36冊目 カニだかエビだかザリガニだか
「まだもう少し先の話になるが」
ふと何かを思い出したようにジルが口を開いた。
いつもの様にカウンター席には三人並んでいる。一番端にジル。間にエリカちゃんを挟んでその隣に俺。いつの間にかそれが定位置になってしまった。お嬢さんが炭酸水と季節のフルーツをちまちま楽しんでいるのを、俺とジルがエールを飲みながら眺める。
よく食うなぁ。やっぱり若いと代謝が違うんだろうか。人が美味そうに食ってる姿っていうのは見ていて気持ちがいい。
「ロブスターの時期が来るな」
ロブスターって、……あのロブスターだよな。
確かに年に一度市場にロブスターが出回る時期があるし、後一、二ヵ月もすればその時期になるが。あの時期肉が減って魚類とロブスターが増えるから飯食うのにも一苦労なんだよな。ロブスターって食いにくいし。まぁそれはともかくとして、何がどうしてその話題が出てきた。
「なんで突然ロブスターなんだよ」
「君らがこの前カニの話してたの思い出した」
話したな。先日奢れだのカニが食べたいだなんだのと、適当なことをお嬢さんとはやし立てたものだ。俺もお嬢さんも仕事と家の往復だし、ジルに至ってはほぼ家に籠りっきりだ。お互いそれなりにため込んでいるだろう。カニ鍋食いてぇな。
内陸の街なので水生生物は売っているには売っているが、主に川魚だ。海産物が出回る時期もあるが、量も期間も限られている。そこまで面倒だと、食いたい食いたいと言っている内に時期を逃してしまうのが常というもの。
「カニ食べたいですね」
「食いたいな」
「海沿いなら大きいのが取れるらしいが、この辺だとサワガニが関の山でしょ」
サワガニか、食うところねぇな。舌が肥えているわけではないしもう何年も食べてないし、正直なんでもいい気もするが、可食部が少ないのはちょっと。
エリカがふむ、と口元に拳を当てる。考えている横顔は割と真剣だが、カニに対して真剣に悩むことなどあるだろうか。いや別に馬鹿にしているとかわけではない。食に対して真剣に取り組む姿勢は悪くはないと思う。でもここは酒の席だぞ? 酔っぱらいの相手なんて適当でいいよ。
しばらくエリカちゃんが考え込んだ後、ふっと顔が上がった。
「ところで、ロブスターの時期って何ですか?」
「ああそっか、エリカちゃんは知らないか。宗教上の理由で肉食を避けましょうって時期があるんだよ」
「それで代わりにロブスターを食べる、と」
ジルが頷く。宗教上の理由って、何だったっけか。なんとなく住んでいる街にある教会がそうだからと、面倒ごとを避けるためだけにその宗派を名乗っているので正直その辺りは曖昧だ。
多分聖人が云々という謂れがあるんだろうが、こちとら礼拝も日々の祈りも疎かにしてここまで来た異世界人だしな。今更祈られても神様も困惑するだろうよ。
何よりクリスマスに恋人たちが寄り添って、正月には神社に初詣にいく人種だ。本当にこの街の宗教が緩くて助かったよ。教会にいるのが神父なのか牧師なのかわからなくても怒られないしな。
「なるほどなぁ」
「なんで君が納得してるのさ」
「俺はそんなに信心深くないから」
しれっと言い切って、エールを一口。
ジル曰くこの街の大半が信仰する宗教は肉食を避けて、代わりに 魚を食べて忍ぶ習慣があるらしいが、それは一時期の話。
大半が肉の代わりにロブスターを食べてやり過ごすが、その時期以外ロブスターはほとんど見ないしそんな時期があることすら忘れ去られる。マジで緩いな。
「確かに肉料理が少なくなるのは味気ないけどね」
なんて言いつつジルがエールを飲み干した。それは単にお前が食べたいだけだろうよ。
カニは食べたいが、かと言って肉が食べられなくなるのはそれはそれで困る。基本焼くか蒸すしか料理が出来ない人間なので魚の調理法はわからないし、火を通せば何とでもなる肉がないのはちょっと。
「いっそ改革」
「考えが物騒すぎる」
「兄嫁に比べれば全部雑魚よ」
肉が食えないから改革なんて……、いや、向こうの世界には離婚が出来なくて宗教を株分けした国もあったが何はともあれ発言が物騒なんだわ。そしてこんなことの引き合いに出される義理姉よ。どれだけ合わないんだ。
戒律も緩いし、ロブスターが市場に出回るのも一、二ヶ月ほどなので改革など起こさずに堪えてくれ。肉が食べたいのはわかる。俺も食べたいから。
マスターに声をかけて、自分の分と合わせてジルにエールをもう一杯出してもらう。ロブスターについては飲んで忘れろ。ふと、押し黙っていたお嬢さんが口を開いた。
「ロブスターってでっかい奴ですよね。でっかいエビフライに出来ないかな」
「それはもう食材変わってるのよ」
「油跳ねだけ気をつけなさいよ」
未成年であるお嬢さんのは天然なんだろうが、俺らはもう十分酔ってるなぁ。ザリガニもエビも似たような物かもしれないが、食品加工の技術が心もとないので泥臭さをなんとかするところが当面の課題だな。
食文化の問題にぶち当たると向こうの世界が恋しくなる。飯が美味いって生きていく上で重要な要素だったんだな。
出来れば俺もロブスターでこんなこと実感したくなかったよ。




