File18.彼女の英雄
──前回のあらすじ──
智代子と出雲に水生鳥(=娼狐)の一件を含めたオピレイドの情報を共有し、監視されることを承諾した明大。
彼らが邂逅を終えた頃、職場にいたはずの華奈子は、鈴村が変貌する蝙蝠の怪物によって攫われてしまったのだった。
───ジリリリ、と周囲に響き渡る火災報知器の鳴る音。
バイクに乗った誠良は、逃げ惑う人々の間をすり抜けて、黒煙を上げる建物へと向かい走る。
「──!…見つけたッ!」
視界に映る黒い影を目に、彼はそう呟くと同時にバイクのグリップを捻る。
ゴッという鈍い音。
影を弾き飛ばしたエンバハルは、ドリフトを決めながら、バイクを停める。
「予想よリも少しバカり早かったカ…」
ゆらりと揺れる黒煙の奥から、吐き捨てるように聞こえた汚い声。
バイクから降りたエンバハルは、瓦礫の広がる周囲を一瞥すると、拳を握ってソレと対峙する。
「アンタ、一体何者だ?白昼堂々、なんのためにこんな──」
問いただすように言いかけて、目前の光景に言葉を止めるエンバハル。
数にして10は超えているだろうか。
黒煙から姿を現し、彼と対峙した複数の影は、蝙蝠のような翼を靡かせながら、その口角を上げて立ち塞がる。
「なんでこんな…数が多すぎる…だが──」
短期決戦でいく、と。頭の中で宣言し、オピレイドを腕時計型デバイス差し込み姿を変えるエンバハル。
全身を駆け巡り眩い光と共に、彼は勢いよく地面を踏み込むと、蝙蝠のような怪物に向かってその拳を振りかぶった。
ーーー
喫茶店で智代子さん達と別れた後、就職先探しと元々頼まれていた買い出しを終えて、華奈子さんの借りている一室へと帰宅する。
時刻は17時半過ぎ、当たり前だが中には誰もいない。
「ただいまー…っと、流石にまだ帰って来るわけないか」
いつものように内鍵をかけて、手洗いを終えた俺は買い足した食材を冷蔵庫に突っ込んでいく。
…そういえば、しばらく警察が俺を監視するって話だったか。
ふと出雲の言葉を思い出して、窓の外へと視線を落とす。
流石にドラマのような「いかにも張り込み」といった人は見当たらないか。…いや、もしいたとしたらそれはそれで張り込みに向いて無いと思うけど。
幸い…というか、俺自身、別にやましいことをしているわけではないので、監視されて困ることは無いしな。それに、一緒に行動していれば、華奈子さんに何かあった時にすぐさま対応してくれてるかもしれない。そう考えれば、トータルで見てプラスになると言えるだろう。
「…ま、どうせ防犯カメラかなんかだと思うけどな」
ひとりそう呟いて、湿った空気の入る部屋の窓閉めて鍵を掛ける。
…雲行きも怪しくなってきたし、念の為傘の用意でもしておくか。たしか華奈子さん、今日は傘持っていなかったはずだしな。
呑気にそんなことを考えて、夕食を作ろうと台所へ足を向けたその瞬間。不意に懐に入れていた俺のスマホが着信を知らせる声を上げた。
ーーー
『──誠良!最後は北地区8丁目の廃工場よ!他と比べると情報は少ないけど、小山の推測が正しければそこに本体がいるはずだわ!』
「っ…了解…」
腕時計型デバイス越しに聞こえる姉の声に、息絶え絶えに返答をするエンバハル。
周囲に崩れ落ちる蝙蝠を模したであろう白い人型の残骸を一瞥した彼は、千鳥足でバイクに跨って、整えるように息を吐く。
「ッ…そろそろマズイかもしれない…」
降り始めた雨によってかき消された、そんな彼の呟く声。
昼過ぎより各所で起きた蝙蝠姿に擬態したアンゲロス共の対処をしていた誠良の負荷は既に彼の限界を等に超えている。
「クソッ…無事でいてくれよ、姉さん…」
悲鳴を上げる身体に鞭打って、バイクのキーを捻りクラッチを切るエンバハル。
周囲の混乱を雨音が掻き消す中、エンジンのかかった蒼いバイクは、音を置き去りにして野次馬の頭上を飛び出した。
ーーー
怪物?誘拐?いや、それ以前に──
──華奈子さんの身に何が起きた?
反芻する思考のまま、アパートを飛び出した俺は、降り始めた雨の中を突っ切る。
雨で湿ったせいか、はたまた俺の心的問題か。重い足を動かして、北地区への近道となる路地に飛び降りる。
「ッ」
パシャリと、水たまりから跳ねた水が、俺の下着をじんわり濡らす。
──いつか、こんな日があった気がする。大雨の中、何かの為に足を動かしていた、妙な既視感。
きっと、俺が忘れているだけで事実としてあったのだと、動き慣れた身体が感覚として教えてくれる。
「…でも──ッ!」
ブレそうになる思考を覚醒させるように、自らの唇を噛み締める。
忘れていることは、今はどうでもいい。
大切なのは…今、俺が彼女の元に向かわなければいけないことだと、俺の本能がそう告げている。
廃工場に繋がる通りに出た瞬間、不意に全身を震わせる嫌な気配。
咄嗟に身体を屈み込んで、受け身を取って車道側へと飛び出す。
「チッ…」
一瞬だけ雨音をかき消した、塀が崩れる鈍い音。
案の定…というのが正しいか、蝙蝠に似た人型が路地を塞ぐ姿が視界の端に映り込む。
「──ッ!」
目が合うなり俺に飛び掛かる蝙蝠に似た人型。
突き出された拳をギリギリかわし、右肩を突き刺すようにその胸部へと体当たりをする。
「──鈴村か」
人間ってのは面白いもので、命の危機ほど思考が妙に冷静になるものだ。目前の状況は、そんな過去の自分を嫌というほど再現しやがる。
今は、急がなきゃいけない時だ。俺の本能も身体も、全てがそう語っている。だが、それと同時に、目の前の人型を排除することが一番の近道であるということも理解している。
ゾーン、と言うべきだろうか。
高速で回転する冷静な思考の中、軽く息を吐いて人型と対峙する。
──目の前の存在は、鈴村が放った刺客だ。姿こそ違えど、あの白い人型と同様の存在だと、放つ気配がそう教えてくれる。
人型の拳をかわし、蹴りを躱し、また飛んでくる拳を重心をズラして叩き落とす。
この動きは、知っている。高校時代、鈴村と殴り合った時のものと、過去を投影したかのように寸分変わらない。
あの待ち伏せも、奴の考えることなら合点がいく。
「嗚呼、参ったな──」
俺が焦っている原因である、スマホにかかってきた一本のあの電話。
『田辺明大、お前の大切なものは預かった。返して欲しくば北地区の廃工場へ一人で来い』
不快感の強い声から放たれた、ありふれたような挑発だった。だが、次に華奈子さんの連絡先から送られてきた下着に剥かれ、拘束された彼女の写真を見た時、考える余裕なんて俺には無かったのだ。
彼女のことをベラベラと喋った俺にも責任の一端はある。それに、奴に何処で逆恨みされたのかは分からない。だが、奴が虎視眈々と復讐する期を狙っていたのだと、今の俺ならわかる。
─そして、それと同時に、奴はもう人間でないことも、廃工場から感じる、人型とは別の気配達がソレを教えてくれる。
「ホント、いい加減にしろよ」
奴への言葉か、それとも自分への叱責か、俺自身もよくわからない。
…だけど、今やる事は決まっている。
俺は目前の人型を視界の中心に定めると、拳を握って静かに息を吐き捨てた。
ーーー
廃工場内に響く、雨音が周囲に叩きつける打撃音。
暗い室内を照らすバイクのヘッドライトを目に、鈴村はカビ臭いベッドから飛び降りる。
「コレは、少し予想外か」
酷く掠れた声を揺らし、注射器を自らの二の腕に突き刺す。
筋肉が異様に膨張し、自らの衣服すら飲み込んで、異形の怪物へとその肉体を再構成される感覚。全身を流れる力の奔流を感じ、蝙蝠の真神類へと変貌した鈴村は、正面に立つ赤く光るラインの走る人影を目に、汚い口を歓喜に歪ませる。
「コンばンは、巷で話題ノ英雄─いヤ、エンバハルさン。思っタより早イ到着ダな。…マ、どのミチ貴様も殺ス予定だッタし関係無いガなァ」
「…」
嫌味たらしく手を叩き、酷く掠れた声で嘲笑う蝙蝠。
暫しの沈黙の後、ガコン、と雨樋の壊れた音を皮切りに、黄色い複眼を淡く輝かせたエンバハルは、その汚らしい肢体を捉えると、土砂被った床を勢いよく踏み込んだ。
ーーー
雷混じりの雨音の中、湿った不快感で意識が覚醒する。
真っ暗なカビ臭い部屋に、雨漏りと思われる水の音。
…最後に見たのは、蝙蝠だろうか。怪物に口元を抑えられ、意識を手放したとこまでは思い出せる。
「──!?────ッ!───っ!」
声を上げようと口を動かそうして、自らの口がテープのような何かで覆われていることに気付く。
──助けを、呼ぶことができない。
あの日の事と畳なって、縛られた身体が震え上がる。
智代子ちゃんは、誠良は、心配しているだろうか。
無理矢理思考を動かして、姿の見えない妹達の無事を願う。
誘拐犯はあの怪物なのだ。仮に気付けたとしても、2人が無事でいられるわけがない。
───ドゴォォッ、と。
固まる私の心中を他所に、不意に鼓膜を震わせた、何かが崩れるような鈍い音。
何が、起きたのだろうか。
息を殺して耳を澄ませば、雨音の中から微かに足音とも思える音が聞こえる。
「──ッ!───ッ!」
──助けが来たのだ、と。
理屈でもなく、私の勘が、本能が、歓喜の声を上げる。
…本当はもう、こんな無茶をしてほしく無かった。危険事に近づけさせないと、そう自らに誓ったはずなのに。
彼が、私の為に来たと確信して、恐怖なんて馬鹿らしく感じられる。
──バキッ…と。
思考を震撼させる、建付けが無理矢理外された音。
扉のあったであろう場所から、ぼんやりとした温もりを持つ光が、真っ暗だったこの部屋を、私を、明るく照らし出していく。
「──華奈子さん」
遅くなってごめん、と。愛しい彼の声が私の鼓膜を震わせる。
ゆっくりと部屋に入ってきた、蒼く光る一筋のラインを走らせた彼は、泣きそうな目で、私の方へと歩み寄ると、縛っていたロープを切って、そっと身体を抱き寄せてくれる。
「──っ」
抱き締め返した彼の冷え切った、温もりのある体温を感じて、テープ越しに口から息が漏れる。
そう、私はまた、助けられたのだ。予感でも、妄想でもなく、この酷く色褪せていた現実で。
目の前の彼、いや───
────私の英雄に。
【北地区の廃工場】
・何故か解体されずに残っている、糸羽町市の北地区にある土煙にまみれた廃工場。
・かつては不良の溜まり場として有名であり、高校時代の明大は幾度となく入る機会があった。
・真神類が現れたことによる警察の巡廻が厳しくなった時期を皮切りに、不良すら近づくことは無くなっていた。