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裁判の3年前(続き)
風呂を済ませて侍女に下がるように申し付けると、ようやく1人になれる時間がやってくる。長く伸ばした金髪は緩やかな三つ編みにされ、体を締め付けるコルセットもない。深呼吸をすればやっと息をできた気がした。もちろん扉1枚隔てた隣室には寝ずの番の侍女がいて、ベルを鳴らせばすぐに飛んでくるし、部屋の外の廊下にも騎士が巡回している。高位貴族の屋敷は、眠りにつくことがない。とはいえ直接誰かの視線にさらされることのない時間は、常に”正しさ”と”手本”を求められる私にとって、何物にも代えがたい貴重なものだ。時計を見るといつもの就寝時間よりもずいぶん早い――今日の授業をおさらいしようか考えて、ふと鏡に映った自分の顔が疲れ切っていることに気がついた。
(……少し肌が荒れているかしら)
15歳らしくまろやかな頬に白磁の肌。やや吊り上がった目尻。空を切り取ったように澄んだ空色の瞳。私の父や兄も綺麗な瞳をしているけれど、オランドールの色という観点で物をいえば私のほうが初代に近い、らしい。父から継いだ瞳の色。ただ、私はこの顔をどうしても好きになれなかった。顔だけではない――髪も、体つきも、声も、すべてがオランドールの至宝と名高い母のそれで、まるで、そう、呪いのよう。瞳の色以外は、それこそ写し取ったように似ている。
私の母が他界したのは5年前のことだ。オランドール公爵家当主である父には、直系の子供が男と女の1人ずつしかいない。何かあったときのために後妻をとって、せめてもう1人2人は産ませなければならないのだが、父は未だに母を忘れかねているのか、縁談をことごとく蹴っているようだ。他の貴族ならば親戚筋や娘婿を養子にとって家督を継がせることができるが、公爵家にはそれが許されていない。あくまで当主は直系に限られる。だから男児が1人だけというのは大変よろしくない状況のはずで、父は遠からぬ将来、周りの勧めを断りきれなくなって後妻を娶ることになるだろう。両親が仲睦まじく過ごしていた記憶は、少なくとも私の中にはないのだが、夫婦とは不思議なものだ。
私の記憶に残る母は――いや、やめよう。私は鏡を叩きたくなる衝動をぐっとこらえて、不快な過去に顔を背けた。もうすぐ母の命日だけれど、私は母の墓前に花を供えたことがない。父も兄もそれを咎めたことはないが、きっと内心面白くはないだろう。私と母が、それこそ本当に不仲であったことを、彼らは知っているはずなのに。
窓の外から雨音が聞こえてきた。夕方に一度やんだ雨は、またしつこく降り始めたようだ。悪天候のためか体が重たかった。今日くらいは自分を甘やかしてやってもいいかもしれない。私は布団に転がり、枕に顔を押し付けた。
母のことを思い出すと、自分が惨めになる。自分が惨めになると、今度はラヴィーナへの悪感情が顔を出す。
(……義姉さまなんて大嫌いよ)
あんな女、目に入れるのも嫌だ。4大公爵家に生まれた娘として必死にあがいて、その名に恥じぬものを得ようと人知れず奮闘している私を後目に、ラヴィーナは好きなことを好きなようにやっている。大きく顔を崩して笑う顔は本当に眩しくて、綺麗で、可愛い。妬ましい。そう、私はラヴィーナが妬ましいのだ。私だって公爵家当主の娘ではなかったら、もっと違う人生を送れただろう。温かい食事に絹の布団を与えられて、それ以上を望むのは贅沢なことなのかもしれないけれど、だけど私は――王子の妻などになりたくはない。結婚したあとも死ぬまでずっと高みにい続けなければならない人生などより、ふう、と息を吐いて雨の音を聞いてまどろむほうがずっと幸せそうだ。
(義姉さまが殿下と結婚すればよいのに……それがみんな、幸せになれるのに)
そんなことを考えながら引きずり込まれるように眠りについた夜から、たった3年。家族に陥れられて死地へ送られることになるなど――私の望み通り、ラヴィーナがゼニス王子の妻となることなど、このときの私はまだ知らない。