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38冊目 思い出は甘く優しくほろ苦く


「あ。忘れてた」


 ふと、唐突に思い出した。

 そうだ。そう言えばあれは今日だった。うっかりすっぽかすと後で怒られてしまう。この年になってまで誰かにどやされたくはないので早々に済ましてしまおうか。

 やれやれ、こんなことまで忘れてしまうなんて年は取りたくないな。


「マスター、「指定席」に一杯」

「ああ、もうそんな時期だったか」


 手を上げて声をかければ、マスターも思い出したようにウイスキーを一杯カウンター席に置いた。そうしていそいそと奥からReserveと書かれた札を持ち出して来て酒の前に置く。ついでとばかりに、俺も同じ酒を頼んだ。

 酒場は相変わらずやかましい。酔った連中が好き勝手に笑い合い夜が更けていく。二つ隣の指定席に向けて軽くグラスを傾けて、琥珀色の酒に口を付けた。


「え、何その儀式」


 隣に座っていたジルが目を丸くしていた。まあ、見慣れない光景だろう。そういえばこいつはあの指定席を知らないんだったか。

 当たり前だが年齢の関係もあり、いつもの三人の中では俺が一番長くこの酒場に通っている。この街に来てすぐの付き合いだから、マスターとも随分長い付き合いだな。

 もちろんジルが通い始めるまでの間に来なくなった人もいるし、新しく通い始めた人もいる。そんな中で生まれたのがあの指定席だ。


「毎年この日だけは指定席があるんだよ」


 今一理解できていないらしいジルにふむ、と考える。まぁ別にこれは秘密にしているわけでもない。ずっと通っている奴なら知っているし隠すことじゃないな。というか、何ならこういう系の話はジルの好物だ。

 一口アルコールを一口飲み込んで息を吐く。あれは、もう何年前になるか。もう思い出す機会も減ってきた気がする。


「お前がここに通い始める前に、ずっと来てたおっさんがいるんだよ。その人の席があれ」


 マスター曰く、そのおっさんは店をオープンした最初期から来ていた客らしい。あの人は、マスターやエリカちゃんと同じギルドに所属していた。まぁ俺も随分世話になったよ。酒の飲み方はあの人に教えてもらったと言っていい。

 大酒飲みで気のいいおっさんだった。それなりに腕も立って、ただちょっと嫁さんの自慢が鬱陶しいが普通の酒飲みだ。いつもそこの二つ隣の席に座って、今の俺たちみたいにぐだぐだと中身のない話をしていたよ。

 俺は独り身だしいつもこの酒場に来るって言うんで、同じく常連だったそのおっさんに気に入られてたんだ。時々自慢の嫁さんの手料理なんかも振舞ってもらってな。

 そんな人でもあっさり逝っちまうんだから、外の仕事ってのは怖いもんだよな。改めて俺が剣を持つ仕事は向いてないって思わされたし、世の中思っている通りにはいかないもんだよなぁって。


「約束してたんだよ。仕事終わりに飲もうって」

「……今日がその日?」

「そう」


 それだけ聞くとジルは残っていた酒を一気に飲み干しグラスをカウンターに置いた。


「マスター。私にも同じの」


 マスターがそれを確認しすぐに瓶の中身を注ぎ入れる。

 お前そういうところいい女だよな。酒場の男にはもてると思うよ。お前のタイプは違うかもしれないけど。まぁその内わかってくれる奴が現れるだろ。それまでは隣で一緒に飲んでやるよ。

 揺れるウイスキーとReserveの札を眺めてジルが笑う。あの席に座る常連は既にいない。時々ふらりとやってきた客が座ることはあるが、事情を知っている常連はあの席には座らない。だからあそこはいつも空席だ。


「聞かせてよ、その人の話」

「聞かせるも何も、普通のおっさんだよ」


 そう言うとジルも笑い、二人でグラスを合わせた。軽い音が鳴って琥珀色の酒と氷が揺れる。

 まぁ。おっさんとは色々あったような、別に何もなかったような。語るほどの出来事はなかった。いい思い出がないわけじゃないが、特に今と変わらないただ酒を飲んで話す程度の関係だったよ。

 あの日だって、何日か仕事で街を離れるので帰ってきたら飲もうと軽く口約束しただけだった。どうせいつもいると時間も決めずに別れてそのまま。結局その約束は果たされなかった。

 魔物の討伐に出て、仲間を庇ったらしい。自慢の嫁さんもいたというのに、何ともらしい最後だ。それだけの話だな。でもいいおっさんだったよ。だから毎年この日はReserveの札が置かれるし、あの人を知る奴はきっとおっさんを忘れずにいてくれるだろう。


「まぁ悪戯好きのおっさんではあったな」

「へぇ」

「前に一度この日のことを忘れたら翌日えらい目に合ってな」


 夜勤が被って酒場にはいかず家で寝てたらガンガンと玄関のドアはノックされるわ、家に置いていた酒は飲み干されるわ。それまでオカルトじみた話はたまにはあるわな程度の認識だったのに、あのおっさんのせいで明日は我が身と思うようになってしまった。

 全く、死んでも人に影響を与えてくれるなよ。こっちはこれからも生きていかないといけないんだ。まったく、勘弁してくれよ。


 なんて話をジルとしながらまたグラスを開ける。注いで注がれて、おっさんの好きだった酒をおっさんの話をしながら飲む羽目になるとは思いもしなかった。たまには思い出話に花を咲かせるのも悪くはないだろう。

 しばらくジルとのんびり思い出話でもしながら酒を飲んで、おっさんが座る指定席も見てその日はお開きになった。


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