43冊目 英雄にも苦悩はある
酔っぱらいの言い分にまともに耳を貸すべきじゃない。
大抵話が飛躍しているし、根拠はどこにもない自分がそう思ったからそうなのだという理論で展開される。何なら翌日自分の発言内容も覚えていないなんて往々にしてあるしな。
だから、正しい酒の飲み方というのは酔い過ぎない程度に。自分が一番気持ちよくなれる酒の分量を自覚して、中身があるようでない会話を仲間内としながら飲むことを言うのだ。
酒飲み連中は酔って潰れても誰も介抱してくれないし、自分の足で家まで帰れる程度には意識を保っておかなくてはならない。この酒場はマスターが目を光らせてくれているからいいものの、他所だと酔い潰れた結果財布をスられて、どこぞに売り飛ばされるなんて治安の悪いところもあるらしいしな。
で。なんでこんな話をしているかというと、珍しくテーブルで飲んでいるジルの目の前に見知らぬ男が酔い潰れている。
一瞬テーブルの横を通り向けてカウンターまで行ってしまおうかと思ったが運悪くジルと目が合ってしまった。慣れた調子でグラスを傾けながらこちらに向かって手招きをしている。なるほど、付き合えと。
「この人は?」
「酒場の英雄」
「英雄潰れてるぞ」
大方酒場に現れた見知らぬ酒飲みに、いつもの様に話を聞きに絡んだんだろう。
仕方なしとため息を吐いて椅子を引く。近くを通った女将さんに酒を頼むのを忘れずに。このおっさんが起きるまで付き合えばいいのか。
しばらくジルと話していると不意に男が起きた。何やら辺りを見回してもごもご何かを言った後こちらに気付いたように訝しげな顔を向ける。
「おう、誰だ兄ちゃん」
「あー。セージです」
「そーかそーか、ジローっつうのか」
「セージだって」
誰だよ、ジロー。起き上がったが、おっさんはぐでんぐでんに酔っている。大丈夫かこのおっさん。
女将さんが持ってきてくれた酒を受け取りつつ、度々申し訳ないがおっさん用に水も頼む。そのまましばらく機嫌良さそうにグラスの中に残っていた酒を煽っていたがふと、おっさんが焦点の合わない目をこちらに向けてた。
「おめえ、誰かを憎んだり、恨んだりしたことはあるか?」
唐突な質問に、言葉が詰まった。
そんな質問されても何と答えていいかわかんねーよ。恨むってなんだよ。別にそんなことしなくたって生きていけるし、そんな面倒なことしたってなんにもならないだろう。
俺自身そんなに綺麗な人間ではないが、そもそもそんな感情に時間を割くほど人生を持て余してもいない。何ごとも適度に諦める方が、精神的に追い詰められなくていい。
「ねぇけど」
「嘘をつけ!」
「そんなことしたって腹も膨れんだろ」
どういう答えだったら満足なんだよ。ねぇもんはねぇの。
酔っ払いって、なんでこんな面倒なんだろうな。もっといい酔い方しろよ。折角の酒もまずくなるだろ。
「なあ、ジロー」
「セージです」
「俺はな、ずっと誰かを憎んで生きてきたんだ」
「はぁ…」
「おめえにはわかんねーだろうな。順風満帆に人生を歩んできたお前には」
別に順風満帆でもねぇし。それにしたって話聞かねぇなぁ。おっさんがこちらの様子なんてお構いなしに話し始める。
曰く。自分は親兄弟に愛されず、出来の悪い自分は誰にも見向きもしなかった。話しをする友人はいたが、それだけだ。深く親睦を深めず本音を話すこともなく過ごした。それが鼻に付いたのか、気が付いたら周りの奴らから爪弾きにされ、仲の良かった奴にも除け者にされた。
だから、田舎を出て来て、あいつらを見返すために必死に働いて、誰もが羨むような人間になってやろうと思ったわけだ。そしてとうとう、小さいながらに会社を立ち上げるまでになった。
妻は取引先の貴族の娘。美人で気立てもいい。いつもにこにこして美味い飯を作ってくれる。あの田舎の奴らじゃ手に入らない暮らしをしている。羨むだろう、後悔するだろうって思ったんだと、上機嫌でおっさんは語る。
「最高だった。…先月の故郷の顔見知りに合うまではな」
おっさんの声は、最初の覇気あるものからだんだんと弱々しくなっていく。
「声をかけられて、羨ましがられたさ。だけど何故だろうな。俺を羨ましがる奴の方が、生き生きして見えたんだ」
「なんでそう思ったの?」
「なんでだろうなぁ。話してる奴の表情から、辛いのもひっくるめて、楽しいっていうのがわかっちまったんだ」
ジルの質問に答えながらどこか遠くを見ながらおっさんは続ける。
見返したかった奴に比べて自分はどうだ。虚栄心と復讐心を満たすためだけに生きてきた。そういう道を選んできた。誰もがうらやむ人生だったはずなのに、どこで間違えたんだ。
そんなことを悔いるように、絞り出すような声で。
「なあ、ジロー。俺は復讐を遂げたらスカッとするって思っていたんだが、どうやら違うみたいなんだ」
結局、それは他人の目ばかりを気にした生き方で、自分の本当の幸せじゃない。幸せってなんなんだと思ったら、なにもなくなってしまった。と。
それはなんとも抽象的と言うか自己中心的な考えなようで、その実なんだか切実だ。わからなくはないが、虚しくなるな。
「俺が手に入れたものは、俺を幸せにするもんじゃなかったらしい」
「本当にそうか? 俺にはそうは見えない」
どう伝えればいいかわからなかったが、そうとしか言えなかった。
確かにおっさんにも色々あったんだろう。やりきれない思いや、自尊心も。でもそれだけじゃなかった。手にしたものは確かにあったはずだ。何より、奥さんのことを話すおっさんは優しい目をしていた。
いつか指定席に座って酒を飲んでいたおっさんが自慢の奥さんの話をする時の目と同じだった。そんな目をする人が、幸せじゃないわけがないだろう。
「無理に探さなくてもいいだろ。今目の前にあるものを見続ければ、ちゃんと見つかる」
「目の前にあるもの、ねぇ」
「支えてくれる人がいるんだろ。なら、その人を大事にすればいいじゃねぇか」
らしくないことを言った気がする。
目の前にあるもの、なんて。元の世界を諦めた俺が言うと、逃げの様に見えるかもしれない。でも、おっさんはおれとは違う。手にしたものを大切にしてほしい。
隣でジルが笑った気がした。
「…いいこと言うじゃねえか、ジロー」
「セージだよ、おっさん」




