2 召喚前の勇者
実のところ、勇者は異世界の住人ではなかった。
王国と魔国の境、森の中にひっそりと佇む辺境の村に住む一人の若者であった。
だが彼には、前世の記憶があった。
それは、ニホンと呼ばれる遠い国の、曖昧な夢のような記憶。家族や友人の顔、自分の名前さえも思い出せないほどぼんやりとしたもの。
しかし、その記憶の断片には、この世界にはない不思議な知識が詰まっていた。
初めてその知識が役立ったのは、村の痩せた土地を改良した時だ。前世の記憶から「堆肥」という言葉を思い出し、藁や家畜の糞を発酵させ土に混ぜ込んだ。
「こんなもので、本当に作物が育つのか?」
半信半疑だった村人たちの前で、勇者はただ黙々と作業を続けた。やがて、その土地からは、これまで見たこともないほど大きく、瑞々しい野菜が実った。村人たちの驚きと歓喜の声が、森に響き渡った。
ある時は、雨が少ない季節でも作物が枯れないよう、近くの川から水を引くための灌漑設備を作り上げた。彼は前世の記憶からヒントを得た水車を木材で組み上げ、村人の度肝を抜いた。村人たちは、まるで奇跡のように水が畑へと流れていく光景に、ただただ立ち尽くした。
またある時は、「燻製」という保存方法を思い出し、狩りで手に入れた肉を長期保存できるようにした。それまで冬になると食料が尽き飢えに苦しんでいた村は、彼の知識のおかげで初めて豊かな冬を迎えることができたのだ。
勇者は「衛生」という概念も、村に持ち込んだ。
「手を洗ってから食事をするようにしましょう。それから飲み水は、必ず煮沸してください」
最初は奇妙な習慣だと受け取られたが、彼の教えを守るようになってから、村に蔓延していた風邪や腹痛が以前ほど流行らなくなった。
小さな傷口が化膿して命を落とす者も激減し、村人たちは、彼の言葉には不思議な力が宿っていると信じるようになった。
「まるで魔法使いじゃな」
村の長老はそう言って、勇者の肩を叩いた。しかし勇者は、ただ静かに微笑むだけだった。彼にとってそれは魔法ではなく、遠い故郷の智慧の断片だった。
小さな知識の積み重ねが、村を貧困から救い、やがて村全体を豊かに繁栄させた。いつしか若者は村長と呼ばれるようになった。
旅の商人が村を訪れると、村の豊かさに目を見張った。辺境の地で豊かな作物が育ち人々が活気に満ちていることに、驚きを隠せない。
「信じられん。この村は一体、どうしてこんなに豊かなのだ?」
商人が尋ねると、勇者は答えた。
「特別なことはしていませんよ。ただ、作物が育ちやすいように、水をあげて、栄養を与えただけです」
商人は首を傾げた。そして、勇者が考案した馬に引かせる耕運機を見たとき、彼の目はさらに丸くなった。
それは、従来の鍬や鋤とは比べ物にならないほど効率的で、一頭の馬で広大な畑を耕すことができる代物だった。
「これは……これは、一体どういう仕掛けだ!?」
商人は、興奮した様子で勇者の耕運機を調べ回った。彼はこの道具が、農業の在り方を根底から変える可能性を秘めていることを直感したのだ。
しかし、勇者はその驚きを意に介さず、ただ穏やかに商人の質問に答えるだけだった。