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灰は眠らない  作者: 諒
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4

 ”瘴気の森”は、その名の通り、瘴気に満たされた場所であるといわれている。立ち入れば生きては帰れぬ、人の命を蝕む瘴気に包まれた森。いわれている、というのは単にあちらを確かめて戻ってきた者は誰もいないからだ。では誰が最初に”森”と言い出したのかという疑問は残るが、歴史に曰く、かつてそこにはイニエスト王国の前身であった国があったのだという。地割れから噴き出した瘴気により、国は一夜にして滅びた。滅びたというのも、いったい誰が語り継いだのか? 歴史書に書いていない部分について想像をたくましくするのであれば、一夜にして滅びたというのは昔話特有の誇張表現で、実際には民が逃げ出す猶予があったのだろう。そうでなければ、近隣の土地の者が惨劇を目撃をしていたとか、まあそういったことがあったのだ。そのいずれかでなければ、瘴気の害も滅びた国のことも誰も知らないまま、イニエスト王国だって興らないまま、すべてが滅んでいたはずだ。


 ”瘴気の森”は、イニエスト王国西部のグリマルディ公爵領と境界を接している。グリマルディ公爵といえば4大公爵家の1つであり、私が殺害しようと試みたとされるカトリーナ・ハウゼリックの生家である。紋章のついていない馬車に乗せられ、10日が経過した頃、ようやくその境界にたどりついた。

 結界の存在自体は王国民ならば誰だって知っているし、私も当然話には聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。”瘴気の森”とこちらの側は、虹色の結界で隔てられていた。この結界はイニエストを建国した王の側近である大魔術師が練り上げたもので、今は王家が管理している、今では再現不可能なほどに超高等な魔術であるという。空を見上げても果てが見えないほどの巨大な結界は、”瘴気の森”をすっぽり包み込んで王国を守護している。


 真夜中――人目を避けるように兵士たちに連れられて、私は結界の前に立たされていた。兵に渡されたネックレスを首にかける。不透明な乳白色の雫型のガラスが下がったそれは、結界を通り抜けるために用いる魔術具なのだという。この魔術具の存在自体、かなり機密事項に当たるに違いない。そもそも魔術具と呼ばれるものはどんな些細な機能のものであれ、たいてい大変な費用と技術が必要と聞く。それを罪人の追放のためだけに使うなど、王国はずいぶんと贅沢なことをしているものだ。


「では――どうぞお気をつけて」


 いかに極悪人であると断罪されたとて、儚げな外見の娘を誰かが憐れんだのだろう。黙っていれば私は、オランドールの至宝と讃えられた母によく似た顔をしているのだ。今さら気を付けるも何もないだろうにと内心苦笑しながら、私は視線のみを背後に投げる。誰が声の主だか確認できなかったし、兵たちの顔は鎧に隠されて見えなかったけれど、いたわしげな気配だけはなんとなく伝わってきた。

 もしかしたら私が最後まで罪を認めなかったことを、冤罪を訴えていたことを知っている者がいるのかもしれない。あの前代未聞の公判での振る舞いが、こんな末端にまで影響を与えたのだとすれば、まあ、悪い気はしない。

 だとしても、手遅れなのだけれど。


 私は、4大貴族オランドール公爵家の1人娘だ。たとえこれが親族に陥れられた末の惨めな処刑であろうと、死出の旅であろうと、最期の一息のときまで誇り高く自らの足で立つ。それが、エリシア・ランドスピアに与えられた運命なのだから。

 ゆっくりと歩みを進め、結界へと手を伸ばす。ほんの少し反発するような感覚、とぷん、と生温い水に手を突っ込むような感覚に構わずに足を進める。


 知らず、目を閉じて息を詰めていたらしい。結界を抜けた先には、ほのかに赤い世界が広がっていた。


 ”森”と呼ばれている場所であるはずなのに、建物はもちろん木の1本も生えておらず、ただただまっさらな荒野が広がっている。昼も夜もわからぬ、夕暮れの中にいるような錯覚。方向感覚を奪われ、ぐらりとめまいを覚えた。


(…………痛い)


 恐らくこの赤く染まった空気が、瘴気なのだろう。一歩でも結界を抜ければただちに死ぬのだと覚悟していたが、以外にも目や鼻、喉、胸にちりちりと痛みがあるだけで、血を噴き出すような兆候は今のところない。普通の空気よりも妙に密度が高く、重たくて、刺激的で、嗅いだことのない植物のようなにおいがする。夏の日に芝を踏んだときのような、草いきれに似ているかもしれないし、似ていないかもしれない。ただ一つだけ言えるのは、長く生きられるとも思えないことだけだった。


 周囲をぐるりと見まわし、歩き始めた。行く当てがあるわけでは当然なかったけれど、結界の近くで死んで、次に送り込まれてくる者たちに見苦しいむくろを晒したくはない。

 そういえば、この場所にはかつて滅んだ王国があるのだっけ。このまま歩き続ければその街にたどり着くかもしれない。普段出歩かない貴族令嬢のやわな足でどこまで歩き続けられるかは疑問だが、誰も見たことのない滅びの街を目に焼き付けてから死ぬのも、悪くないのかもしれなかった。


 そんな楽観的な考えは、しかし見当違いだったようだ。時計もなくすべての感覚が狂ったこの世界で、しばらくと感じられるほどの時間歩き続けた頃、思うように体が動かないことに気が付いた。指先が痺れ、足が止まり、そのまま硬い地面に膝をつき、体重を支えられずに横倒しになる。固い地面に頬を打ち付けたのに、痛みを感じないし脳が揺れる感覚もない。ぐるぐるぐるぐると視界が回る。世界が先ほどよりも真っ赤なのは瘴気の赤か、もしかしたら目から出血しているのかもしれない。確かめられない。顔に触れようにも手が動かない。息を吸う。吐くことができない。棒切れのように感覚の通らない腕をなんとか引き上げて胸を押し、絞り出すように空気を吐き出す。反射的に息を吸い込もうとするが、はくはくと口が動くだけで、何も入ってこない。苦しい。草のにおいがする。頭がぼんやりする。頭の芯が痺れる。何も聞こえない。そういえばこの場所には、音が、ない。


(ああ……飴玉のことを忘れていたわ……)



 思いのほか、苦しみが長引かなかったことが、唯一の救いであったかもしれない。

(-人-)

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