、私が森の中を歩けば、木々の間から巨大な竜の頭部がぬっと現れ、黄金の瞳が私を捉える。

 私が数歩進む間に、彼はただ首を少し動かすだけ。私の歩幅など、彼の鱗一枚分の移動にも満たないのだ。


 けれど、その探索は、私にとって驚きと発見に満ちた時間だった。

 彼は多くを語らない。

 だが、私が鮮やかな色の毒キノコに手を伸ばしかければ、「それは魂を蝕む幻を見せる」と、思考が冷静に響く。

 私が崖に咲く珍しい高山植物を見つけて喜べば、「それは三百年前に、天から星が落ちた場所に一度だけ咲いたものだ」と、彼の悠久の記憶の一部を垣間見せる。

 私は書物で得た植物の知識を、彼はこの森の歴史そのものを、私たちは少しずつ交換していった。


 ある日、縄張り争いで深手を負った森の狼が、最後の力を振り絞るように彼の足元までやってきて、その首を垂れたのを見た。それは、裁定を王に委ねる、絶対的な服従の証だった。

 イグニスはただ見下ろし、一度、深く息を吸い込んだ。

 すると、狼の傷口から立ち上っていた死の匂いが掻き消え、傷はみるみるうちに塞がっていった。


 その光景を前にして、私は魂で理解した。

 彼は、この森の破壊者などではない。

 気まぐれに命を奪い、力を誇示する暴君でもない。


 彼こそが、この森の理であり、均衡を保つ摂理そのものなのだと。

 彼に対して抱いていた恐怖は、いつしか深い畏敬の念へと変わっていた。


 それでも、調査は難航を極めた。いくら探しても、あの邪悪な寄生植物を根絶できるほどの強い力を持つ薬草は見つからない。

 焦りと、彼の期待に応えられない無力感に何度も膝を折りそうになった。

 そんな私を、イグニスは何も言わず、ただ静かに、その黄金の瞳で見守り続けてくれた。


 *


 それは、新月の夜だった。


 光のない闇は、まるで私の心をそのまま映し出す鏡のようで息が詰まりそうだった。

 今日も、成果はなかった。


 洞窟に戻れば、イグニスは何も言わないだろう。

 けれど、その沈黙こそが、無言の圧力となって私の肩に重くのしかかる。

 私は、彼の数千年にわたる苦しみに、最後の希望すらも与えられないまま、この契約を終えるのだろうか。


 諦念と共に、洞窟近くの崖の縁に力なく座り込む。

 もう、何も考えたくなかった。


 その時だった。

 分厚い雲の切れ間から、一筋の月光がまっすぐに私のもとへと差し込んだ。


 光に照らされた崖の縁。そこに、今まで闇に紛れて気づかなかった、一輪の白い花が咲いていた。


 そして次の瞬間、まるで月の光に口づけられたかのように、その花びらが内側から淡い光を放ち始める。

 銀色の、冷たく清らかな燐光。

 周囲の闇が深ければ深いほど、その光は鮮烈さを増し、世界にはその花と私しかいないかのような、神聖で絶対的な静寂が訪れた。


 息を呑むほどの美しさに、一瞬、我を忘れて見入る。

 そして、記憶の海の底から、古文書で一度だけ目にしたことのある伝説の花の名が泡のように浮かび上がってきた。


「ルナリア……!」


 掠れた声でその名を呟いた瞬間、絶望で凍てついていた心臓に、熱い血が奔流となって流れ込むのを感じた。視界が、堪えきれなかった涙で滲んでいく。

 これだ。これさえあれば、彼を救えるかもしれない! あの孤独な王を、長すぎる苦しみから解放できる!


 足がもつれるのも構わず、私はその光の花へと夢中で駆け寄った。


「イグニス様! 見つけました! これで、きっと……あなたの苦しみは……!」


 言葉にならない歓喜を胸に私は振り返った。


 私の目に映ったのは、闇の中で溶けた黄金のように、爛々と輝く彼の瞳。

 いつもは静かで、万物を見下すように冷徹なはずのその瞳が、見たこともないほどに激しく揺らめいていた。

 それは数千年という長きにわたって凍てついていた氷河が、初めて太陽の光を浴びて溶け出す、その最初の亀裂。

 救いを求める、魂そのものの渇望だった。


 彼の巨大な頭部が、いつもなら決して動かさないはずの距離まで、わずかに私の方へと乗り出されている。

 彼の周りの空気が、期待の熱で陽炎のように揺れているのが肌で感じられた。


 その黄金の渇望に射抜かれ、私の心臓は、まるで肋骨を突き破って飛び出してしまいそうなほど、激しく、そして速く脈打ち始めた。


 彼の期待に応えられたという、胸が張り裂けそうなほどの安堵と誇り。

 彼の長年の苦しみを、この手で終わらせてあげられるという歓喜。


 そして――彼のあの表情を、あの魂の叫びを引き出せたのは、この広い世界の悠久の時の中で、ただ一人、私だけなのだという、どうしようもなく甘美で、少しだけ胸がちくりと痛むような、新しい感情。


 この鼓動は、彼のために鳴っている。

 この熱は、彼に向けられたものだ。


 その事実に気づいてしまった時、私の頬を伝ったのは、もう絶望の涙ではなかった。

 ただ、愛おしくて、切なくて、温かい、初めて知る涙だった。


 *


 治療の鍵を見つけたというのに、私の目の前には、高く繊細な壁がそびえ立っていた。


 幻の花「ルナリア」は、まるで月光そのものを固めたかのように脆く、儚い。

 乳鉢に入れ、すり潰そうとすれば、そのわずかな摩擦熱でさえ、有効成分は銀色の霧となって虚空に消えてしまう。

 私の息がかかっただけで、花びらははらりと崩れ輝きを失っていく。


 洞窟の入り口近く、イグニスの灼熱の体温から最も遠い場所で、私は息を殺しながら作業を続けた。

 けれど、失敗のたびに、洞窟の奥から響く彼の苛立ったため息が、私の心を容赦なく鞭打った。


「まだか、人の子よ」

 その思考の声は侮蔑ではなく、長年の苦痛に耐えかねた悲痛な響きを帯びていた。

 それが分かるからこそ、余計に辛かった。

 最後の希望を、この私が、この未熟な手で潰しているのだ。

 焦りが手の震えを呼び、額から流れ落ちた汗が、危うく薬鉢に落ちそうになる。


 そして、とうとう、残りは最後の一輪となった。

 もう後がない。そのプレッシャーに、私の指は意思に反してこわばり、握りしめていた乳棒が、カラン、と乾いた音を立てて石の床に転がった。

 それは、私の完全な敗北宣言のように聞こえた。


「……もう、いい」


 うなだれる私の背中に突き刺さったのは、地響きのような深いため息。

「我慢の限界だ」


 その言葉が引き金だった。洞窟全体が、唸りを上げて揺れた。

 驚いて顔を上げると、洞窟の闇を支配していたイグニスの巨体が、内側からまばゆい光を放ち始めていた。

 それは凝縮する光だった。


 山のように巨大だった彼の体が、光の渦の中心へと吸い込まれるように、螺旋を描きながら収縮していく。

 時空が歪むかのような非現実的な光景に、私は声も出せずに立ち尽くした。


 光が、ふっと収まった時。

 先ほどまで竜がいた場所に立っていたのは、一人の青年だった。


 夜の闇をそのまま束ねて織り上げたような、艶やかな黒髪。

 人間離れしたしなやかな四肢は、竜の鱗を思わせる、鈍い光沢を放つ簡素な黒衣に包まれている。

 そして、何よりも――その黄金の瞳。

 竜の時よりも凝縮された光は、見る者の魂を射抜くほどに鋭く、そして息を呑むほどに美しかった。


 けれど、神が気まぐれに作り上げた最高傑作のようなその顔は、深い嫌悪と、かすかな羞恥に苦々しく歪められていた。

 まるで、触れるのも厭わしい汚泥の服を、無理やり着せられたかのように。


「手伝ってやる。さっさと終わらせろ」


 吐き捨てるような声と共に、彼は私の隣にどさりと腰を下ろした。

 途端に、すぐそばに感じる、生々しい人の体温。

 竜の時には感じなかった、雨上がりの森と、冷たい鉱石が入り混じったような清冽な香り。

 彼の呼吸に合わせて、肩が微かに触れ合う。

 そのすべてが、私の感覚を激しく揺さぶった。


 彼が、私の震える手を制するように、薬鉢にその長い指を添える。

 その指先が、私の手の甲に、触れた。


 冷たい。

 けれど、それは無機質な冷たさではない。硬質で滑らかな、磨き上げられた石のような感触。

 その接触点から、まるで稲妻のような衝撃が走り、私の全身を貫いた。


 びくりと肩を震わせる私を、彼は黄金の瞳でいぶかしげに見る。

 違う。違うのです。ただ驚いたのではなくて。


 神話と人間。竜と、私。

 決して交わるはずのなかった、絶対的な境界線が、今、この指先のほんのわずかな接触によって、音を立てて崩れ去っていく。

 それは途方もない喜びであると同時に、未知の領域へ足を踏み入れてしまった、甘く、痺れるような恐 怖でもあった。

 私の心臓は、もはや私のものではないかのように、激しく鳴り響いていた。


 人の姿のイグニスとの共同作業は、静かな時間の中に、言葉にならない想いを幾重にも織り重ねていった。


 口を開けば、「手際が悪い」「まだ終わらぬのか」と文句ばかり。

 けれど、彼の行動は、その言葉とはまるで裏腹の、不器用な優しさに満ちていた。


 私が薬草をすり潰す力が強すぎれば、私の手の上にそっと彼の手が重ねられ、無言のまま正しい力加減を教えてくれる。

 夜遅くまで作業に没頭して私がうとうとと舟を漕げば、いつの間にか、彼の着ていた黒衣がそっと私の肩にかかっていることもあった。


 私たちは、ほとんど話さなかった。

 けれど、その沈黙は決して気まずいものではなく、むしろ、言葉など必要としない、穏やかで満たされた時間だった。

 薬草をすり潰す音、薬液を煮詰める微かな匂い、そして、すぐ隣で息をする彼の体温。

 それだけが、私たちの世界のすべてだった。


 治療薬の完成が、ようやく間近に迫った夜のことだった。

 作業の手を休め、ふと隣に座る彼の横顔を見つめる。洞窟の壁に埋まる鉱石の淡い光が、彼の完璧な顔に深い陰影を落としていた。

 その時、見てしまったのだ。その黄金の瞳の奥に、ふとよぎった、この世の誰とも分かち合うことのできない絶対的な孤独の影を。


 その影の正体を知りたい。

 彼の痛みに、触れたい。

 彼の心の傷に、土足で踏み込むような行為だとわかっているのに、私は止められなかった。


「イグニス様……」

 私の呼びかけに、彼はゆっくりと黄金の瞳をこちらに向ける。

「あなたは、なぜ、それほどまでに人の姿を嫌うのですか? そして、なぜ、人間を信じることができないのですか?」


 洞窟に、重い沈黙が落ちる。

 聞いてはいけなかったのだと、後悔が胸を刺す。


 私の問いかけに、イグニスは長く、長く沈黙した。

 洞窟の中には、薬液が静かに煮詰まる音と、私たちの呼吸の音だけが響いている。

 私が何かを言い繕おうと口を開きかけた、その時だった。


「……話にならぬほど、昔のことだ」


 それは、まるで洞窟の奥底から響いてくるような、低く静かな声だった。


「この森の隣に、小さな王国があった。そして、そこに一人の王がいた」


 彼の黄金の瞳が、遠い過去を見つめている。


「彼は、他の人間とは違った。森を畏れ、その理を敬い、この我と対等に言葉を交わそうとした唯一の人間だった。我らは夜ごと、この岩の上で、森の未来と人の国の未来を語り合ったものだ。種族を超えた絆などという、今思えば甘いだけの幻想を……我もまた信じていたのだ。あの時は」


 その声に、ほんの微かに滲んだ懐かしむような響きに、私の胸がちくりと痛んだ。


「だが、人の命はあまりに短い。あまりに、な」


 すっと、声の温度が下がる。

 懐かしさは消え、氷のような冷たさが取って代わった。


「王は死に、その息子が王位を継いだ。……父の知性も、気高さも、何一つ受け継がなかった、ただ愚かで、強欲なだけの小僧が」


 イグニスは、吐き捨てるように言った。

 彼の膝の上で、長い指が固く握りしめられるのを、私はただ見つめていた。


「奴は『竜の心臓は不老不死の妙薬になる』などという、下らぬ噂を信じおった。そして、父王が我が同胞と交わした不可侵の盟約を、紙切れのように破り捨てたのだ」


 彼の声が、静かな怒りに震える。


「鉄と炎の匂いが、この聖域を満たした。木々が泣き叫び、動物たちが逃げ惑った。そして……まだ飛ぶこともできぬ若竜の、甲高い悲鳴が……森中に響き渡った」

「……」

「我の、ただ一人の同胞だった」


 しばしの沈黙が、千年の時よりも重く感じられた。


「その時、悟ったのだ、エリアーナ」


 彼は初めて私の名前を呼び、その凍てついた黄金の瞳で私をまっすぐに見つめた。


「人の善意など、所詮はその一代限りの泡沫に過ぎぬ。だが、強欲だけは……決して癒えぬ病のように、血と共に脈々と、未来永劫受け継がれていくのだ、と」

 その言葉に込められた、氷のような絶望。


 その時、私は確信した。彼の体を蝕むあの邪悪な寄生植物は、決して偶然などではない。

 この数百年癒えることのなかった心の傷が、彼の抵抗力を弱め、闇を呼び寄せたのだ。

 体の傷と心の傷は、分かちがたく繋がっている。


 彼の痛みが、まるで自分の痛みであるかのように、私の胸を鋭く抉った。


 この人を、独りにしておけない。

 追放され、世界から見捨てられた私を必要としてくれた。

 私の知識を、エリアーナという存在を認めてくれた。

 今度は私が彼を救う番だ。


 彼の体の傷を癒すだけでは足りない。

 この、千年の孤独に凍てついた魂をこの腕で抱きしめたい。

 彼が信じられなくなった人間の善意を、この私が短い生涯のすべてをかけて、彼に証明してみたい。


 私の心臓は、彼の痛みに呼応するように、力強く脈打っていた。

 それは、彼と共に痛み、彼と共に生き、そして彼が再び心から笑える日を夢見る魂の誓いの鼓動だった。


 もう、この感情に名前を付ける必要はなかった。

 ただ、彼の隣にいる。

 それが、今の私のすべてだった。


 *


 琥珀色に輝く治療薬を、小さな石の器の中で私は祈るように静かにかき混ぜた。

 これが、最後。


 この一滴に、私の知識のすべてが、森で過ごした日々のすべてが、そして、彼を救いたいと願う私の魂のすべてが懸かっている。

 隣に座る人の姿のイグニスは、何も言わず、ただ静かに私の手元を見つめていた。

 その黄金の瞳に宿るかすかな緊張と期待が、私の指先にまで伝わってくるようだった。


 もう震えはなかった。

 私は覚悟を決め、そっと彼の傷ついた肩に手を伸ばす。

 人の姿であっても彼の体を蝕んでいた痕跡は痛々しく残っていた。

 私の指先から、薬が彼の肌へとゆっくりと染み込んでいく。


 その瞬間だった。


 彼の体の中から、まるで内に秘めた太陽が解き放たれたかのように、まばゆい光の奔流が溢れ出した。

 洞窟全体が真昼のように照らされ、私はあまりの神々しさに目を細める。

 傷を蝕んでいたあの邪悪な黒い瘴気が光に焼かれ、断末魔の叫びを上げて霧散していくのが見えた。

 光のヴェールの向こうで、彼の皮膚の下で、新しい黒曜石の鱗が一枚、また一枚と奇跡のように生まれていく。

 失われたものが、今、数世紀の時を超えて、彼の元へと還っていく。


 やがて、光が穏やかに収まった時。

 彼には、一点の傷跡も残ってはいなかった。

 滑らかで、力強い完璧な肌。

 彼は、失われたものを取り戻したことを確かめるかのように自分の手を見つめ、ゆっくりと、そして強く握りしめた。

 そして、私に向かって一度だけ、深く頷くと、再び光に包まれ、天を突くほどの巨大な竜の姿へと戻っていった。


 解放された、本来の姿へ。


 イグニスは天を仰ぎ、咆哮した。

 それは、数世紀分の苦しみと絶望のすべてを吐き出し、生命の完全なる復活を世界に宣言する歓喜の雄叫びだった。

 その声が轟いた瞬間、厚く垂れ込めていた雲は瞬く間に晴れ渡り、祝福の光が森全体に降り注ぐ。

 木々は生命力に満ちてざわめき、動物たちの喜びの声が、森の彼方からこだまのように響いてきた。


 そのあまりにも神々しい光景に、私の頬を涙が止めどなく伝った。

 嬉しい。嬉しい。この人を、私が救えた。

 この広い世界で、私だけが、彼を絶望の淵から引き上げることができた。


 なのに、なぜだろう。

 森全体を震わせる彼の歓喜の咆哮が、私には、私たちの終わりを告げる、無慈悲なファンファーレのように聞こえてしまった。


 契約は、履行された。

 私はもう、彼の治療師ではない。

 ただの、か弱く、寿命の短い人間に戻る。

 彼の隣にいる資格も、彼を引き留める理由も、もう何一つ、私には残されていない。


 歓喜の絶頂で突きつけられた現実。

 私は、祝福の光から逃げるように洞窟へと踵を返し、壁際に置かれた、みすぼらしい自分の荷物へと手を伸ばした。

 この洞窟で過ごした一日一日が、あまりにも愛おしくて、薬草籠を握りしめる指先が、みっともなく震えた。

 さようならを、言わなければ。

 ありがとう、と。


 その時、背後に静かな足音と、無視できない気配を感じた。

 振り返るまでもない。彼だ。

 人の姿で私の後ろに立っている。


「どこへ行く、エリアーナ」

 その声は、完治した喜びの響きなど微塵もなく、ひどく落ち着きを失って聞こえた。

 私は振り返れないまま、用意していたはずの幾千の言葉をすべて飲み込み、ただ一言、事実だけを口にした。

「契約は、終わりましたから」


 私の言葉に、彼の気配が凍り付いた。

 一瞬、彼がひどく傷ついたように息を呑んだのが、背中越しに伝わってくる。

 だが、次に響いた声は、すべての感情を殺した、氷のような無機質な響きを持っていた。


「そうか。ならば、行け」

 そして、彼は続けた。

 私という存在を完全に突き放すように。

「我は竜。お前は人。流れる時が違う。お前の百年に満たぬ命は、我の永劫に比べれば瞬きの間の出来事。……共に、生きることはできぬ」


 ドン、と鈍い衝撃と共に、心臓が足元に落ちたような気がした。

 わかっていた。頭のどこかで、ずっと。

 けれど、彼の口から、こんなにも冷たく突きつけられるのは、あまりにも残酷だった。


 足元から、世界が崩れ落ちていく。

 涙が、視界を歪ませていく。


 私がその場に崩れ落ちそうになった、その時だった。


「……だが」


 私の耳に届いたのは、絞り出すような彼の苦しげな声。

 その一言に、彼の数千年分のプライドが、軋みを上げて砕ける音が聞こえた気がした。


「だが、それでも、だ! エリアーナ!」

 彼は、私の腕を掴もうとして、寸前でその手を固く、震えながら握りしめた。

「お前のその、瞬きのような短い一生を、その全てを、この我に捧げてくれ!」


 それは、傲慢な竜の命令ではなかった。

 魂を振り絞り、プライドも何もかもかなぐり捨てた、悲痛な叫びだった。


「お前がいつか塵芥と化すその日まで、誰よりも深くお前を愛し、この腕の中に閉じ込めてやる。他の誰にも、容赦なく時を刻む運命にさえも、お前を渡したくはないのだ!」


 そして、彼はついに、その言葉を口にした。

 絶対者である彼が、決して口にするはずのなかった、たった一言を。


「……頼む。我のそばから、いなくならないでくれ」


 その最後の懇願が、私の心の最後の壁を、跡形もなく粉々に打ち砕いた。

 嗚咽が、喉から漏れ出た。顔を上げる。


 そこにはもう、神話の竜も、孤高の森の王もいなかった。

 ただ一人の、愛する女性を失うことを何よりも恐れる無防備な男性が、答えを求めるように、必死の形相で私を捉えていた。

 その黄金の瞳が、私と同じように熱い雫で潤んでいた。


 もう、言葉など必要なかった。

 私は彼に駆け寄り、その広い胸に、壊れるのも構わずに顔をうずめていた。


「はい……!」

 しゃくりあげながら、私は何度も頷く。

「あなたのそばに、います。ずっと、ずっとです……!」


 私を抱きしめる彼の腕の力強さと、その微かな震えを感じながら、私は私たちの残酷で、そして、どうしようもなく愛おしい運命を、腕の中に、強く抱きしめていた。


 *


 数週間が過ぎたある日、森の入り口に王都の紋章を掲げた使者が現れた。

 森の木々が警戒するようにざわめき、人の姿で私の隣にいたイグニスの空気がぴんと張り詰める。

 彼は、私を庇うようにその一歩前に立った。


 使者がもたらしたのは、私のかつての世界からの報せだった。

 私を陥れた宰相の息子はその罪が暴かれて失脚し、私の無実は完全に証明されたという。

 国王は、過去の非礼を詫び、宮廷筆頭学者として私の帰還を強く望んでいる、と。

 それは、追放される前の私が夢見た以上の輝かしい名誉だった。


 けれど、その言葉を聞いても、私の心は春の陽だまりの中にある湖のように静かに凪いでいた。

 復讐が成し遂げられたことにも、失ったはずの名誉にも、もう何の興味も湧かなかった。


 私はイグニスの逞しい腕を取り、彼を安心させるようにそっと微笑む。

 そして、使者に向き直り、穏やかに、しかしはっきりと告げた。

「遠いところ、ご苦労様です。ですが、国王陛下にお伝えください。私の世界は、私の居場所は、もうここにしかありません、と」


 私たちの永遠が、その日から静かに始まった。


 朝は、彼の腕の中で目覚める。

 夜の闇を溶かし込んだような彼の髪に、洞窟の入り口から差し込む朝日が当たり、きらきらと光るのを眺めるのが好きだった。

 昼は、彼がその巨大な翼の影で作ってくれる涼やかな場所で、森の新しい植物のスケッチに没頭した。

 夜は、洞窟で燃える薪のはぜる音を聞きながら、彼が語る星々の創生神話を子守唄にして、その胸で眠りにつく。


 何気ない瞬間に、彼は私の髪に、額に、口づけを落とす。

 私は、無骨で大きな彼の手を取って、その指に自分の指を絡ませる。

 言葉は、もうあまり必要なかった。

 視線が交差するたび、肌が触れ合うたび、私たちは互いの魂の、その一番深い場所で愛し合っていることを、確かめることができたから。


 ある日、薬草を調合していた自分の手の甲に、小さな茶色いシミを見つけた。

 ああ、私の時は、確かに進んでいる。

 私がそのシミをじっと見つめていると、隣で本を読んでいたイグニスが、そっと私の手を取った。

 そして、その小さなシミごと慈しむように、その場所に、柔らかな口づけを落とした。


「私が死んだら、イグニス様はどうするのですか」

 一度だけ、勇気を出して尋ねたことがある。

 彼は、燃える薪から私へと視線を移し、その黄金の瞳で私を射抜きながら静かに言った。

「お前という、決して癒えることのない甘い傷を、この魂に永遠に刻んで、ただ生きるだけだ」

 その言葉を聞いた時、私は、私たちの残酷な運命を、心の底から受け入れた。

 いずれ訪れる別れの悲しみも、彼が私を愛してくれたという、何物にも代えがたい証なのだと。

 私の命の砂時計が落ちる、その音さえも、彼と私が奏でる束の間の愛の歌なのだと思えた。


 その日は、空がどこまでも青く澄み渡っていた。

 私は、巨大な竜の姿に戻ったイグニスの背中に乗り、風になっていた。

 彼は翼を大きく広げ、雲を突き抜け、太陽のすぐそばまで私を連れて行ってくれる。

 眼下には、愛しい緑の森と、遠く霞むちっぽけな人間の世界。

 彼の鱗を通して、力強く穏やかな心臓の鼓動が、私の体中に伝わってくる。

 まるで、二つの心臓が、一つの同じリズムを刻んでいるかのようだった。


 吹き付ける風に負けないように、私はありったけの声で叫んだ。

「イグニス様、大好きです!」


 彼は応えるように、その巨大な翼でそっと私を包み込みながら、空中で優雅に一度、大きく旋回した。


 限りある命。けれど、この一瞬は、確かに永遠だった。

 彼の隣で、彼の温もりを感じ、彼の愛に包まれる、この束の間の時間が、私のすべて。


 私は彼のたくましい首にしっかりと抱きつき、そっと微笑んだ。

 私の永遠は、他のどこでもない。

 この孤高で、不器用で、誰よりも優しい竜の背中に、確かにあるのだから。

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