4 消え去った勇者
勇者と少女は、いつものように庭のテーブルでお茶を楽しんでいた。木漏れ日が降り注ぐ穏やかな時間。
勇者が淹れたハーブティーからは、甘く優しい香りが立ち上り、二人の心を癒していた。だが、いつもの平和な時間とは、少しだけ空気が違っていた。
勇者は、故郷の村の畑で採れた新鮮な野菜や果物を使って、少女のために特別なケーキを作ってくれていた。パンケーキの間に挟まれた甘酸っぱいベリーが、まるで宝石のように輝いている。それは勇者が少女に心を込めて作った、特別なパンケーキだった。
勇者は、緊張した面持ちでフライ返しを手にしたまま、少女に話しかけた。
「ねぇ、一つ、聞いてもいいかな?」
「なぁに、勇者くん?」
少女は、不思議そうな顔で勇者を見つめた。勇者は勇気を出して、ぎこちなく尋ねた。
「あのさ、君はどうしてこんな辺鄙な村に、毎週のように来てくれるんだ?」
勇者の問いに、少女は目を丸くした。
「え、どうしてって……」
少女は少し考え込んでから、にこやかに言った。
「勇者くんのご飯が美味しいから、かな?」
「え、そ、それだけ?」
勇者は思わず聞き返した。まさかの返答に、勇者の顔は、少し残念そうになった。
「ううん、それだけじゃないよ。勇者くんとおしゃべりするのも、すごく楽しいもの」
少女の言葉に、勇者の顔がパッと明るくなった。勇者はもう一度、勇気を出して尋ねた。
「そ、そうか……。なら、一つ、聞きたいことがあるんだ。君は、人間と魔族の関係を、どう思う?」
勇者の問いに、少女は少し寂しそうな顔になった。
「……難しいこと、聞くんだね。でも……私は、魔族も人間も、仲良くできるって信じているわ。勇者くんみたいに優しい人もたくさんいるって、信じているから」
少女の言葉に勇者の胸は温かくなった。勇気を出して話してよかった。そう思った勇者はさらに、言葉を続けた。
「そ、そうか……ありがとう。それから、もう一つ……」
勇者は言葉をにごし、視線をそらした。少女は、勇者の様子に首をかしげる。
「もう一つ、何?」
少女が尋ねると、勇者は大きく息を吸い込んだ。
「俺は、この世界の人間じゃないんだ。俺には、前世の記憶がある。
それは、ニホンという、この世界とは全く違う場所での記憶。家族や友人の顔、自分の名前さえも思い出せないほどぼんやりとしたものだけど、そこには、この世界にはない不思議な知識がたくさんあった。
堆肥、灌漑、燻製、衛生……。この村を豊かにしてくれたのは、その記憶のおかげなんだ」
勇者の告白に、少女は目を丸くした。
「そうなの……?でも、そんなの、どうでもいいわ。勇者くんは勇者くんだもの」
少女の言葉に、勇者の胸は温かくなった。勇者は、もう一度、言葉を紡ごうとした。
「それから、もう一つ……」
しかし、勇者は、またも言葉を濁してしまった。少女は不思議そうな顔で勇者を見つめた。
「……まだあるの?」
そう言って、少女は笑った。
「勇者くん、何か言いたいことがあるんでしょ? 私、勇者くんの言うこと、全部聞くから、ちゃんと言って?」
少女の優しい言葉に、勇者の心は決まった。勇者は少女の瞳をまっすぐに見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「そ、そうか……ありがとう。それから、もう一つ。
最初は、ただ、おいしそうに俺の料理を食べてくれる君を見るのが、楽しかったんだ。でも、君と話していくうちに、君が故郷の森の話をする時の、あの優しい顔。村の子供たちと遊ぶ時の、あの無邪気な笑顔。そして、人間と魔族が仲良くできると信じる、君の強い心。
だから、惹かれていったんだ。俺は君に惹かれている。君が、好きなんだ……。」
勇者の言葉に、少女の顔が、ほんのりと赤くなった。少女が、何かを言おうと口を開きかけたその時、勇者が手にしていたフライ返しが、突然、淡い光を放ち始めた。
「勇者くん……?」
少女は不安そうに勇者を見つめた。勇者は何も答えることができなかった。
彼の体はまるで見えない力に引っ張られるかのように、ゆっくりと宙に浮き上がっていく。
少女は驚きと恐怖で、思わず椅子から立ち上がった。
「勇者くん! どこへ行くの!?」
少女の叫び声が勇者の耳に届く。しかし、勇者は、彼女に手を伸ばすことさえできなかった。
光は次第に強まり勇者の姿を包み込む。
次の瞬間。
勇者の姿は、まるで最初からそこにいなかったかのように、跡形もなく消え失せてしまった。
※
「いやあああああ!」
少女の悲鳴は、穏やかな村の空気を引き裂いた。その声は、森の奥にまで響き渡り、隠れて見守っていた護衛の魔族たちを呼び寄せた。
フクロウは、翼を広げて急降下し、少女の肩に止まった。リスは、地面を這うように素早く駆け寄り、少女の足元に駆け寄った。そして一匹のモモンガが、木々を滑空して、少女の頭の上へと舞い降りた。彼らは警戒心に満ちた目で、勇者の消えた場所を見つめていた。
少女は勇者の消えた場所をじっと見つめ、呆然と立ち尽くしていた。勇者くんは、私に心を惹かれていると言ってくれた。前世の記憶があることも、打ち明けてくれた。それなのに、私は……。
(勇者くん……私、本当は、魔国の王女なの。それに、私だって、勇者くんに惹かれていたのよ。ずっと、ずっと、私も伝えたいと思っていたのに……)
伝えられなかった言葉が、少女の胸に突き刺さる。勇者が、私を「ただの魔族の女の子」として、優しく、大切に想ってくれていた。それなのに、私は、自分の素性を隠し続けていた。
もし、私がもっと早く、本当のことを話していたら……。勇者くんの言葉に、素直に「私もよ」と答えたかった……。
後悔の念が、少女の心を締めつける。勇者の言葉は、まるで、遠い夢のように、彼女の心に響いていた。
「お嬢様! 何があったのですか!?」
フクロウが心配そうに尋ねた。少女は勇者が光に包まれて消えてしまったことを、涙ながらに話した。その話の中の言葉に、フクロウの脳裏に警鐘が鳴り響く。
(もしや……!あの男は、最初からこの世界の人間ではなかったのか!?)
少女から話を聞きだしたフクロウは、確信した。
「それは……《勇者》召喚に違いありません」
フクロウは、古き文書に記された王国の禁呪について語った。それは、異世界の勇者の魂を無理やり引きずり込む魔法。勇者が、王国の禁呪によって連れ去られたのだと。
少女はフクロウの言葉に、絶望に顔を歪めた。
(《勇者》……。そう、《勇者》だ。王国は、また勇者を呼び出したのね……)
彼女の脳裏に、古くから魔国に伝わる忌まわしい歴史が蘇る。幾度となく王国が召喚した「《勇者》」と名乗る者たちが魔国を侵略し、故郷の森を焼き、民を蹂躙した。彼らは自らの行為を「正義」と信じ、魔族の命を、ただのゲームの駒のように扱った。
「まさか……勇者くんが、王国の《勇者》に……?」
少女の顔は絶望に染まった。勇者くんは、もう、私の元には戻ってこない。いや、それどころか、もしかしたら、彼は……。
少女の瞳から、再び涙があふれ出した。
(《勇者》召喚……まさか、あの男が……!)
フクロウは村にある数々の不思議な道具や、勇者が以前、少女に話していた「前世の記憶の断片」を思い出す。それはこの世界には存在しないはずの知識の数々だった。
堆肥、灌漑、燻製、そして衛生。
(勇者の持つ知識の数々、その武器開発への転用。それだけで魔国にとって計り知れない脅威だ。)
(勇者の頭は切れる。その軍略は、我々が過去に出会ったどの勇者より上だろう。)
(そして《勇者》としての力……それだけは、まだ未知数だ。だが、過去の例を考えれば、最低でも、数千の軍に匹敵する力を持っていると考えるべきだ。もはや我々魔国に抗う術はないかもしれない……!)
フクロウの心は最悪の事態を想定して、急速に冷えていく。かつて王国が召喚した《勇者》によって、魔国が受けた甚大な被害を思い出し、背筋に冷たいものが走った。
その様子を察したモモンガもまた、静かに絶望に沈んでいた。彼の祖父は、過去の《勇者》によって故郷の村を壊滅させられ、多くの家族や仲間を失った。あの時の悲劇が、再び繰り返されるかもしれない。フクロウの表情は、その危険性が、決して杞憂ではないことを物語っていた。
(きっと、戦うのは無理だ。お嬢様を、魔国のみんなを守るには……)
モモンガは、心の中で決意を固めた。
(できる限りの民を連れて避難する。そして、お嬢様をどこまでも守り抜く。たとえ魔国がなくなったとしても、王族の血を守り抜き、いつの日か、どこかの地で魔国を再興する希望を残すのだ)
リスが少女の足元に駆け寄り、彼女のローブを引っ張った。
「お嬢様、今は、泣いている暇はありません。王国の禁呪が発動したということは、王国が再び、私たちにちょっかいを出してくる可能性が高いのです。一度、お父様の元に戻り、今後のことを相談すべきです」
モモンガが少女の肩に乗り、その頬を優しく撫でた。
「お嬢様、大丈夫です。私たちが、必ずお守りしますから」
モモンガの言葉に、少女はハッとした。そして、顔を上げ、勇者の消えた場所を、もう一度見つめた。勇者が残したパンケーキが、彼女の決意を後押しした。
「うん。わかったわ。みんな、行きましょう」
少女は、勇者と過ごしたかけがえのない日々を胸に、故郷へと続く道を歩き始めた。
その道は、勇者との再会を果たし、そして魔国の民を守るという、少女の強い決意に満ちていた。
勇者 =登場人物
《勇者》=概念




