五杯目
この作品は全年齢版で書きたかったので、“いつものホテル”はラブホテルではなく、通常のホテルをモデルにしています。
「あたしたちが初めて会った日のこと、覚えてる? あれ、偶然なんかじゃないのよ」
ホテルの部屋に入るなり、茜さんが口火を切った。LEDの強い光が彼女の髪の上をうねうねと這っている。
「もちろん覚えてるけど……。どういうこと?」
「あんたを探してたのよ。あの時間に達也が駅前を通るって知ってたの」
茜さんは堂々とそう言ってのけた。
困惑した。ますます意味がわからない。あのとき、茜さんが周囲を気にしていたのは確かだ。一方的に俺のことを知っていたとして、それと飛び降りようとしたことと一体なんの関係があるというのか。
返す言葉を失った俺を横目に、茜さんは乾いた笑いを漏らした。
浴室を素通りして、壁と同じ上品な黒色をしたドアに手をかける。
「順番に話すわ」
やはりその顔からは、いつもの勝ち気さはうかがえなかった。
ドアの先は見慣れた風景だった。必要なものだけが揃えられた簡素な部屋だ。
枯れ木のようなラックにコートをかける。
木製の茶箪笥。隣に置かれた棚の上には、すでに電気ポットが用意されている。サイドテーブルを挟んで並ぶシングルベッド。陽光を取り入れるために設置された小さな窓では、まだ昼間だというのに、隅のほうは薄暗く心もとない。
窓際のベッドに鞄を放り投げ、茜さんは仰向けに寝転がった。
いくどとなく体を重ねた場所に身を委ねるのは、後ろめたかった。ベッドの足元に置かれたデスクチェアに腰かける。
「旦那と娘と三人で買い物に行った日のことなんだけどね」
天井の一点を見つめ、茜さんは静かに話し始めた。
それは、俺たちが出会う数日前の出来事だった。娘の幼稚園がまもなくプール開きだということで、水着を買いに出かけたらしい。会計を済ませ、別行動をしている夫の元へ急ぐと、彼は一人の女性に問い詰められていた。女性は二十代前半で、混乱している様子だったという。
なんの話かと思ったけれど、とりあえず聞くことにする。
「娘が幼稚園に上がる前、旦那はしょっちゅう仕事で家を空けてたの。もちろん仕事なんかじゃなかったはずよ。旦那が不倫をしてるのは薄々勘付いてた」
茜さんは顔だけを俺に向けてくる。感傷的な笑い。茜さんには似合わない。
「その日だって、職場の後輩だなんて言ったくせに、あたしを紹介するそぶりすら見せなかったのよ。怪しいでしょ」
どうせ後輩っていうのも嘘よ、不倫相手に決まってる。再び天井に視線を戻した茜さんの横顔が、そう語っているようだった。
「何日か経って、その子が家を訪ねてきたのよ。それで泣きながら玄関で土下座したの。ごめんなさい、知らなかったんです……って。何度も何度も繰り返すの」
瞬間。腿をしたたかに打ちつけた。デスクの端に寄りかかっていたメモ帳が、乾いた音を立てて倒れる。
「なんで……」
呼吸の仕方がわからなくなった。鼓動が早鐘を打つ。あの日の葵を思い出す。まさか。いや、そんなはずはない。ただの偶然だ。
俺と同年代の女の子なんて星の数ほどいる。その子が偶然、同じ言葉で茜さんに謝罪をしただけだ。
背後で衣擦れの音がした。デスクミラー越しの茜さんと目が合う。ベッドの上に体を起こし、「何か頼まない? お腹空いた」と立ち上がる。うなずきを返すだけで精いっぱいだった。
柱の時計は午後二時を指していた。
パウチのメニュー表をめくる音。「軽いものでいいよね」と茜さん。備えつけの電話がピ、ポ、ポと喋ることすら煩わしい。
早く話の続きが知りたい。葵でないことを確かめたい。
「サンドイッチにしちゃった」
茜さんは受話器を置くと、両開きの茶箪笥を開けながら言った。ティーセットを取り出す。
カチャカチャと耳障りな音ばかりがする中、たまらず口を開いた。
「その子ってどんな格好をしてた? 髪型は? 短くないよね? 染めてたとかさ。肌も日焼けしてなかった?」
茜さんはポットを傾け、「うーん」と一瞬の逡巡ののち、答えた。
「黒のショートヘアーで色白だったわ。ちょっとそこまでっていう感じのカジュアルな服を着てた気がする」
出先で会ったという“女性”の姿を想像すると、葵の特徴と合致する。
茜さんとは正反対で、確かに葵は動きやすい服を好んで着ていた。幼い頃からずっとだ。それは互いの部屋に泊まるときも変わらなかった。
湯が注がれる柔らかな音と共に、ハーブの香りが滲み出すように漂ってくる。
「記憶違いってことはない? 一年近く前のことだし、茜さん、そう思い込んでるだけじゃ……」
茜さんがドン、とポットを乱暴に置いた。華奢な取っ手の付いたティーカップが跳ねる。
「まさか。旦那と不倫してたかもしれない子よ。忘れるわけないじゃない」
いくらか強い声音だった。
「顔も声もはっきりと思い出せるわ」
無意識のうちにコートを見ていた。スマートフォンの中には、葵と撮った写真が残っている。ぎゅうっと手の皮をつまんだ。何を気にしているんだか。葵だと肯定されるのが怖いくせに。
ティーカップに蓋をすると、茜さんが堰を切ったように話し始めた。
「羨ましかったのよ。のこのこと不倫相手の妻を訪ねてきて、あんなふうに謝れるなんて。きっと、うちの旦那に誑かされただけなのよね。だから余計に腹が立ったの」
茜さんは目の前の棚に両手をついた。棚に向かって吐き続ける。
「ずるいと思わない? あんな……バカみたいに大泣きして、謝って。あたし、何も言えなくなるじゃない。せめて、あたしに都合のいいことを言ってほしかった。嘘でもいいから。そうしたら、惨めにならずに済んだのに」
声を張り上げているわけでもないのに、いやというほど耳に響いた。見ていられなくて、デスクに頬杖をつき視線を逸らす。
窓の向こうは晴天だった。空の一点を破いて、光が漏れ出している。雲の浮かんでいない空が、まばたきもせず、こちらを見つめている。
「その子を無理やり追い出してから思ったの。不倫してた事実を、その子の口から聞きたいって。録音して、旦那に突きつけてやるつもりだった。気が付いたら、夢中であとを追いかけてた。ストーカーするつもりはなかったんだけどね。その子が訪ねたアパートの部屋から、男が出てきたの。それがあんただったのよ、達也」
言葉尻がややはっきりと聞こえて、茜さんが振り向いたのだとわかった。
フルスイングを食らった気分だった。すでに頬に押し当てられていたバットを、容赦なく振られる。逃げ場がないのに、弄ぶようにとどめを刺される。
思い当たる節があった。約束もしていないのに、葵が部屋を訪ねてきたことがある。顔を覆ったままうつむく彼女に、何かあったのかと聞くと、『目にゴミが入っちゃったの。洗わせて』と返ってきた。葵はすぐに部屋をあとにした。その間、目が合うことはなかった。
葵の言葉を鵜呑みにして、微かに覚えた違和感を捨てたのは他でもない、俺だ。
デスクに突っ伏した。というより、額を叩きつけた。鈍い音がする。空っぽの音だ。ありったけの石ころを詰めたかのように重たいだけで、肝心なものは何一つ入っていない不良品。
「達也、ダメ、やめて。そんなことしないで」
額に柔らかな感触を覚えて、我に返った。頭を上げると、眼前に茜さんの手があった。
「バカじゃないの、こんなに赤くして」
ぱちんと軽く後頭部を叩かれる。デスクミラーには、額に大きな判子を押したような間抜けヅラの男が映っていた。
茜さんがそっとティーカップを置いた。琥珀色に肩まで浸かる金色のティースプーン。蛇行しながら上気する湯気が、顔にまとわりついていく。
ビー、と空気を裂くように部屋のインターホンが鳴った。
「せっかくのいい男が台無しよ。お茶でも飲んで落ち着きなさい」
「……ありがとう、茜さん」
茜さんはくしゃりと顔を歪め、小さくため息をついた。それから自分の額を指さし、「サンドイッチ、取ってくるから。もうぶつけちゃダメよ」と子どもを諭すような口調で言った。
ティーカップを傾け、しゃんとした背筋の後ろ姿を眺めながら、思考を巡らせる。
茜さんの夫が別れ話を口にしたのは、妻に余裕ができたからで。ゴミ箱に捨てられていたピアスは、茜さんの夫から貰ったもので。推測でしかないけれど、たぶんそうなのだろう。
葵の異変には気が付いていたのに。一番大事な人なのに、どうして首を吊る前にどうにかできなかったのだろう。茜さんや元カノたちには適当なことも言えたし、疑問も躊躇せず口に出せたのに、葵のことになるとどうしてこう臆病になってしまうのだろう。
確かに葵は、俺に助けを求めに来ていた。何かできることがあったのではないか。
一体、何をこんなに怖がっているのだろうか。
口いっぱいに広がった甘い熱が、じわりと舌を焦がした。廊下からスリッパのかかとを叩く音が聞こえてくる。
「話、続けてもいい?」
「うん」
英字新聞風の包みを差し出し、茜さんはベッドに腰かけた。
冷蔵庫に入っていたのか、少しひんやりとしている。包みを静かに広げる。卵とハムとレタスの安心する組み合わせ。三角の中に具が行儀よく収まっている。
「他にも男がいたって知ったら、ますます惨めな気持ちになって。さっきの必死な謝罪は、あたしの反応を見たいがための演技だったのね、それなら同じことをしてやるって思っちゃったの」
茜さんはうつむいていた。シーツに置かれていた手が、ぎゅうっと強く握られる。膝の上でサンドイッチが倒れた。
「あの子から達也を奪って、わからせてやりたかった。あんたのあとをつけて、いつどこに行くのかを把握して。飛び降りるふりをすれば、強引にどうにかできるんじゃないかと思った。どうかしてたわ、あたし」
顔を上げる。弱々しく笑っていたけれど、どこかすっきりとした表情だった。
「最初は復讐のつもりだった。でも、あんたと過ごすうちになにか違う気がしてきて。今日、本当は全然違う話をするつもりだったのよ」
「違う話?」
おうむ返しに聞くと、茜さんは小さくうなずいた。どんな話か気になった。
「それって、葵に関係ある話?」
茜さんは狐につままれたような顔をした。ふいと窓のほうへ目を逸らし、ため息をつき、天井を仰ぐ。「あーあ。本当になんていうか、もう」とひときわ大きな声を出すので、面食らってしまった。
「茜さん?」
「そうかもね。あんたが彼女じゃないなんて言うから、気が変わっちゃったのかも」
茜さんは投げやりにそう言うと、立ち上がった。入り口のほうへ歩いていく。見ると、棚の上に茜さんの分のティーカップが残されていた。
これ以上追及するのは野暮である気がして、サンドイッチを頬張る。こんなときでも味は感じるのか。シャキッとした瑞々しい食感。頬の内側に広がる塩気。ほろほろと溶けていく黄身と粗く刻まれた白身が意外と合っている。
中身をかき混ぜ、カン、カン、カンとスプーンが当たる合間に、茜さんがぼそりと呟いた。
「悪いことをしたと思ってる。今までごめんね、達也」
「ああ、うん」
自分でも間抜けに感じるくらい、ぼやけた声が出た。なんとなく、気にしないで、とは言えなかった。
「娘さんにもちゃんと話しなよ、あのときのことは。あれくらいの歳に経験したことって残るから」
「わかってる」
他の仲間に置いてきぼりにされた卵と、指の形に潰れたパンを口に押し込み、デスク脇のゴミ箱に包みを放る。
「先に出るね」と告げ、ロングコートに腕を通した。暖かい季節とはいえ、まだまだ外は肌寒い。
ティーカップの横に置かれたサンドイッチは、綺麗な三角形のままだった。
「じゃあね、茜さん」
茜さんはちらりとも振り向かなかった。まだハーブティーをかき混ぜている。
後ろ手にベッドルームのドアを閉める間際、ようやく音がやんだ。かわりに、のどを絞るような声が聞こえてくる。声の正体には気が付いたけれど、迷わずドアを引いた。
俺たちが会うことは二度とないだろう。茜さんもそのつもりで誘ったのだと思う。
頬を張られることも、ティーカップの中身をぶちまけられることもなかったけれど、きっと、茜さんのこともいつか忘れてしまう。どうせやめられないならと、ずるずると引きずってきたのも、どこかに葵の面影を見ていたからだった。
茜さんとの関係に蹴りをつけて、葵に顔向けできるようになったとして、彼女に拒絶されるかもしれないと思うと怖かったのだ。あの日の葵を認めることになる気がしたのも怖かった。
けれど、久しぶりに風通しの良くなった心が、浮き立つのを感じている。
会いたい
そう十ヶ月ぶりのメッセージを送った。
ホテルの正面玄関を出て、駅の方角へ歩き出す。
ストーカーは犯罪行為です。