17冊目 色恋は弾けて消えた
当たり前のことだが俺たちには酒場以外での生活がある。
俺には旦那様のところで警備の仕事があるし、ジルは日中家で紙に向かってインクを走らせている。その上でそれぞれの一日の終わりにここに集まっているだけだ。
ジルの様に通いではあるものの生活や食事の面倒を見てくれる人がいなければともかく、俺みたいな独り身はここで晩飯を済ませる連中も大いにいる。一人分の食事の手間を考えると食費は嵩むが酒場で食べる方が楽だ。俺はもちろん、お嬢さんも時々ここで食べている。
そんなエリカちゃんは今日はいない。なんでも今日から数日、仕事で街の外へ行くんだとか。ジルに向かって何か面白いことがないか調べてくるので、こっちも何かあれば後で教えてくれと昨日言っていた。
なので今日は久しぶりにジルと二人だ。だからといって何かあるわけでもないし、普通に飲む。いつもと何も変わらないな。
それにしてもあのお嬢さん、初めて来て以来ほぼ毎日来ていたわけだが、ここを結構気に入ってもらえたと判断していいのだろうか。
ここしばらく俺とジルの間に座って夜な夜な飲み食いしていたお嬢さんがいないのでいつもよりカウンターのテーブルが広い気がする。以前はこれが普通だったのだが、すっかりそれが当たり前になっていたようだ。
それを自覚したとたんなんとも言えないざわざわした気分になって横に座っているジルを見る。彼女はいつもより静かだ。
いや、静か、というよりあまり機嫌がよろしくないようにも見える。なんかあったんだろうな。
グラスの中に注がれた酒の減りが早い。相当気分を乱しているらしい。でもこいつそういうの聞かれるの嫌がるんだよな。自分から話す分にはともかく、聞き出そうとするといやそうな顔をする。
まぁ、黙っていればその内話すので問題ないな。そう思いながら自分のグラスの氷を酒の中で遊ばせていれば、ジルが一つため息を吐いてこちらを見た。
「この前顔を出せって言われたから実家に行ったら兄嫁に遭遇したわ」
「お疲れさん」
「そっとしておいてほしい」
貴族の女同士も色々あるらしい。あれこれ言われるのが苦手な質なジルと、聞く限りではしっかり者で何かと気にかけてくれる兄嫁は相性が良くないようだ。
多分元の世界ならこいつは一切の連絡を絶ってどこかに行方をくらますタイプだろうな。でもそれをしないのは貴族として育った故か。
自活できるのならかまわないが、俺が思っているよりも貴族とは家や血のつながりを重視するようで、家を出るのがやっとだったのかもしれない。女性が家を出るのは結婚する時という考えの貴族は今もそれなりにあるらしいからな。
やる気のない不満顔をこちらに向けながら、ジルは出来るならとっととしてるなどと宣っている。そんな彼女の望む条件は干渉し過ぎない男。まぁ、その内いい縁があるだろ。
「醸造中のワインやウイスキーが蒸発して量が少し減ることを「天使の分け前」って言うらしいな」
会話の流れを変えるためにそんな話題をふる。特に意味はない。今グラスの中に入っているの酒を見て、以前ジルがいない時に一緒に飲んだ男とそんなことを話したのを思い出しただけだ。
彼女が気のない返事をしながらグラスを揺らす。その拍子にグラスの内面でくすぶっていた気泡が水面まで浮上して弾けて消えた。
「うん、因みに人が死んだ時に体重が少し軽くなるのを「死神の取り分」と呼んでいるんだって」
「多分そういうこと言うからだぞ」
友人としてはいい奴だし話も面白い。ただ、壊滅的に男女の会話というやつが出来ないのが問題なんじゃなかろうか。まぁ向こうも俺相手にそんな話をしないだけかもしれないが。
残っていた酒を一気に飲み乾したジルがため息を吐いてこちらを見た。今日彼女が飲んでいるのはハイボールだ。
カウンターに置かれたボトルを奪い取り彼女のグラスに注ぐ。彼女の好みは濃いめのはず。背の高いグラスの四分の一まで入れたところで酒瓶をあげれば、待ってましたとばかりにジルが炭酸水を注ぐ。
「アントンが美人なのにって言ってたぞ」
ジルのグラスにハイボールが出来上がっていくのを眺めながらため息を吐く。奴は冒険者でそれなりに腕も立つし聞く限りでは今の稼ぎ頭だ。ジル曰く女癖が悪いと聞くが、そんなに悪い奴じゃないと思うんだがな。
ハイボールが出来上がったのを見届けて自分の分のウィスキーをグラスいっぱいに注いだ。軽く揺すって口に運ぶ。うん、美味い。
ジルはグラスの中を空にするとまたため息を一つついて、それから俺にジトリとした目を向けて来た。
「君何気にあいつを押してくるよね」
「良い奴だよ」
ジルは俺がこの話題を持ち出したことをやや不服に思っているらしい。彼女がその男を好いていないのは知っていたが、別に嫌いなわけではないと思う。話しかけられれば普通に返しているし、そういう関係には対象外なだけで。
だからこれはただの話題提供だ。アントンの方はやぶさかでもないようだが、ジルが本気で嫌がるならこれ以上はやめておこうか。
そう思いながら自分のグラスのウイスキーに口を付ける。俺の答えにジルはハイボールが半分ほど入ったグラスを軽く回した。
「良い人でした……」
「まだ死んでねぇよ」
こいつが嫁に行くのはもうちょい先かな。多分。