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六杯目

 カランコロン――。

 縦に“喫茶みちる”とだけ書かれたドアを開けると、カウンターの樹と目が合った。驚いたように小さく口を開いたけれど、それも一瞬だった。

 マスターが散らかした痕跡はもう残っていない。


「いらっしゃいませ」


 カウンター席に腰かけ、隣のスツールにコートを置く。樹は首を直角に曲げて何やら走り書いていた。

 絹糸のような前髪の下で、微かに睫毛が震えている。メモを破る。片手で丸める。脇に放る。樹は何度かその動作を繰り返した。指先が真っ白になっている。

 やがて、ホームセンターに数本一セットで売られているような安価なペンを転がし、「鈴木さん、明日の十六時にいらっしゃるそうです」とバックヤードに声をかけた。「はーい」とあくび混じりの返事が返ってくる。


「ご注文はお決まりですか?」


 樹がテーブルの上を片付けながら、抑揚のない声で聞いてくる。目は合わなかった。

 ずっと気になっていたのだろう。「いや、まだ……」と答えるや否や、俺の露骨な視線を背中で遮った。

 深煎りのコーヒー豆みたいな棚の左側に、わずかに空間があって、その壁にコルクボードがぶら下げられている。樹は引き出しからピンを取り出すと、さっきのメモを留めた。

 裏返しに置いたスマートフォンを横目に、拳を握りしめた。まだ葵からの返信はない。

 この姉弟から逃げ出したのは俺だ。こうなることはわかっていた。また逃げれば、同じことを繰り返すだけだ。いや、今度こそ鎖はちぎれてしまうかもしれない。

 樹は両開きの戸棚を開け、おもむろに中を覗き込んだ。しゃがんでいるので手元がちらりと見える。封のされていない段ボール箱から、フィルターやら紙皿やらが顔を出していた。在庫の確認か、と思ったけれど、少しして違和感を覚えた。

 さっきから、何度も同じ備品を数えては元に戻している。

 カウンターとバックヤードの間にドアはないし、テーブルには呼び鈴がある。俺の注文が決まるまで、バックヤードにこもっていても問題はないはずだ。けれど、樹はそうしない。話し合う姿勢を見せてくれていると、都合良く解釈してもいいのだろうか。

 今しかない。汗で湿る手のひらをいっそう強く握る。七年前より一回り大きくなった樹の背中に話しかけた。


「久しぶり、樹」


 肩がぴくりと跳ねる。樹は黙っていた。

 テレビから俳優の笑い声が聞こえてくる。まだ再放送が続いていたようだ。無音を掻き消してくれるのは、ありがたかった。

 元気だった? と聞くのも大きくなったねと言うのも無神経である気がして、無難に続けてみる。


「ここで働いてたんだ。いい店だね」

「何も頼まないならお帰りください」


 言葉を被せるように、冷たい声が返ってくる。『達兄(たつにい)、達兄』と人懐っこい笑顔で俺の後ろにひっついていた義弟の面影は、もはやどこにもなかった。


「ああ、うん。ええっと……」


 姑息だとは思いつつ、樹が作っていた飲み物を口にする。


「苺ミルク、お願いします」


 コーヒーを頼めば、マスターを呼びに行ったきり戻ってきてくれないだろうと感じたのだ。

 初めて樹が振り返った。相変わらず目は合わなかった。


「かしこまりました」


 俺の真意を知ってかしらでか、樹は戸棚からボウルとフォーク、グラスを取り出した。冷蔵庫を探るまでもなく牛乳瓶とパックの苺を出し、ヘタを除いてさっと水で洗い、ボウルに入れる。余った分は洗わず冷蔵庫にしまう。

 流れるような動作に思わず感心してしまった。二十歳にもなればできて当然だ、と言われてしまえばそれまでなのだけれど、記憶の中の樹は、食事の支度も手伝わずゲームばかりしているような年相応の中学生のままなのだ。

 苺を潰す。フォークの隙間から赤い果肉と果汁がじゅわっと染み出してくる。

 力を入れるたび、腕の筋が浮き立った。体の線は細いけれど、生っ(ちろ)くてひょろひょろとしていた昔と比べると、ずいぶんと大人になったものだ。

 樹は微かに苺だとわかる程度に潰すと、他の四粒も同じようにした。


「……何しに来たんですか。もう帰ったと思ったから店に戻ったのに」


 グラスの表面を拭いながら、樹がぶつぶつと不満そうに言った。つい固まってしまう。まさか樹のほうから話題を振ってくれるとは思ってもみなかった。

 とろりとした果汁を潤滑油にして、果肉がまっさらなグラスに模様を描いていく。


「樹と話がしたかったんだ」


 ボウルを傾けたまま、樹は鼻を鳴らした。


「今さら? 何を? 十ヶ月も姉貴を放っておいたくせに?」

「それは……葵に合わせる顔がなくて……」

「そうでしょうね。ご立派に不倫なさってるんですから」


 樹が嫌みたっぷりに嗤った。

 そのとおりだ。寂しい人妻を助けたからといって、体まで慰める義務はない。茜さんに迫られても断って、葵の元へ行くべきだった。

 カウンターの下からプラスチック製の砂糖入れを取り出し、樹は視線を泳がせた。


「お砂糖はどうされますか? さっき、かなりの量を入れてたようですが」


 大さじ一杯の砂糖をすくったまま挙動不審になっている樹を見て、はたと思う。


「心配してくれてるの?」


 そう聞いた途端、樹が目を見張った。水面に垂らした絵の具のように、あっという間に耳まで赤く染まる。


「……別に」


 ぎゅうっと寄った眉根が不快だと言っている。素直でないところは相変わらずか。

 はは、と堪らず笑いを漏らすと、目の切れ味を鋭くして睨みつけてくる。

 ふいに鼻の奥がつんと熱くなった。かわいげのない目つきでも構わない。どうしようもなくかわいい弟が、不甲斐ない兄を見てくれたことが嬉しかった。ずっと会おうとしなかったくせに、そう思うのは勝手だろうか。


「いつもどおりに頼むよ。樹に何か作ってもらうのは初めてだから、同じものを飲みたい」


 樹は無言でグラスの中に砂糖を落とした。華やかな赤が、じわじわとその麓を飲み込んでいく。天井から吊るされたどんぐり型の照明を浴びて、夕暮れどきの海面のようにまぶしい赤。

 樹は牛乳瓶を両手で抑え込むようにして、慣れた手つきで樹脂の蓋を開けた。


「ごめんな、こんな兄ちゃんで」


 視線もグラスの中に落ちたままだった。

 ゆっくりと牛乳が注がれていく。砂糖を砕き、赤いだけの水面に切り込み、やがてごちゃ混ぜになる。

 まるで、葵のことで翻弄されていた自分を見ているようだった。

 最後の一滴が瓶を滑っていくのを横目に、告げる。


「さっきの人とは別れてきたよ。もう会わない」


 樹が正面から俺の目を捉えた。数秒動きを止めた後、瓶をシンクに避け、「そうですか」と呟くように言った。

 ティースプーンで緩やかにかき混ぜられて、濁りが消える。ときおり、果肉がグラスの表面を泳いでいく。中心の渦が小さくなっていき、散らばっていた明かりが一つになったところで、樹がそっとミントを浮かべた。

 甘酸っぱい匂いに紛れほのかに香り、鼻の奥で広がっていく爽やかさ。


「お待たせしました、苺ミルクです。ごゆっくりどうぞ」


 グラスを差し出す樹の目は、心なしか温度を取り戻したように見えた。


「ありがとう」


 樹がチャンネルを変え、カウンター内のスツールに腰かけた。

 聞き覚えのあるバラードが流れてくる。高音の歌声に定評のある男性が、マイクに唇が触れそうな距離で熱唱していた。テレビからそう離れていないのに、歌詞は聞き取れない。静かなカウンターに溶け込むような歌声だった。

 グラスを傾け、横顔を盗み見る。樹は棚を背もたれにし腕を組み、目をつぶっていた。姉の寝顔によく似た、幼い顔だ。

 口いっぱいに優しい甘みが広がった。おいしいなぁと腹の中で呟く。声に出してしまえば、苺と砂糖と牛乳の味でしょ、などとひねくれて機嫌を損ねてしまいそうなので黙っていることにした。


「樹って今、大学生だよね?」


 そう聞くと、重たそうにまぶたを持ち上げた。


「はい。三年です」

「そっかぁ、三年生かぁ。大学はどう? 楽しい?」


 そのときだった。質問を肯定するように、スマートフォンがピロンと軽快な音を立てた。

 とっさに右手が動いていた。メッセージが一件。活きのいい魚が胸の中心で跳ねた。


「まぁ、それなりには」

「そっか。ならよかった」


 口先だけで返事をしながら、指はメッセージアプリの近くをさまよっていた。

 誰からだろうか。葵からだろうか。私も会いたい。私は会いたくない。それともまた別の内容か。

 震える手を握る。覚悟を決めたつもりでも、怖いものは怖い。葵に拒絶されたら、自分が自分でなくなってしまう気さえしていた。

 顔を上げると、樹と目が合った。ただ静かに、じっと俺を見つめている。どこまでも深い瞳。また逃げるのか。腹の奥底まで見透かされている心地がして、グラスをあおった。

 なるようになれ。

 味はしなかった。一気に中身を半分以上空けて、アプリを開いた。再び通知音。懐かしい名前が先頭に並んでいる。


 私もたっちゃんに会いたい

 今、どこ? 私は実家


 無機質な吹き出しに並ぶメッセージを指でなぞり、舌の上で反芻する。


「よかった……」


 何かこみ上げてくるものを感じた。とっさに目元を手で覆い、キーボードを開く。

 樹と一緒にいる。ちょっと待ってて。そっちに行くから。そう送ったところで、「感謝してないわけじゃないんです」と前方から力ない声が聞こえてきた。


「え?」

「あの日、あなたが姉貴の部屋に行ってくれなかったら、姉貴は……助からなかったでしょうから」


 脱力させた腕を腿で挟み、樹は海老のように背中を丸めていた。噛みしめた唇が痛々しい。

 灰谷のおじさんが家を出ていったときのことを思い出す。覚えたばかりのハイハイを繰り返し、何もわからずにけたけたと声を上げて笑う弟の横で、ちょうどこんなふうに葵も落ち込んでいた。

 樹が口を開いた。薄い唇に血が滲んでいる。


「姉貴が……あんな……あんなことをしたのは」


 うわずった声。眼鏡を外し、拳で乱暴に目元を拭う。


「あなたのせいじゃないこともわかってます」


 横顔すらも見せてはくれなかった。バックヤードのほうに顔を背け、アゴの先からこぼれそうになる涙に慌て、何度も手の甲を擦り寄せる。

 樹の中では何も終わっていないのだと思った。もちろん俺にとっても、葵の自殺未遂は過去のことではない。けれど、すぐそばにいるはずの樹を、なぜかとても遠くに感じた。テーブルから身を乗り出し、腕を伸ばせば頭に手が届くのに。


「本当の兄妹じゃないし、あなたに責任がないこともわかってます。ただ俺が八つ当たりしてるだけだってわかってるんです……」


 樹は腰を上げた。スツールに眼鏡を置き、手探りでカウンター下からティッシュを二、三枚取り出す。そのまま死角に隠れてしまった。


「でも、そばにいてあげてほしかった」


 底に残った苺の果実が、浅瀬に揺られている。


「悔しいけど、俺じゃ姉貴を元気にさせられないから」


 のどを絞るような小さな叫びが漏れ聞こえてくる。

 それきり、樹は何も言わなくなった。テレビの音声だけが鼓膜を叩く。

 微粒子で象られた司会者が、いやぁ、何度聴いてもいいですねぇ、などと何度も使い古された文句を吐いた。耳触り(・・・)のいい言葉というのは、聞き慣れた音のように、いつの間にか体のどこにも響かなくなるものだ。マイクを握り直し唇だけで笑み、ありがとうございます、と男性ボーカルは言った。

 苺ミルクを飲みきり、立ち上がる。

 テーブルの向こうから金髪の頭が覗いた。声は聞こえないけれど、必死に嗚咽を堪えているのか、一定の感覚でびくびくと頭が震えていた。

 連絡を受けたあの日、記憶にすらない父親の姿を重ねたのだろうか。病院へ駆けつけた樹の隣に、誰か寄り添う人はいたのだろうか。目を覚ました葵は、何を語ったのだろうか。この長い十ヶ月間を、二人はどう過ごしてきたのだろうか。


「これからはずっとそばにいるから」


 樹にとって、それが心地よい言葉でないことを祈りながら言った。樹の返事はなかった。


「ごちそうさま。また来るよ」


 スマートフォンをポケットにねじ込み、コートを腕にかけ、テーブルに千円札を置く。

 出口へ向かうと、「待ってください。おつり」と涙混じりの声が追いかけてきた。振り返る。樹が足早にカウンターを抜け出してくるところだった。

 顔は斜め下を向いていた。俺の前まで来ると、樹はつまんだ小銭をくいっと振った。

 こうして改めて向かい合ってみると、樹の成長を感じる。見下ろさないと視界に入らなかった頭が、今では俺の目線と同じ高さにある。


「さっきの、姉貴からでしょ」


 おつりを受け取ると、樹がぼそりと呟いた。


「え、なんでわかって……」


 樹は無言のまま踵を返した。小刻みに肩を跳ねさせる。

 俺が葵に会いに行こうとしていることもわかっているのだろう。それを引き留めないことがさっきの返事である気がして、胸に温かいものが広がっていく。


「樹」


 樹が足を止めた。


「今度、葵と三人で飯、食いに行こう」


 背中に言う。樹ははっとしたように顔を上げた。

 答えはなかったけれど、「ああ、もう……」とぼやきながら頭をがしがしと掻き、ふてくされたような口調で続けた。


「早く行けば? うじうじしてたら、姉貴、気が変わっちゃいますよ」


 その後ろ姿は、橙色の夕日を浴びて、ほのかに発光しているかのようだった。金髪の間から赤い耳が覗いている。


「わかったよ。もう行く」


 ドアを押し開ける。春の爽やかな風をまとって、ベルが甲高く鳴り響いた。

 爆ぜるような空が、駅の向こうまで続いている。不思議と寒さは感じなかった。


作者の体調不良につき、最終話の更新を一週遅らせます。

万全の体制でより良いものをお届けしたいので、8月14日までお待ちいただけると幸いです。

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