10 勇者、王都を出立する
朝、勇者は小鳥のさえずりで目を覚ました。
窓から差し込む柔らかな光が、部屋を満たしている。外は快晴。彼は簡素な身支度を整え、一階の酒場へと向かった。
宿屋の酒場は、朝は食堂として使われていた。宿泊客がまばらに席につき、静かに朝食を摂っている。勇者は空いているテーブルに腰掛けた。
給仕人が運んできたのは、温かいスープと焼きたてのパン、それに新鮮な果物だ。彼は静かに食事を始めた。スープを一口飲むと、昨夜、思考の海に深く沈んだ心が、嘘のように落ち着いていく。辺境の村の朝と辺りの様子を比べながら、ゆっくりと朝食を味わった。
食事を終えると、勇者は一度部屋に戻り、荷物をまとめた。王国から与えられた白銀の胸当てを身につけ、フライ返しを袋にしまい込む。準備を終えると、彼は再び一階に降り、宿屋のおかみに声をかけた。
「おはようございます。宿泊費をお願いします」
おかみは笑顔で会計を済ませ、思い出すように昨夜の出来事を口にした。
「それにしても、昨夜は驚いたよ。あんたが作った料理……ポテトチップスだったかね? あんなに美味しそうな匂いは、嗅いだことがないね。宿泊客もみんな喜んでいたよ」
勇者は、控えめに笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。故郷の村で、よく作っていたんです」
「そうかい。あんたの故郷は、きっと素晴らしい村なんだろうね」
おかみの言葉に、勇者は辺境の村と、そこに通う魔族の少女の顔を思い浮かべた。
外に出ると、活気あふれる街の喧騒が勇者を包み込んだ。行き交う人々、軒を連ねる商店、立ち並ぶ屋台。辺境の村とは、まるで違う光景だ。
しかし、そこにいる人々の顔には、明るい笑顔が浮かんでおり、不安や警戒の色は見られなかった。魔王が現れたにしては、穏やかな空気が流れている。脅威を感じているようには見えない。
勇者は、近くのパン屋を訪れた。焼きたてのパンが並ぶ店内は、香ばしい匂いで満たされている。
「いらっしゃいませ!」
愛想の良い若い女性が、勇者を出迎えた。彼女の笑顔は、この街の平和な雰囲気を象徴しているかのようだった。
「昼食用のセットを一つ、お願いします」
勇者がそう言うと、女性は手際よくパンとチーズ、ドライフルーツを紙袋に詰めていく。勇者は、ふと気になっていたことを尋ねた。
「少し、お尋ねしてもよろしいですか?」
「はい、なんでしょう?」
「魔族……について、皆さんはどうお考えなのですか? 最近、この街に魔族の方は?」
勇者の問いに、女性の表情から笑みが消えた。彼女は、一瞬だけ警戒の色を浮かべ、しかしすぐに平静を装って答えた。
「魔族、ですか……。そうですね、私たちは話でしか魔族を知りませんから。おぞましい姿で、人を襲う化け物だと……。ですから、どうお考えと聞かれても……。」
女性はそう言いながら、勇者の顔をじっと見つめる。なぜ、そんなことを聞くのだろう、そう警戒するような視線だった。
「……そうですか」
勇者は、それ以上は何も尋ねず、会計を済ませた。女性は、再び笑顔を浮かべ、勇者を店から見送った。
次に立ち寄ったのは、パン屋から少し歩いた場所にあった、古びた鍛冶屋だった。槌を振るう老職人の姿は、この街の歴史そのものを物語っているかのようだった。
「こんにちは。何かお探しで?」
老人は、槌を置くと、穏やかな表情で勇者に尋ねた。
「いえ、少しお話をお伺いしたくて」
勇者はそう言って、さりげなく魔族について尋ねた。
老人は、一瞬だけ目を細めた。
「魔族、でございますか……。わしらのような街の人間が、魔族をじかに見ることはありません。話に聞くばかりですな……」
老人は、少し考え込むように言葉を続けた。
「魔族は、皆、悪だと教わってきました。ですが、わしは、会うたことはありません。だから、本当はどんなかは知りません」
老人は、首を振って、言葉を続けた。
「ただ、わしの祖父が申しておりました。魔族の中にも、人間と同じように、家族を大切にし、穏やかに暮らしておる者もいると……。ですが、それを信じる者は、ごく少数だ、とな」
勇者は、老人の言葉に耳を傾ける。
「祖父の鍛冶場に、魔族の若者が、道具の修理を頼みに来たことがあったそうで……。正直、最初は恐ろしかったそうですが、その若者は、とても丁寧で、礼儀正しかったと。話してみると、人間と何ら変わりなかったと、祖父は申しておりました」
老人の言葉は、勇者の心に深く響いた。それは、歴史書には決して記されない、真実の断片だった。
「……ありがとうございます」
勇者は、礼を言って鍛冶屋を後にした。
勇者は、街の人々が魔族に対して抱いている恐怖と憎悪は、実は、噂話や偏見が多いのだろうと思った。そして、だからこそ、問題の根深さを憂いた。
勇者はそのまま、馬車の乗り合い場へと向かった。
そこには、すでに数台の馬車が停まっている。御者たちは手綱を点検したり、馬に水を飲ませたりと、出発の準備に余念がない。勇者は行き先を確認し、自分の乗る馬車のそばで待つことにした。
そのとき、視線を感じた。
視線の先を見ると、昨夜、酒場で騎士と口論をしていたフードを深く被った目の赤い男が、少し離れた場所に立っていた。
男は勇者と目が合うと、何も言わずに静かに馬車の中へと消えていった。




