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39冊目 グラス一杯分の優しさ


 最近、色々と考えることがある。

 きっかけはわかってる。エリカちゃんだ。彼女に出会ってから、ほんの少しだけ向こうの世界に置いて来たものを思い出す時間が増えた。親兄弟や友人、顔見知りなんかがそうしているか気になったり、懐かしい感情に囚われてみたり。

 随分とまぁセンチメンタルになった物だ。物分かりはいい方だし、まだ昔を懐かしむほど年寄りになったつもりはないのに。


 いつも通り三人でカウンター席に並んでそれぞれのグラスを傾ける。酒だったり、炭酸水だったりと中身は様々だが「いつも」と言えるくらいにはそれが日常になってしまった。

 だからきっとセンチメンタルな感情は、この日常と十年前までの日常との差異から来る心境の変化だ。手を伸ばしても届かないものが眩しくてそんな感情になってしまっただけ。


「今日は草刈りだったんですよ」


 ぐたりとカウンターに体重を預けたエリカちゃんが言った。ギルドより配分される仕事は多岐にわたるのだろうが、そんなのもギルドの仕事であるのか。足腰がやられそうだな。俺ならごめんだ。

 まぁ地域住民の困りごとや、国から請け負う魔物の討伐任務まで。ありとあらゆる依頼があるが草刈りはさすがに異色なんじゃないか。

 というか、この街にそんなに草が生い茂っているところなんてあったか? 貴族の家なら庭師を雇っているし、住宅街にもそんなところなかったと思うが。


「草刈りって街道沿いの?」

「そうです。もうぐったりですよ」


 ああ、外の話か。いや街の外を草刈りするのも変な話だが。自生されると困る植物でもあるのか、はたまた景観の問題か。どちらにせよ、おかげでお嬢さんはぐったりだ。

 家に帰ってご飯を作る気力もないと、ここで食べるつもりらしく半分ほど手を付けた料理を前に、フォークを握ったままへばっている。おつかれ様。


「あそこは定期的に刈らないと大変なことになるんだよね」

「何かあるんです?」

「大火事になるの」


 物騒だな。でもそういえば何年か前に街の外でボヤ騒ぎが続いた年があった気がする。何が原因だったかまでは忘れたが、街道沿いの平野で火の手が上がり通りかかった辻馬車が水瓶の水を撒いたおかげで被害が広がらなくて済んだんだったか。

 草刈りでそれが回避されるならそれに越したことはないが、とはいえ人力なのが大変だろうな。


「自然発火する草があの辺りに生えていてね」

「え、乾燥してですか?」

「いや、そういう性質の花らしい」


 はた迷惑な草もあったものだ。

 ジルが言うには、その草はシスタスという名で通称自殺する植物と呼ばれる。気温がある一定の温度を超えると、発火しやすい分泌液を出し、その液が発火してシスタスもろとも辺りの植物を燃やし尽くす。

 この液を出す前にシスタスは耐火性の種を蒔いており、種は産み落とされて育つ。要は焼き畑の要領だ。焼けた植物の栄養でまたシスタスは育ち、辺りに火を放つ。今回は街道沿いに生息していたので発見が早かったが、もし遅れれば平野を焼き尽くしていた可能性もあった。

 まぁ、うん。街道沿いだし行商か何かが種を落としたのが、シスタスが根を張り始めた原因だろう。


 それを聞いて植物ですら自殺するのかと思った。自分が死んでも子孫を残そうとするというのは、どういう気分なんだろうな。

 俺はそういうのはとっくに諦めてしまっているから今一想像できない。さながら死滅回遊魚だ。何も残せず朽ちていくことを受け入れてしまっている。


「自分の子孫を残すために周りの植物を燃やすなんて、捻くれてますね」

「その方が生き伸びられるからでしょ」


 エリカちゃんは若い。そこから来る前向きさが、死にゆく植物の心境を捻くれと揶揄させるのか。

 別に死を肯定するわけではないが、出来ないと諦めて挑みもせず平坦に生きてきた自分にはなんとも彼女の姿は時々眩しく映る。

 お嬢さんのように、何かを信じて生きていけるならよかった。若さ故の潔癖さと、無垢なままに生きれるならそれはとても幸せだな。でも俺はそうじゃなかった。


 流されるままに漂う魚と孤独にも負けず歌い続けるクジラではきっと見えている世界も違う。エリカちゃんは俺とは違う。あの子は苦しくても、諦めず何かを信じられる。

 お嬢さんがジル相手にシスタスについて話していた。周りの草は養分として消費されるために早死にするのは真っ平だろうとか、自傷でしか保てないアイデンティティなんていらないとか。

 そういうところが若いんだよなぁ。俺も、たぶんジルももうそこまではっきりと言い切れない。傷や汚れを呑み込むことに慣れてしまった。


「欠点が愛せなくなったら終わりよ」


 諭すような声でジルが言う。

 俺はもう元の世界へ戻るのを諦めた。手の届かない事実を呑み込んで、今の暮らしを許容した。悪いことではないはずだ。苦難と呼べるものもなく、大きな喜びもなく。当たり前の様に受け入れた日常は平穏で。

 俺の人生なんて、グラス一杯分の優しさで、氷一つ分の気遣いで。それで割と幸せになれる。


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