選んだ地獄
「さあさあ、どれにしますか? この中からお好きなのをお選びください」
男は驚いた。地獄に落ちたことに対してではない。彼の人生は荒んでいた。人間関係に恵まれず、常にナイフを擦り合わせるような緊張感がつきまとっていた。人を傷つけ、また傷つけられてきた。仲間と呼べる存在ができたこともあったが、裏切られ、最後には背中を刺されて失血死した。
だから死後、自分が地獄行きだと知らされても、特に驚かなかった。むしろ当然の帰結だと思った。ただ、どの地獄に行くかを自分で選べるという点に、少し驚いたのだ。
赤黒い肌の鬼が巻物を手渡し、にやにやと口角を吊り上げながら言う。
「さあさあ、どうしますか? 地獄にもいくつか種類があることはご存じでしょう? あなたには選ぶ権利がありますよ」
巻物を広げると、古風な文字とともに数々の地獄の光景が描かれていた。針の山、血の池、窯茹で――どれもが凄惨で、苦悶の表情を浮かべた人々の姿が細かく描き込まれていた。
男はしばらくその絵図を眺めたが、やがてため息をついて言った。
「……なあ、誰もいない地獄はないのか?」
「え?」
「一人になりたいんだよ。俺はもう、人間ってやつにうんざりしてる。疲れたんだ、心底な。鬱病かもしれん」
「まあ、地獄に落ちた以上、気分が沈むのは自然だと思いますけどね」
「ほら、どの地獄を見ても人間同士で押し合いへし合い……はあ、地獄に落ちても争ってやがる」
「まあ、それも含めて地獄ですからね。ちなみにパワハラ地獄なんてのもありますよ。私がいるのもそこです。毎日、閻魔様に……おっと、失言でした」
鬼は咳払いし、手元の巻物をめくった。
「ええと……あ、でしたら、お一人様用の地獄はどうでしょう?」
「え、そんなのもあるのか?」
「ええ、現世でも飲食店などでお一人様専用ブースを設けるお店や、独り身の方が増えているでしょう? 地獄も価値観をアップデートしていかないといけませんからねえ」
鬼は真っ赤な口内を見せながら笑った。
「後者はちょっと違う気がするが……まあ、別にいい」
男はその笑みに不信感を抱いたものの、結局一人用の地獄を選んだ。もう誰とも関わりたくなかった。一人でいることこそが平和に思えたのだ。
こうして、男は一人用の地獄に放り込まれた。
床に座り、ただぼうっと前を見つめる。時々、上を見上げ、横を向き、また前を向く。
そこには人間も動物も、虫すらもいない。匂いも風もなく、自分が発する音すらも一切存在しない、完全な静寂が広がっていた。誰もいない。誰も話しかけてこない。まさに理想的だった。
ただ、壁も天井も床も、すべてが鏡だった。
やがて男は気づいた。自分自身からは決して逃れられないのだと。