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裁判の3年前
あれは、裁判の3年前あたりか。まだ私が15歳であった頃の記憶だ。
最初に2人の関係に気づいたのは、もうずいぶんと以前のことだったと思うのだけれど、具体的にいつかと聞かれても思い出すことができない。その頃の私は勉学に礼儀に音楽にと、とにかくやることが多くて、それどころではなかった。もっとありていに言えば、15歳の子供でしかなかった私には、恋どころか嫉妬の感情さえよく理解できていなくて、自分の婚約者になるかもしれない男と、自分の義姉が懇意にしているからといって、どうとも思っていなかったのだ。
乳兄姉である護衛騎士と侍女たちは、私くらいの年齢のときにはもう初恋もその次の恋も経験していたそうだ。確かに15歳といえば外国では結婚していてもおかしくない年齢であり、肉体的にも血の道が通っているから、子供だって産める年齢である。望めばすべてを手にできる高貴な身分の私が、どうして彼らが自然と得ていたものを経験していないのか、少々不快で、不安だった。自分の人間性に欠陥があるのかもしれないと、少しの間不安定になったけれど、家庭教師が耳打ちしてくれたところによれば、恋というものを生涯経験できない者も珍しくはないらしい。
そんな低俗なよりも重要なのは配偶者への信頼と献身です――と、家庭教師は微笑んだっけ――恋だの愛だの、そんなものは物語と劇の中にあれば充分なのです。あなたに必要なのは国母としての、民全てへの博愛と慈愛です。エリシアさま、あなたは普通の娘ではないのですから、それを決して忘れぬよう――
「……また、ですわ」
すぐそばで響いた誰かの声に私は意識を引き戻した。ここしばらく根を詰めていたせいで、少しぼんやりしていたようだ。
私たちがいるのは、王城の敷地内に建てられた離宮のひとつである。離宮1階のサロンで取り巻きの娘たちと親睦を深めるという名目の、あまり実のない茶会を開いたのち、2階に移動していたところだった。階段を上りきった先に伸びる廊下の、左手一面に並ぶ大きなガラス窓。こんなに透明度の高い1枚ガラスをこれほど贅沢に使えるのは、さすが王の城と感心せざるを得ないのだが、それはさておき、”友人たち”の視線はその窓の外に向けられていた。
王族の生活空間である4つの離宮に囲まれた中心の土地――窓の向こうには王族のための庭園が設えられていた。ちょっとした公園ほどの広さがあり、警備の都合上だろう、ある程度見晴らしがよく作られている。そのため、私たちの位置からも庭園内部の様子がよく見えるのだ。季節は初夏で、花の彩りと葉のさわやかな緑が絶妙に調和した、素晴らしい景色である。ガラス越しでも匂い立つような見事な造園は、いつまでも眺めていたくなる。
そんな庭園に、こちらも誂えたようにお似合いの男女の姿がある。東屋にティーセットを用意して仲睦まじく話している様子が私の目にもよく見えた。もちろん彼らは2人きりでなく、東屋のそばには侍女や騎士の姿もあるのだが、顔を突き合わせて熱心に語り合う2人の雰囲気はまるで恋人のそれだ。
私によく似た色の金の髪をした青年は、ゼニス・イニエスト王子――私の婚約者である。絵から抜け出したような麗しい姿で、紺のジャケットをすっきりと着こなしている。”友人たち”が睨んでいるのは、彼の対面に腰を下ろしてなにやら熱心に話している様子の人物だ。一見するとゼニス王子と同じ年頃の青年。真っ直ぐな黒髪を後ろで束ねて、騎士服に似せた黒い衣装をまとっている。凛々しい青年に見えるが、その実、私の義姉であるラヴィーナ・ランドスピアであった。
「ずいぶんと仲のよろしいこと」
吐き捨てるような品のない言葉は、まったく誰が口にしたのやら。ラヴィーナは私にとって遠い血縁の娘であり、10年前に彼女の両親が他界したのち、ランドスピア家に引き取られた。ランドスピア家の直系ではないし、公爵家当主と養子縁組もしていないとあって、当然ゼニス王子の婚約者には立てられていない。それにもかかわらずゼニス王子に呼ばれて離宮に日参し、仲良くおしゃべりに興じている異端の男装令嬢とあって、私と同年代の令嬢の中で、義姉の評価は最悪である。なにより義妹である私が婚約者になっているのに、遠慮のひとつもしないのかと、いつものように陰口を叩かれているらしかった――もちろん私の耳に直接入ることはない。しかし私だって貴族の端くれであり、多少の情報収集くらいはやっている。ラヴィーナの全体的な評判は、まあ、賛否両論といったところか。受けるところには受けるのだが、決して一般的な貴族には受けないだろう。
「エリシアさま、あの」
「どうということもないわ」
気遣わしげな呼びかけを、私は一言で切り捨てた。彼女たちは私を真実心配しているわけではなく、私を焚きつけて目の上のたんこぶを叩いてほしいだけだ。まともに取り合う必要もない、くだらない挑発に過ぎない。私がまだ年若いためこの程度の娘たちにも侮られるというのは、顔には出さないけれど、なかなかに腹立たしい。
公爵家と養子縁組をしていないラヴィーナは、未婚でもあるため、公的には生家の姓のままとなっている。ランドスピア姓の使用を許されているのは、後見人である公爵家当主の与えた恩情と便宜によるものに過ぎず、法的な根拠はない。とはいえ、非公式でもランドスピア家の一員と認められている以上、”友人たち”はラヴィーナを格上の公爵家の人間として扱わざるをえない。いくらラヴィーナの非常識に苛立とうと、自ら事を荒立てるわけにはいかないのだ。その代理を引き受けるほど私は愚かでないし、暇でもない。
だが私が愚かでなくとも、周りの人間も同じとは限らないのが世の常だ。
「傍流の分際で、エリシアさまを差し置いて図々しい――」
さすがに看過できない一言に、私は足を止めて振り返った。にぎやかにさえずっていた”友人たち”は、私の表情を見てさすがに自らの失態を悟ってくれたようだ。場の空気が急激に冷える。ろくでもない。まったくもって、どうしようもない。
「仮にもオランドールの者を侮辱する気?」
「も、申し訳ございません!」
一斉に頭を下げる彼女たちを一瞥してから、手にした扇でひときわ小柄な娘――失言の主の肩を軽く叩いてやった。ふんわりしたドレスの下に隠された華奢な肩が、びくりと震える。こういうとき背が低いのは得だわ、と見当違いなことを考えてしまった。ラヴィーナと私は近い血縁というわけではないけれど、どちらも女性の平均よりも上背があり、さらにやや目尻が釣り上がっているせいで、気が強く見えてしまいがちだ。小柄で幼い顔立ちをしている娘が涙ぐんでいれば、おおよそ男というものは彼女の罪を許してしまいたくなるものだろうが、私がそのような顔をしたとて同じようにはなるまい。
「わたくしに媚びるのはかまわないけれど、二度とそのような妄言を吐かないことね」
凍り付いてしまった彼女たちを置き去りにし、私は侍女を視線で促し、さっさと2人で足を進めた。今日は王城に招かれた教師から外国語を学ぶ日だ。気分を切り替えながら、それでも視線は庭園に向かってしまう。
(傍流の分際で、ねえ……)