13冊目 世界規模で迷子
昔、まだ元の世界にいたころに国営放送だったか何かのドキュメンタリーで一匹だけ周波数の違う声で歌い続けるクジラの話を見たことがある。
それを見たのが休みの日だったのか、平日だったのか。家族と見たのか、ひとりで見ていたのか。もう思い出せないが、なんとなくそのクジラの話を今も覚えている。
そいつの姿は確認されていないが、それでもずっと一匹だけ違う高さの音程で歌っているらしい。どんな姿をしているのか、仲間の誰にもわからない声で歌って寂しくないのかと、そのクジラについて研究する女性が言っていた。
なんでこんなことを言い出したのかというと、なんとなく似てると思ったからだ。
もちろん俺に、じゃない。目の前に突然現れてジルに詰め寄ってる見知らぬお嬢さんが、だ。
「ジルさんって色んなお話を聞き集めてらっしゃるんですよね? 人が現れたりいなくなったりするようなお話って何かご存じありませんか?」
冒険者らしい若い娘さんはジルにぐいぐいと迫っている。年の頃は十代後半かそこら。日に焼けて少し赤茶になった髪と装いから多分冒険者だと思う。
どことなく親しみを覚える顔立ちをしている彼女はジルの熱心なファン、というわけでもなさそうだしなんとも珍しい光景だな。
対するジルも彼女の圧に少し押されているようにも見える。酔っぱらいの絡み酒には慣れているが、素面の状態で詰められるのは慣れていないのか。
「なんでもいいんです!」
「そう言われてもね……」
「とりあえずお嬢さん、この椅子使いな」
「あ、はい。ありがとうございます」
誰に聞いてやってきたのか、切羽詰まった様子のお嬢さんに隣にあった椅子を差し出しジルに助け船を出してやる。言葉は丁寧だしきちんとお礼も言えるようだが、意志の強そうな印象の子だ。
それにしても。人がいなくなるような話、ねぇ。思い出すのは少し前にギルドの人間が一人、行方不明になったこと。このお嬢さんも冒険者ならギルドに属しているだろうし、顔見知り以上の関係で会ったのだとしてもおかしくはない。
あの時ジルと話した神隠しについても身に覚えがあるし、彼女さえ良ければ俺も話を聞かせてもらいたい。
まぁ、聞いたところで。どうにかなるとは思えないんだが。
「さっきのって、この前の行方不明者のこと?」
「それもあるんですけど……」
悩むように言いよどんだ少女の視線がちらりとジルに向けられる。
次いで大きく息を吸い込むとはっきりと彼女は言った。
「私、こことは違う世界から来たんです」
ああ。この子はクジラだ。世界で最も孤独なクジラ。この世界を受け入れ、元の世界を手放した俺とは違う。
この子もきっと神隠しのような何かに巻き込まれてこちらの世界に来た。そして必死に藻掻いて、元の世界に帰る方法を探している。自分と同じ音を持つ仲間を探して、藁にもすがる思いでジルを訪ねてきたんだろう。
ジルの目が遠くなる。残念ながら、ジルは一般人だ。時々創作活動の為に酒場に来る連中に話を聞いているだけで、特別な力があるわけでも特定の伝承に詳しいわけでもない普通の、この世界で生まれ育った女性。
「元の世界に帰りたいんです。冒険者になっていろんなところを見て回ったり、魔法を覚えたりしてみたけど何の手掛かりもなくて……。なんでもいいんです、知ってることがあるなら教えてください!」
鬼気迫るといえばいいのか、切羽詰まった様子のお嬢さんに何とも言えない気分になった。彼女はきっと、俺と同じ世界の住人だ。同じ世界から来た少女が、必死に頼み込んでくる。
忘れていた、いや。諦めたはずの感情が眩しい。どうしたら元の世界に戻れるのか、なんてこの九年の間に考えることをやめてしまった。今更帰ったところでどうやって生きていけばいいのかもわからない。
俺はもう、クジラじゃない。言うなれば死滅回遊魚だ。生まれ育った環境へ戻る術もないのに流されて、ここで朽ちていくことを受け入れてしまっている。
とはいえこの子を放っておけない。同じ孤独を知るもの同士、どうにかしてやりたいとは思う。
「そうは言ってもね、私はただの作家で情報通ってわけじゃないんだよ」
「そう、ですか……」
「諦めろとは言わないけれど、正直力になれるかはわからない」
ジルの言葉に彼女の表情が曇る。俺の出自を、明かすべきだろうか。それを言ったところで、変える方法がわからなければなんの慰めにもならないかもしれないけど。
少しの時間を要して、お嬢さんが何かを呑み込んで顔を上げた。ジルの方を向いているから表情は見えない。けど、先ほどよりもずっと芯のある声だった。
「私、エリカっていうんです」
「ん? ああ、エリカちゃんね」
「はい。私の国の言葉で恵に里に花って書きます」
女性の名前について詳しいわけではないけど、割とスタンダードな名前だと思う。きっと、ご両親から色んな意味を込めて付けてもらったんだろう。
エリカと名乗ったお嬢さんはジルをまっすぐに見たまま言葉を続けた。
「里って字が入ってるんですよ? だからちゃんと元の世界に帰れなきゃ嘘じゃないですか」
少しだけ笑って、諦めないと言うように。すごい理論だな。でもその真っ直ぐさが少しうらやましい。
少女越しにジルと目が合った。多分同じことを考えている。多分きっと、俺たちは後輩や年下という存在に弱い人種だ。