1 勇者、王座を要求する
玉座の間に響くのは、厳かなファンファーレの音。
若き勇者と聖女は、重厚な扉が開かれると同時に、玉座へと続く赤い絨毯を踏み出した。
勇者は二十代半ば、引き締まった体つきに、どこか鋭さを秘めた漆黒の瞳。その顔は、旅の疲れを感じさせない、静謐な表情を湛えている。彼は、故郷の村で着ていた簡素な服の上に、王国から与えられた白銀の胸当てを身につけていた。それは、いかにも勇者らしい装いだったが、彼の瞳は、その輝きを冷めた光で跳ね返しているかのようだった。
勇者の隣を歩く聖女は、まだ十代後半といったところか。白いローブを身に纏い、その銀髪は太陽の光を閉じ込めたかのように輝いている。彼女の頭には、聖女の証である純白の花冠が飾られていた。その美しさは、玉座の間の貴族たちを魅了するに十分だった。しかし、彼女の伏せられた瞳の奥には、勇者と同じく、冷たい光が宿っている。
二人は玉座の前に進むと、そのまま膝をついた。国王は、満足げに勇者に言葉をかけた。
「よくぞ戻った、勇者よ。魔王討伐、見事であった。聖女が持つそれが、魔王討伐の証だな?」
勇者は顔を上げ、国王の目を見据えた。そして、静かに、しかしはっきりと答えた。
「はい、陛下。脅威は、取り除きました」
国王は、勇者の言葉に深く頷いた。
貴族たちの視線が、聖女の手に向けられた。彼女は、恭しく両手で黒い角を捧げ持っていた。それは、勇者が討伐したという魔王の角。
闇そのものを凝縮したかのような漆黒の角の、聖女の白い肌とのコントラストが、見る者の心臓を鷲掴みにする。
(この男を召喚した時は、正直なところ、半信半疑であった)
勇者の召喚は、わずか数週間前。国王の脳裏には、勇者召喚の儀式を行う前の記憶が蘇る。
国庫は空になり、貴族たちの不満は頂点に達していた。魔王領の豊かな資源を手に入れるのが、窮地を脱する手っ取り早い道だった。しかし、繰り返しの戦で騎士団は疲弊し、まともな戦などできる状態ではなかった。
勇者召喚は、現状を打破する、一つの策であった。
勇者が魔王を討伐すれば、国庫が潤い、権威を揺るぎないものにできる。魔王討伐という偉業は、国中の不満を鎮めるには十分すぎるほどの成果だ。
仮に勇者が失敗しても、問題はない。その時は、勇者の独断行動だったことにして、勇者に責任を押し付けるだけだ。
異界から召喚した勇者は、国王にとって、都合の良い道具でしかない。しかし勇者は、国王の期待と不安が入り混じった思惑を、見事に良い方向に裏切ってくれた。
「勇者よ。汝の功績は、この国の歴史に深く刻まれよう。さあ、言ってみよ。汝の望み、余は喜んで聞こう」
宰相や貴族たちは、勇者が金銀財宝や爵位を望むと信じていた。だが勇者は、思いもよらぬことを口にする。
一歩前に進み出た勇者は、国王の目を見据えて言った。
「では、王座を」
その一言が放たれた瞬間、玉座の間からすべての音が消え失せた。まるで時を操る大魔法が発動したかのように、貴族たちの歓声は喉の奥で凍りつき、衛兵の呼吸さえも止まる。
降り注ぐ窓の光は、空中に張り付いたまま動かず、舞い上がった埃の粒一つさえ、静止したかのように見えた。
国王もまた、その言葉の意味を理解するのに時間を要した。彼の脳裏では、勇者の言葉が反響し、現実の光景との乖離に戸惑う。
玉座の間を満たしていたのは、魔王討伐の英雄を称える祝祭の雰囲気だったはずだ。しかし、今、彼の目の前に立つ勇者は、聖剣を掲げる代わりに、王の座を要求した。
数秒とも、永遠とも思える静寂の後、魔法の凍結が解けたかのように、玉座の間はざわめきと、驚愕に満ちた空気に包まれた。
国王の笑みは消え、宰相の顔は驚愕に染まる。一瞬の後、貴族たちの怒号が飛び交った。
「貴様、何を戯言を! 異界の平民ごときが、何を要求しているか分かっているのか!」
「分を弁えよ! 貴様は物を知らぬのか! 王座は尊き血統によって継承されるものだ!」
罵声が続く中、一人の騎士が憤怒に顔を歪めた。彼は、この国を侮辱されたと思い、我慢がならなかったのだ。
「貴様のような不埒者、この場で成敗してくれる!」
そう叫ぶと同時に、騎士は腰の剣を抜き放ち、勇者に斬りかかろうと一歩踏み出した。
その瞬間、勇者は動かなかった。ただ、その騎士を一瞥した。
それだけで、まるで透明な衝撃波が放たれたかのように、騎士は吹き飛んだ。剣を握ったままの姿勢で彼は壁に叩きつけられ、轟音とともに床に崩れ落ちた。
玉座の間は、再び水を打ったように静まり返る。
貴族たちは顔面を蒼白にさせ、勇者から一斉に距離を取った。勇者が放った一撃は、勇者が人ならざるもの、けして手を出してはいけない化け物の類であることを、彼らは本能的に理解した。
(あれは、魔法でもない……!)
宮廷魔術師の老侯爵が、震える声で呻いた。詠唱も、魔法陣の展開も、魔力の発動を告げる空気の歪みさえもなかった。それは、この世界の魔術体系ではありえない現象だった。
勇者は、魔法という理すら超越した、別次元の存在。
貴族たちは、魔王を倒した「英雄」を前にしているのではない。自分たちの理解を超えた、畏怖すべき「何か」を前にしているのだと、その時初めて悟った。
玉座の間は、もはや歓喜の場ではなかった。それは、未知の力を持つ存在に対する、恐怖と服従の場へと変貌していた。