12冊目 変わらない明日に乾杯を
いつもの様に通い慣れた酒場の扉を押し開ける。木製の扉の上部に取り付けられたベルが来客を告げるように揺れた。カウンターの向こうでグラスを磨いていたマスターが、いらっしゃいと言葉を漏らした。
店は相変わらず赤ら顔の連中が浮かれて酒を煽っている。あれやこれやと武勇伝を語る酔った英雄たちの間を通り抜けてカウンター席に腰を下ろす。
隣には後ろの男たちに負けず劣らず、ジョッキを傾ける女が一人。こいつ本当にいつもいるな。
「よう」
「ん。仕事お疲れ」
「どうも」
まずは一杯、ウイスキーとつまみを頼んで一息つく。隣ではこちらを気にした様子もなくジルがグラスを空にした。
見てて気持ちのいい飲みっぷりだよな。別に俺は酒に詳しいわけではないし、こだわりがあるわけでもないしいつもマスターのおすすめを頼んだりジルと同じものを飲んだりしているが、ジルは毎回違うものを飲んでいる。きっと色々と試しているんだろう。
その結果婚期を逃していると嘆いていたが、だからといって改める気がないのはやっぱり彼女は酒が好きなんだろう。
隣で追加の酒を注文するジルを横目にカウンターに頰杖をつく。彼女ほど酒に対する熱意はない。それでも俺が連日の様にここに来るのは、多分この雰囲気が好きだからだ。
酒場はいつも騒がしい。客同士が肩を組み合い笑う声、グラスや皿のぶつかる音、客とマスターの談笑する声、ジルが傾ける酒の氷と酒のぶつかる音。一人の家では聞かないその音を心地いいと感じている。
「そういえば私兵って普段何してるの」
不意に、ジルがそんなことを言い出した。何と言われても、普通に身辺警護とかだが。平和な街なので立ってるだけの場合がほとんどだが、いないよりはずっといい。所謂抑止力ってやつだな。
国に属している駐屯騎士たちと冒険者ギルドの連中もうまく折り合いをつけているようだし、多少の小競り合いはあっても大事にはならない。国や町の運営なんて小難しい事情、俺にはわからないが街の住人や貴族が国とうまく連携を取れているのはいいことだ。
その辺りが互いに手を取り合って協力関係を結んでくれている内は、一個人に仕えている私兵はこれと言って面倒な仕事が回ってこないので有難い。
それこそ昼夜交代でお屋敷の門前で剣を携えて突っ立っているだけでも成り立つくらいだからな。
拾ってくださった旦那様や、庭師の老夫婦に恩義がある。仕事に手を抜くつもりはないし、それなりに鍛錬を続けてはいるものの、平和な時分ではそれ以外にやることがない。
つまりは暇なのだ。主人一家も使用人たちも皆穏やかで、俺としては何もなくて平和ならそれが一番いいと思っている。ジルにとってはもう少し話のネタになるようなイベントがあればいいのにと思うかもしれないがな。
「警備と護衛。後、鍛錬」
「それだけ?」
それだけ。ジルが拍子抜けしたような表情を浮かべている。
実際貴族の私兵なんてそんなもんだろう。そりゃあ治安が悪かったり血気盛んな主に仕えているのなら出兵だのなんだのもあるかもしれないが、俺が仕えているのは幸いにして平和主義な旦那様だ。今のところ戦も遠征も未経験で住んでいる。
次代に移ればどうなるかはわからないが、若旦那様は段取り魔なところがあるからな。案外お使いは増えても出兵することはなさそうだ。
「俺からすればお前ほど面白い職業についてるやつも少ないと思うがな」
「いやね、私はただの物書きよ?」
物書きとは言うが、ジルがどんなものを書いてるのか聞いていないから詳しく知らない。
そして残念なことに活字を読む習慣がないので本屋に立ち寄りもしないし、この先急な心変わりでもしない限り俺が彼女の本を手に取ることはないだろう。
俺には違いが判らないが、飲み比べているらしい何杯目かのエールを仰ぎ飲み、ジルは人のつまみに手を伸ばす。いや、まぁいいけどさ。
そうして自由に振舞う彼女に一つため息を吐いて、いつぞやのことを思い出す。もう何年前になるのかも忘れたが、初めて会った時もジルはこんな感じで、突然隣にやってきたかと思えば酒を一杯奢ると初対面の俺に言い放った。
「バーで何か面白い話をしてくれとナンパするのが物書きの仕事か」
「当時は丁度新刊のネタに困ってたんですー」
むすりと拗ねたようにジルが語尾を下げる。酒一杯で何か語って聞かせてくれ、というのが彼女の常套手段だ。酒の入った連中は総じて口が軽くなるのもあってか、大抵気分よく自分の武勇伝を聞かせてくれる。
物書きにとってその出来事が創作の一つにでもなるのかは知らないが、ジル自身も楽しいらしい。ついでに俺の話もしてくれるので、俺も酒のつまみにする程度のつもりで話を聞いているのだが。
グラスの底に残った最後の一口を飲みこんで、カウンターに置く。追加の一杯を頼みながら、ジルの手元にあったつまみをいくつか掠め取った。
「ま、頑張ってくださいよ先生」
茶化すように言えば隣から足が伸びて来る。蹴るな。
俺たちのカウンター下の攻防を鼻で笑いながら、マスターが新しいグラスを机に置いた。