4冊目 世の中そんなに甘くない
酒の席で何を考えているのかと聞かれれば、大抵の人が特にそんなに大したことは考えていないと答えるだろう。
もちろんすべての人がその限りではないだろうし、貴族だとか商会だとかのお偉方ならもっと色々と考えてお酒を飲みながら話すのだろうが、生憎ここは大衆向けの酒場だ。そんな腹の探り合いみたいな楽しくない酒は似合わない。
少なくとも、俺はそういう酒は好みじゃないし、美味い酒とつまみがあればいい。いつもの様に隣で飲んでるジルだってきっとそうだろう。
だからとうに成人を超えた男女で、尚且つ酒の席であるにも関わらずそんなことを口にできるのだ。
「ねえセージ」
「なんだ、ジル」
「セージって脱いだらすごいよね」
おい、酒が気管に入りかけたんだが。
何も言わず水を出してくれたマスターに感謝する。
「お前は言い方がすごいな」
別に何を考えてるかわからなくはない。むしろ。正しく何も考えていないからの発言だろう。酒を飲んでる時のこいつはとにかくよく笑うし、よく喋るのだ。脳を介さず話している節もある。自慢の脳みそはどうした。
ジルは、ふふ、と笑ってまたグラスを呷る。いつもある程度酔ってはいるが、今日はまた一段と酒が回るのが早い。
ジルは息を吐いて、俺に向かってグラスを掲げて見せた。俺もそれに合わせて自分のグラスを掲げて、乾杯をする。酒が回ってるジルは陽気で面倒くさい。いや、ジルと会うのはこの酒場ばかりだから酒が入っていない時の彼女がどうかは知らないが。
「健全な精神は健全な肉体に宿るらしいけど、やっぱりセージも清く正しく美しく生きてるの?」
何故いきなりそんな話になる。
その昔体力を付けるためと、親に近所の剣道道場放り込まれたので行儀は叩き込まれたが、それが清く正しくというものなのかはわからない。それなりに真面目には取り組んでいたつもりだが、何をもって「清く正しく」なのやらさっぱりだ。
ので、以前雑学好きの同僚に教えてもらったことを訳知り顔で唱える。
「その言葉の原語を正確に翻訳すると、健全な精神は健全な肉体に宿って欲しいって文になるらしいぞ」
「まさかの希望文」
ジルはけらけら笑い、カウンターに突っ伏した。頭を支える腕がぷるぷる震えている。まぁそうなるわな。俺も聞いた時腹が攣るほど笑ったわ。
ジルは腕を突っ張った反動で身体を起こし、マスターに追加の酒を要求する。まだ飲むつもりなのか。俺はもう水だけでいい。
中の氷がカラリと鳴った。ジルがグラスをカウンターに置いた音がやけに耳について、そしてまた酒場にはいつもの喧噪が戻る。マスターはジルからグラスを受け取り、何も言わずに酒を注いだ。
ジルはグラスに口をつけ、唇を濡らす程度にちびちびと飲む。カウンターに片肘をつく。ジルの手は細い割に大きい。その指で酒を弄びながら、また、セージ、と呟いた。
「でも本当がっしりしてるよね」
「まあ多少体は作っているが」
じろじろと上から下まで見られるのはいささか気まずいが、相手はジルだしな。所謂一般的な男女の関係を求める方が酷だろう。
俺は気にせずグラスに手を伸ばした。ジルはいい奴だし飲み相手としてそれなりに気に入られてはいる自覚もあるが、お互いにそれ以上の感情は持ち合わせていない。そもそもの話、そういう対象としてお互いを見ていないのでそういう雰囲気になりようがない。
俺を見ているのだって何かの話のネタに出来ないかと観察しているに過ぎないのだろう。
とはいえ、まぁ。鍛えている体を褒められるのは悪い気はしないな。
仕事柄体力もいるし、筋力もあった方がいい。家に居たって特に用事もないし筋トレが趣味になっているくらいだし。というか圧倒的にこの世界は娯楽が少ないんだよ。本でも読むならまだもう少し変わってくるかもしれないが、生憎その習慣がない。
「へぇ。私も体力作りにジョギングとか始めようかと思ったけど、ジョギングの良さを広めた人がジョギング中に死んだからやめたんだよね」
それは、まぁ、なんとも言えない話だな。確かに体力作りに良いのは走ることだし、健康のためにジョギングをしているのに、それが仇になる一例だな。
酒に酔ってはいるがそれなりに頭は回っていて、ジルの口調はいつも通りだ。それでも最初に比べるとグラスの減り方はゆっくりになっている。この調子なら多分この一杯でお開きになるだろう。
飛ばして飲む割に自制が出来るタイプらしく、彼女が酔って寝落ちる姿は見たことがない。それでもまぁ、一応は女なので家まで送るのだが。
「ダイナマイトを作った男はダイナマイトで死んで、ギロチンを作った人はギロチンで死んだから多少はな」
なんて、元の世界でも聞いたよくある話を零してグラスの中の水を一気に飲み干す。最後に溶けて小さくなった氷を噛み砕けば、肺の奥から熱を帯びた息が漏れ出る。
隣でけらけらと楽しそうに笑っている女を横目に、カウンターの上にグラスを戻せば残った水滴が一滴、グラスの側面をつるりと滑って落ちた。