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裁判の3年前(続き)
「今日はどんな授業だったんだい」
沈黙に耐えかねて――という性格でもなかろうが、ラヴィーナが口を開いた。無視してもよかったが、私も今日は精神的に疲弊していたらしい、無意識のうちに彼女の世間話に応じていた。
「外国語のおさらいよ。リシア語とネデル語」
「ああ、その2つは間違えやすいよね。同じ語族であるせいか、単語も似ているし、それなのに意味するところがまったく違うこともある。よく泣かされたものだ」
「義姉さまも習ったの?」
会話が続いていることに、ラヴィーナはもしかしたら内心驚いたのかもしれなかった。私がラヴィーナに関心を示すことはまずなく、家の中で顔を合わせることもまれだ。食事だってそれぞれにとっている。昔はそうではなかった――「ラヴィ、ねえ、ラヴィまって」――幼い誰かの声が耳の奥に聞こえた気がして、私は視線を少し下げた。ラヴィーナはあの頃と変わらぬ細い鼻梁にしわを寄せて、まるで貴族らしくなく笑ってみせた。
「独学だよ。かの国の魔術教本に興味があったんだ。だから魔術用語は理解できても、日常会話なんかとんとわからないし、正しい発音だってわからない!」
ラヴィーナが父に頼めば私と同様に教師をつけてくれただろうに――それどころか、どういう心境の変化かと喜んだに違いない。かつて彼女は必要最低限の教育を、もっと踏み込んだ言い方をすれば、生家である子爵家で受けていたであろうものと同程度の教育だけでよいと、父に啖呵を切ったと聞いている。それは彼女が勉強嫌いであるわけではなく、むしろ聡いことの表れだ。ラヴィーナはいずれオランドールの庇護から抜ける人間だ――生家を継ぐ、つまり誰かを婿に取り、子爵家当主の妻になるのであれば、過ぎた教育は毒になりかねない。高位の貴族になればなるほど、知れば深みにはまる類の知識は往々にしてある。
しかし公爵家当主である父は、それでは外聞が悪いとラヴィーナを責め、今は私の家庭教師になっている侯爵家の夫人を彼女に用意したが、彼女があまりに逃げ回るため夫人が匙を投げたそうだ。本人に言わせてみれば、刺繍の時間を剣や魔術の鍛錬に当てたかっただけだというけれど、さて。
「義姉さまは……殿下と逢引きかしら」
「こら、エリー……不敬だぞ」
どうも今日は疲れているらしい。言わなくともよかった棘を吐き出してしまったことを一瞬後悔したけれど、どうせならば言ってしまったほうがいい。ラヴィーナがゼニス王子をどう思っているのか、誰でもない彼女の口から聞きたいと、以前から思っていたのだ。そうでなければ――私自身、どう気持ちの折り合いをつければよいのかわからないではないか。そのあたりの心の持ちようがあまり上手でないのは、私がまだ15歳でしかないからだ。15歳の私は他人の心の機微に疎く、お膳立てされた”友人たち”は私の意に添わないことを口にしないものだから、人間関係の切磋琢磨というものが恥ずかしながらできていない。大人びていると評価されることが多い私だけれど、その実、精神性というものは年齢以下かもしれなかった。
「東屋のお2人はずいぶんと仲睦まじく見えたわ……はっきりおっしゃって。義姉さまは、殿下をお慕いしているの?」
見ていたのか、とラヴィーナが形の良い眉を下げた。彼女は少しうつむき、指を遊ばせて、視線を天井に向けてから「養父さまにはまだ内緒だよ」と薄い唇を困ったように開いた。
「ゼニス殿下には、以前から王城への仕官をお願いしていたんだ」
「……仕官?」
「そう、宮廷魔術師に推薦いただきたいとお願いして、殿下も動いてくださっていたのだが、女性を採用した実績がないと管理局に断られてしまった。今日離宮に呼ばれていたのは、それを殿下からお知らせいただくためだったんだ」
なるほど、と思うところはあった。
高位の貴族女性が職を得るとなれば、家庭教師や侍女といったものを選ぶが普通だ。それらは高貴な人間のそばに仕えるもので、ある種の名誉職でもある。王城にも女性の身で仕官しているものはわずかにいるものの、ほとんどが特別な才に恵まれた平民である。子爵や男爵家の妻女であるならともかく、少なくとも伯爵以上の家柄において女性が働くというのは――先に述べた名誉職を除き――、みっともないと思われるようなことだ。まれに商会の会頭となっている女性もいるが、基本的に名前を貸しているだけで、彼女たち自身は店先に立ったことさえないはずである。
そういった価値観のあるこの国で、宮廷魔術師になりたいというラヴィーナの希望。彼女の才能を知るゼニス王子だからこそ――愛する女の願いをかなえてやりたいから――魔術管理局に掛け合ってくれたのだろう。まっとうに魔術師になろうと思えば、採用試験を受けるべきだが、しかし男性偏重の魔術社会である以上、いくら正しい道順を踏んだところで、いくら彼女が優秀であったところで、蹴落とされるのはほぼ確実だ。だから、ラヴィーナは王子という強力なコネを使ったのだろうけれど――
「でもね、エリー。近衛騎士ならばどうだろうと、殿下からご提案をいただいたんだ」
「……近衛騎士?」
鸚鵡返しにした私の顔は、きっと少し間が抜けていたに違いない。ラヴィーナは、滅多に表情を変えない私を珍しく驚かせたことにいたく満足したようで、嬉しそうに大きく笑ってみせた。確かに彼女は剣の腕にも優れているけれど……
「近衛騎士であれば女性もいるし、なにより将来エリーをそば近くで守ることができるだろう? 王妃付きの騎士を志願してはどうか、なんて殿下も気が利いていると思わないか」
違う。私は言い返したくなるのを、唇を噛んでぐっとこらえた。
ゼニス王子の提案は――私のそばにいられるという提案は――自分のそばにも置いておけるという、その動機のためだ。「殿下をお慕いしているのか」という問いに、ラヴィーナは答えなかった。だから彼女の気持ちは保留しよう。だが、ゼニス王子の内心は、間違いようもなく、邪推でも何でもなく、ラヴィーナで占められている。
「いらないわ」
そう、言うしかないじゃないか。
「義姉さまみたいにがさつな護衛なんかいらない。その性格じゃ魔術師のほうが向いてるわよ」
顔を背けながら言い放つ。妙に苦しい。不思議な話だ、ゼニス王子のことはなんとも思っていないのに、どうしてこう不快になるのだろうか。ゼニス王子は4大公爵家から3人の娘を娶ることになっており、誰が正妃になったとしても、他に2人の妻がいることには変わりない。他の婚約者たちをゼニス王子が気に入ったとしても、そういうものだろうと流す自分の姿は想像に難くないというのに。
どうして。
どうしてラヴィーナだけ。
「エリーは優しいな」
思いもよらぬ言葉とともに、後ろからいきなり女性にしては硬い手で頭を撫でられた。
「そうだな、エリーのそばにいたいという気持ちは本物だけど、宮廷魔術師になりたいって気持ちも本当なんだ。もう少し頑張ってみるかな」
まさかこの破天荒な義姉は、私の嫌味を激励と取ったらしい。どういう頭の構造をしていたらそんなおめでたい発想に至るのだろう。私は黙って頭を撫でられてやりながら、しかし彼女の言葉に言い返すこともしない。家までずっとそのまま黙っていた。だって、ランドスピア家の姉妹が不仲なのは、有名な話なのだから。