14冊目 はみ出し者二人
稀にあることだが、今日は珍しくジルが酒場にいない。
筆が載っているのか、締め切りが近いのかはわからないが仕事に励んでいるのだろう。ここのところ俺が夜勤で来ていない時も毎日来ていたらしいし、たまには休肝日も必要だろう。
俺はというと一緒に飲む相手がいなくて手持ち無沙汰ではあるが、元々約束を取り付けているわけではなのでこういう日もあるさ。ジルだって俺がいない日もここで飲んでいるわけだしな。
俺はいつものようにマスターの前のカウンター席に座る。隣は今のところは空席だ。
ここで一人寂しく飲んでいたら、その内酔った連中が「今日は一人か」とか、「なんだ振られたのか」だのと言って隣にやってくるので静かに飲めるのも今の内か。
「あれ? 今日はいないか……」
酒場には似合わない若い娘さんの声が野郎どもの笑い声に交じって聞こえた。誰かを探しているらしいその声に何気なしに振り返れば、この間のジルに詰め寄っていたお嬢さんが辺りを見回している。
名前は確か……エリカ、だったか。目が合ったのをいいことに手招きをすれば、こちらに気付いたお嬢さんが会釈しながら向かって来る。
覚えていてくれたようで何より。
「この時間にいないってことはジルは今日来ないよ。多分本業やってるんじゃない?」
「そうでしたか」
一先ず席を勧めれば、彼女は促されるままに俺の隣に座った。そこは、なんとなくジルの指定席になっているところだが、本人もいないし、そんなことで目くじらを立てるような奴でもないし構わないだろう。
どうやらお目当ての相手がいないお嬢さんも手持ち無沙汰らしい。この前は目的があったから問題なかったようだが、今日は酒場の雰囲気に慣れないのかそわそわしている。
「なんか飲む?」
「あ、私未成年なんで」
「マスター、何か適当にノンアルの頼むわ」
真面目ちゃんだなぁ。この世界じゃ酒を制限する法律はないし、十六過ぎたら飲んでる奴の方が大半なのに向こうの世界の法律をしっかり守ってるのか。あちらの世界でもこのくらいの年齢だとこっそり飲んでいる子もいただろうに。
絶対に元の世界に戻るという意志があるからなのか、心がまだあちらにあるんだろう。嬉しいような、寂しいような。
なんとなく懐かしいものを感じつつ、マスターに声をかければ、彼はちらりと俺の方を見て頷いた。
「エリカちゃんだよね、俺はセージ。大体ここでジルと飲んでる」
酒場でのテンプレ自己紹介が済めば、彼女は俺の名前を復唱して覚えようとしている。観察するようにこちらを見る彼女に手を振り酒を一口。まぁ年頃のお嬢さんだし色々あるのだろう。
この頃の子からすれば俺はもう十分おっさんだし、警戒するのは当たり前かもな。こっちじゃともかく向こうの世界じゃ親類や教員以外の大人と話す機会なんてほとんどないだろうし普通の反応だな。
マスターが彼女の前に炭酸水を置いた。
「進展はありそう?」
「いえ、まだ……」
「そう。ちょっとだけ昔話をしてもいいかな?」
不思議そうな顔で促してくれるエリカちゃんにお礼を言って少しだけ深く息を吐く。
正直悩んだ。希望はないし、慰めにもならないかもしれない。でも話すのなら、このタイミングしかない。
「俺さ、中部の出身でソースかつ丼のない世界に絶望してた時期があるんだよね」
「え、あの」
「あと寿司も長らく食ってねぇな」
困惑しているお嬢さんの横で、カウンターの上に鎮座する炭酸水の泡が弾けた。
「それって……」
「うん。多分同郷」
一瞬顔色が明るくなって、それから何を察したように押し黙る。まぁそうなるよな。だって自分より先にこちらに来ていたらしい俺が、いまだにこの世界にいるんだから。
俺にだって親兄弟、友人がいた。何なら淡い気持ちを抱いていたあの子、なんてのもいたかもしれない。
それでも手放したのは、ここに来てすぐに心を折られてしまったから。自分には矢面に立ったり物事に飛び込んでいく勇気や正義感なんてものを持ち合わせていないのだとわかってしまった。
「余計な気を使わせたくないから誰にも言ってなかったけどね」
「……セージさんは、諦めたんですね」
「うん。でもさ」
エリカちゃんが神妙な顔でこちらを窺う。俺に気を使ってくれているんだろう。若い正義感とでも言うのか、この年頃にある潔癖さがそうさせるのかもしれない。
孤独なクジラのような、この世界で一人きりの少女。俺は諦めてしまったけど。
「君が諦められないうちは、力になるよ」
この子はまだ若い。きっとご両親も心配している。せめてこのお嬢さんだけでも帰してやりたいと漠然と思ったんだ。
俺は……。帰れたら帰りたい、とは言い切れない。それなりにこの世界で生活の基盤を整えて、仲の良い連中なんかも出来たりして。また、自分の意志とは関係なく大きく生活が変わってしまうとなると、やはり身構えてしまう。
失踪から七年経てば死亡扱いになるんだったかな。死んだと思われていてもおかしくはない。今も行方不明者の情報を求める特番とかやってるんだろうか。親が出てたらどうしようか。笑い話にもならないな。
「大したことは出来ないかもしれないけどさ」
「ううん。嬉しいです」
何か出来る、なんて思い上がりはないけど。このお嬢さんが少しでも早く元の場所に帰れることを願うくらいは許されるだろう。
俺の言葉にエリカちゃんがはにかむように微笑んだ。うん。切羽詰まったり、思い悩んでいる顔よりも、この子は笑ってる方がずっといいな。