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裁判の3年前(続き)
その日の授業が中盤に差し掛かった頃、曇り空からぽつぽつと雨が降ってきた。「ずいぶん荒れるようですから今日はここまでにしましょう」と教師が告げ、私たちは荷物をまとめて玄関へ向かった。いつもならば待機している馬車が、急な予定変更のためまだ来ていない。控室への案内を断り、私は侍女とともに玄関ポーチで馬車を待つことにした。最近は勉強ばかりで庭の散策もできておらず、久しぶりに感じる風が心地いい。
3人の婚約者――正妃候補たちの中で私が最年少だ。他の2名は私よりも年上で、言ってしまえばたったのわずかな差だが、10代にとっては1年の差が非常に大きい。ゼニス王子生誕前後に4大公爵家に生まれた時点で、私たちはゼニス王子――もしくはその兄弟――に嫁ぐ将来が決定していた。彼女たちだって通常の貴族令嬢よりも幼い頃から厳しい教育に耐えてきただろうし、私と同じ程度のことができていてもおかしくない。私よりも優秀という話は聞かないけれど、能ある鷹は爪を隠すというではないか、油断は大敵だ。だから、私は自分の立場を自覚して以来ずっと寝る間も惜しんで勉学に励んでいるわけだけれど、たまにはこうやって何もない時間を――雨の音をぼんやりと聞くくらいの時間を過ごしたって、ばちは当たらないはずだ。
だが扉が開かれたとき、そこに見覚えのある背中を見つけて私は思わず目を細めた。黒い艶のある髪、長身の、男物の服の上からでもわかるしなやかな肢体。彼女は扉の開く音に振り向き、私を認めて明るく破顔した。
「エリー、今日はもう帰るのかい?」
「…………そうよ、義姉さま」
ややハスキーな声で愛称を呼ばれるのは、嫌いではないが、彼女と仲良くする理由もない。黙っていれば冷ややかな美貌は、男装と相まって若い騎士のようだ。同世代の令嬢たちは私に配慮して彼女をよく言わない者がほとんどだが、実は密かに憧れている者もいるという。まあ無理ないことだ。端正な顔にはあまり脂肪がついておらず、鼻と顎は形良く尖っている。ゼニス王子と並べば一対の絵のようでさえあった。
「よかったら私も同乗していいかな。馬の調子がよくなくてね、こちらで預かってもらうことになって、帰りの足がなくなってしまったんだ」
ゼニス王子に頼めば馬車の1台や2台、喜んで出してくれそうなものだが、彼女はそうしなかったらしい。もしかしなくとも私の馬車に相乗りするつもりで、この離宮前で待っていたのだろう。私が断るという想定は、憎らしいことに彼女の中には存在しないらしい。
「かまわないわ」
養い子とはいえ王族に連なる家の庇護下にあるというのに、ラヴィーナはいつどこに行くにも1人で行動する。侍女どころか護衛の騎士さえ連れようとしない。それで以前父と喧嘩していたが、頑として折れることはなく、今日も今日とて1人きりのようだ。
「実はそばに人間がいるのが苦手でね……エリーは別だよ」と打ち明けてきたことがあるように、彼女は人懐っこい物腰と違ってその実社交的ではない。他人をあまり信用しない節があるようで、騎士も侍女も必要以上にそばに近づけようとはしなかった。それはそれで構わないのだが、そうやって外をうろつくことで、「ランドスピア家は実子と養い子の扱いにずいぶんと差があるようだ」とよろしくない評判を招いていた時期もある。彼女の破天荒な性格のせいで、その陰口もいつの間にか消えたけれど。
それ以上会話が弾むこともなく、ややあって公爵家の紋章入りの馬車がやってきた。向かいの席が侍女の者であるため、自然、ラヴィーナが私の隣に腰を下ろした。授業のあと私が疲れでぼんやりするのは常なので、侍女は口を閉ざしていた。
静かな空間に、雨が屋根を叩く音が響く。雨雲が厚くなってきたのか、徐々に空が暗くなっていく。ぽつぽつ程度だった雨は激しさを増し、白い糸を引いて地面へ吸い込まれていく。どこか泥くさい雨のにおいが鼻をくすぐる。湿気を孕んだ重たい空気が、私は嫌いではなかった。許されることならば一度くらいは全身を雨に晒してみたい――将来の王妃に目されている身では決して許されないことだけれど、ラヴィーナはやったことがあるのかもしれない。いや、きっと1度や2度ならずやっていそうだ。