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30冊目 遠い記憶の中の彼女


「初恋っていつでした?」


 エリカが無邪気に言う。実に年若いお嬢さんらしい問いかけだ。年頃なのだしこういう話題は大いに興味があるんだろう。でも聞く相手間違ってないか?

 ジルも多少そういったジャンルの話はするが、お嬢さんのような希望に満ちた話題ではなくもっとこう愚痴に近い何かだが。ついでに言うなら俺はそういった話にあまり関心がない。

 別に否定的なわけではないが、縁遠いだけだ。まあ、こういう話題は女性陣にとってはいい肴だろう。俺にはわからんが二人で盛り上がってくれ。


 エリカとジルが話しているのを流し聞きしながら酒を煽る。マスターに勧められた新作のワインだ。すっきりとしていて飲みやすい。美味い酒といい雰囲気の酒場の空気。カウンターに座ればそこにマスターがいる。いい夜だ、と思う。

 ただジルとエリカが恋バナで盛り上がっている隣なのが若干居心地悪いが。


「セージさんはどうですか?」

「そこで俺に聞く?」


 残念ながら浮いた話一つない三十路前の男だぞこちらは。向こうの世界にいた時は全くそういうのがなかったわけではないが、こっちに来てからはからっきし。若い頃は生きるので精一杯だったし、今は今で、そういうもの割く気力もない。

 というかおっさんの恋愛話など面白くもないだろうに、お嬢さんは輝かしいばかりの目で見つめてくる。それに対し、彼女の奥に座るジルは意図が読めない目をしていた。なんだよその目は、何が言いたい。

 今一納得はいかないが女性陣に気圧されて肩を落とす。ちらりと視線を彷徨わせてみたが、カウンターの向こうにいるマスターには無視された。俺に逃げ場はないらしい。


「初恋は、多分5歳の時だよ」

「へぇ、男の子にしては早い方なんじゃない?」


 仕方なしとばかりに、思い当たるものを絞り出す。まあ初恋と言ってもこれは恋というよりは不思議な出会いになるのかもしれない。多分、ジルが好きそうな話だ。これと言って機会がなかったので話したことはなかったが、間違いなく気に入るだろうと言い切れる。

 早いかどうかすらわからないが、とにかくすでにジルが面白がっているのだけはわかった。肺の中の息を吐き出せば待ってましたとばかりにエリカちゃんが口を開く。


「どんな人でした?」

「いや、今思えば人かどうかすら怪しい」

「君そういう癖の人だっけ?」

「何が言いたいかわからんが断じて違う」


 ジル強く言い含め色々としまい込んでいた記憶を引っ張り出す。言葉に出すと意外と思い出してくるもので、するすると言葉が零れ落ちた。あれは5歳の冬だ。

 実家には倉があった。普段は施錠してあって入れないのに、その日は悪戯をしてそこへ罰の為に母親に閉め込まれた。しかしまぁへこたれないというか、打っても響かないタイプのクソガキだった俺は普通に埃だらけの箱の上に座って鍵を開けてもらえるまで待つことにしたわけだ。

 だんだん暗がりに目が慣れてきた。辺りは蜘蛛の巣が天幕の様に張り巡らされていて、埃まみれの機織り機やくすんだガラスのランプ。あれはなんて名前だったか、なんとかって名前の黒い衣装箱が幾つも並んでいる。

 その倉は二階建てで、幅の狭い急な階段があった。しばらくは一階に置いてある物を眺めてたんだか、なんとなく上には何があるのか気になって二階に上ったんだよ。


「そしたら、二階に人がいた」

「鍵のかかった倉の中に?」

「そう。それも飛び切りの美人だった」


 その人は白い花嫁衣装を着たきれいな女性で、俺を見るなり微笑んでどうしたのかと聞いてきた。こんな埃っぽいところにいるなんて変な人だと思いながらも、素直に「悪戯をして放り込まれた」と答えると女性は可笑しそうに笑った。

 しばらくはその人と話して過ごしたよ。風をひいてはいけないと上着を貸してくれて、それが暖かくて妙に安心した。

 女性はお婿さんが迎えに来てくれるのをここで待っているところなのと笑っていた。他にも色々と話したはずだが、もう遠い記憶なせいか詳しくは思い出せない。ただ本当にきれいな人だったのだけは覚えている。


 結局、俺を倉から出してくれたのは父だった。

 父が言うには、俺は倉の二階で黄ばんだ古い花嫁衣装を被って寝ていたらしい。手

 もちろん倉の二階に人がいるはずもなく、きれいな女性の話をすると、夢でも見たのだろう、と笑われた。花嫁衣装は、悪戯者の俺が勝手に倉の中を漁ったのだろう、と。


「多分、あれが初恋だな」

「本当に人じゃないわね」

「だから言ったろ」

「なんだか素敵な話ですねぇ」


 お嬢さんは赤い頬を手で押さえながら、うっとりとした目をしている。まるでお姫さまにでもなったかのような夢見心地なそれだった。

 初恋と言われればそうなのかもしれない。遠い記憶の中の彼女こそが、俺にとっての初恋の人なのだろう。

 ただ実在しない人物なだけで。


「どこの誰かもわからない存在に一目惚れしたクソガキの頃の話だよ」


 呆れながら残りのワインを煽る。多少の美化は入り混じっているが、子供の頃の記憶なんてそんなものだ。

 今思えば現実味もない。でも夢だとは言い切れない経験だったのは確かで、懐かしみのある苦いような甘いような感情がふつふつと湧いてくる。

 これがほろ苦い初恋の思い出、というやつなのだろう。


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