2冊目 法は敷くもの守るもの
いつもの様に入店を告げるベルを鳴らして酒場に入り浸る。
昔は毎日の様に飲むなんて想像もしなかったが、今は夜勤でない限りは大抵ここにきている。家にいても何か特別やるでもないし、テレビやインターネットもないし日が落ちてしまえば飲むか寝るしか暇つぶしがなくなってしまうわけだ。
生憎作家の友人を持ちつつも、本を読む習慣がないので結局ここにきて顔馴染みと話して飲むというのを繰り返している。後、ここならついでに飯も食えるし。
そんなわけで今日も酒場にやって来てはだらだらと顔馴染みの一人、ジルと並んでグラスに泳ぐ氷を遊ばせながら酒を煽る日々である。
酒場には既に結構な人数がいて、皆思い思いの人間と酒を酌み交わしていた。基本的に酒場に居着く連中は、大体が冒険者だ。マスターの昔の知り合いだったり仕事が終わって、適当に酒の席にいたらいつの間にかこのメンバーが集まっていた、みたいな。
後は俺みたいな独り身。いや、この話は虚しくなるからやめにしよう。
「最近なんか面白いことあった?」
「特に何も。いつも通りだよ」
「だよねぇ」
例のごとく、執筆が行き詰っているのか、それとも俺と同じように暇を持て余しているのか。はたまた特になんの意味もないがとりあえず言ってみただけなのか、ジルが退屈そうに口を開いた。どうやら彼女も酒を煽る以外に用事がないようだ。
こんなやり取りをしていつもくだらない雑談で盛り上がるのだから、充実しているようなもっと他に時間の使い道があるだろうと言いたくなるような。何とも言えない気分だ。
「それにしても今年の夏は暑かったねー」
「ああ、異常気象と言っても過言なかったからな」
正直今年の夏はクーラーが恋しかった。この世界にないものを言っても仕方がないのはわかっているが、人間なんてないものねだりをする生き物だろう。
剣と魔法の世界で何言ってるんだとは思うけど、割と切実に送風機くらいはほしい。もっと家電開発頑張ってくれ。
貴族の家でもシーリングファンがあるくらいだしな。しかもあれ冬はともかく、夏は大して効果がない。
貴族といえばジルも一応そうだが、彼女は家を出ている。実家ほど快適には過ごしていないのかもしれない。
兄が二人いるので家を出て気ままに本書いて暮らしている末っ子娘。ある意味いい暮らしだ。それなりに大事にはされているみたいで、通いの使用人を一人付けてもらって気ままに小さな家で住んでいる。まぁ比較的治安のいい街だから出来る所業だな。
「セージの権力でなんとかならない?」
「お前の方が身分は上だろ」
「売れない作家に何をお求めで?」
「それはすまんかった」
じんわりと空気がまとわり付いている気がする。魔法が存在する世界でも、何もかも出来るわけじゃなければ、大して便利ではないし生活水準も上がるわけではないらしい。そもそも、俺もジルも魔法なんか使えないが。
やっと気温が落ち着いては来ているが、色々と着こまなくてはならない仕事をしているのでかなり体調には気を遣っている。
今年も夏の暑さでくらりと来た同僚がいたし、早くどこかの企業で空調服を作ってくれないかと願うばかりだ。
冬の寒さは体を鈍らせるが、暑さと言うのは思考を鈍らせるものだ。
目の前で汗をかいている酒のグラスと、アルコールの海を泳ぐ氷だけが癒しかもしれない。だから、まぁ。俺も大概、やっと終わりを迎えた暑さとこの後来るに厳しい冬に気持ちが参ってたんだろうな。
「憲法に書いてみるか?」
「その手があった」
納得するなよ。
言ったのは俺だけど、正直言って冗談半分で本気じゃあない。ジルも適当に言ってるだけだろ。
これは時間も時間だし頭が死んでいるのか、それともアルコールが周り始めているのか。この際どっちでもいいな。
「憲法に書いておけば、あとは勝手に守ってくれるでしょ」
いや、俺も少し、ほんの少しだけ、憲法にそんな一文を付け加えればこの蒸し暑い夏も快適かも。とは思ったがそうはならない。一瞬揺らぎかけたが、流石に俺酔った脳みそでもわかる。
そもそも、俺にそんな権力はない。だから実現することは絶対ないし、思いついても実行しないだろう。冗談半分で言ったつもりが、ジルは結構本気で言っているようだ。何か、変なスイッチでも押してしまっただろうか。いや、俺が余計なこと言ったのか。
「まあ、憲法に「暑さ禁止」と書いた所で暑さはなくならないんだがな」
「遵守してくれよ」
別に本気で言ったわけじゃないが、ジルの気は済んだらしい。そうしてこの話はこれで終わった。のだが、俺の頭の中には暑さ禁止の二文字が住み着いてしまった。
夏は終わったとはいえまだこの先には厳しい冬が待っている、
溶けた氷が体制を崩してカラリと涼しげな音を経てた。
酒場の喧騒の中で、俺は目の前のグラスを見ながら意味のない会話を繰り返す。
しかし、こいつもよくここに入り浸っているよな。その調子で執筆が進んでいるのかと聞いたら、むしろ筆は止まっていると返されたので、そういうことらしい。