四杯目
前半部分に軽度の性的接触を含みます。ストーリー上、必要な展開です。
生々しい描写は避けていますが、ご注意ください。
◇◆◇
茜さんとの出会いは、十ヶ月前に遡る。仕事を終え、葵の部屋へ泊まりに行く途中のことだ。
電車が着くたび、地引き網の魚みたいに人が掃き出されてくる以外は、人通りの少ないところだった。
車のライトに押されるように階段を上がる。廃れた駅ビルの手前を走る、片側二車線の道路。車がいっぱい通るから、ここは横切ったらダメよ。昔、駅ビルに来るたびにそう聞かされた記憶がある。子どもの頃以来、久しく使っていなかった歩道橋を渡ろうとしたのは、何かの導きだったのかもしれない。
階段を上りきったところで、歩道橋の中ほどに女性の姿が見えた。そばには小さな女の子もいる。女性は欄干と一つになってしまうのではないかというくらい、体を押しつけるようにして寄りかかっている。道路から垂直に伸びるバスのロータリーを見下ろし、カン、カン、カンと一定の間隔で欄干を叩いていた。
仕事帰りの会社員や、駅周辺でたむろするような若者ばかりが通る時間帯だ。子連れの母親は、そこにいるだけで異質だった。女性の後ろを通り過ぎる人々が、指をさし、なにやらささやき合う。
あたりはもう薄暗い。迎えの車はみんな帰ってしまって、駅前は不気味なくらい閑散としていた。物思いに耽るのは結構だけれど、あまりにも不用心だ。
ふと、気が付いた。人が歩道橋を通るたび、その女性がしきりにあたりを見回している。気がかりなことがあるようなそぶりだった。
関わりたくないな。そう思ったけれど、立ち仕事でむくんだ足で車道を走る気にはなれなかった。端まで行けば、エレベーターで歩道に下りられる。
スラックスのポケットに突っ込んだ手で腿をつねる。地面を蹴る。踏む。蹴る。踏む。革靴の爪先を見つめながら、先を急いだ。早く通り過ぎてしまいたい。面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。
女性の後ろまで来た瞬間だった。暗い赤色が持ち上がる。それがなんなのかわかった。心臓が胸の内側を蹴りつけた。
「きゃあっ!」
鼓膜を震わせる悲鳴。思わず顔を上げてしまった。
女の子が尻餅をついたようだ。その視線の先で、女性が欄干から身を乗り出している。
腰まである髪を風になびかせ、暗闇の宙を見下ろしている。ブラウスの先で震える手。ボルドーのスカートを割いて、片足が欄干にかけられる。
無我夢中だった。気が付くと、見ず知らずのその女性を引きずり下ろしていた。
彼女の顔を見て、なにバカなことを、そう怒鳴ろうとしたけれどやめた。急に下っ腹が重くなったのだ。なんで助けたのよ。皮肉に歪んだ顔の上で、生気のない瞳がそう俺を責めている気がしたからだ。
固まっていた女の子が、不安の色を残したまま近付いてくる。幼稚園の年中か年長といった年頃。女の子はへなへなとうずくまると、母親のブラウスの腰を握りしめた。肩を震わせながら、俺と女性とを交互に見る。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ママー!」
とうとう女の子が泣き出した。女性は首を傾げ自嘲気味に笑い、鬱陶しそうに手をひらひらと振った。
あーあ、放っておけばいいのに。野次が飛んできて、いつの間にか人だかりができていたことに気が付いた。なんだよ、つまらないな。ある者はかざしていたスマートフォンを下げ、ある者は踵を返して駅へ歩き出す。俺たちはあっという間に風景の一つになった。その事実が胸を軽くする。
虚ろな目つきとは裏腹に、仮面のような厚化粧をしている目の前の女性に違和感を覚えながらも、わずかに腰を浮かした。そのときだった。
「これで終わりなの?」
手首を掴まれた。引っ張られる。あまりに突然のことで、体は対応できなかった。ぐらりとつんのめり、制御を失う。
眼前に迫る鉄柵。反射的に伸ばした右腕をしたたかに打ちつける。骨が砕けるような痛みに顔が歪んだ。
否応なしに俺は親子に覆い被さる格好となった。母親はまばたき一つせず、こちらを見つめている。
「ちょっと……いきなり何を……」
右手で柵を握りながら、女性を睨みつけた。
ロータリーにバスが入ってくる。聞き慣れた駅のメロディー。早く早く、間に合わないよ。ヒールで地面を鳴らしながら、若い男女の声が後ろを通り過ぎていく。
バスのライトが目に焼きついて、女性の顔はペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされたかのように判然としない。ふっと嘲笑う気配がした。
「これで満足?」
冷たくかさついた指が頬をなぞる。背筋をナイフで撫でられるような心地がして、とっさに顔を背けた。
「勘違いしないでよね」
そのまま唇の中心に人さし指を滑らせてくる。ぐちゃぐちゃの落書きすら掻き分けて、視線に全身を絡め取られる心地がした。
「もう長い間、旦那としてないの。あたしを本当に助けたいと思うなら、わかるわよね? そうしてくれないなら――」
言葉を切り、首に抱きついてくる。ワイシャツ越しの胸の上で、柔らかなものが潰れ、広がった。
「また同じこと、しちゃうかも」
そうささやいた。あんたに断る権利なんてないからね。ざらざらとした舌の感触が、蒸気と共に耳を這っていく。不覚にも、足と足の間が熱くなるのを感じていた。
女性は茜だと名乗った。
彼女は自宅に着き、手近な部屋に娘を押し込むなり、玄関マットの上に俺を押し倒した。互いに、服も靴も履いたままだった。
雨が足音を忍ばせて近付いてくる。ドアにお情け程度に付けられた磨りガラスの向こうは、いつの間にか真っ黒に塗りつぶされていた。
ねぇ、もう一回。いいでしょ? 猫なで声で引き止める茜さんを振りきり、葵が一人暮らしをしているアパートへ着く頃には、約束の時間を大幅に過ぎていた。
「はーい、今開けまーす!」と声が反響する。ガラッ、トントンッ、ピシャリ。賑やかな音がやみ、玄関に人が近付く気配がする。夏の木の葉のような落ち着いた緑色のドアが開いた。
「たっちゃん」
風呂上がりだろう。出迎えた葵の髪は濡れていた。
いつもと違う、真ん中分けの前髪。すっぴんなので若干目つきがキツいけれど、久しぶりに見慣れた顔を目にした気がして安心する。ほてった頬。肩にかけたタオルに雫が落ちる。背に柔らかな橙色の照明を受けて立つ彼女は、妙に色っぽく見えた。
「遅くなってごめん」
「いいよ。電話が来るまでは何かあったんじゃないかと思ってたけど、残業で安心した」
葵が口角を上げてふわりと微笑んだ。
ついさっきまで自分に跨がっていた人妻の、湿った顔が脳裏にちらつく。胸の奥が針で刺されたように痛んだ。
「お疲れさま」
後ろ手にドアを閉めると、葵が手を伸ばしてくる。
「雨に降られちゃった?」
つららになった前髪を掻き分けられる。目と目が合った。
瞬間、葵が溶けたアイスクリームみたいに顔をふやけさせた。心臓が跳ね上がる。とっさに視線を逸らし、咳払いでごまかす。
ゆとりのあるティーシャツの裾から、薄手のホットパンツが覗いている。
「急に降り出したからびっくりしたよ」
「ね。雨、降るなんて言ってなかったのに。とりあえず上がって」
葵はなんだかよくわからないキャラクターもののサンダルを脱ぐと、器用に後ろ向きのまま部屋に上がる。
そして、するりとタオルを抜き取り、俺の頭に乗せた。洗いたての太陽の匂いと、石鹸の香りに包まれる。
「でも小雨でよかった」
とんとん、とタオル越しに頭を叩かれる。
「お風呂、入っちゃってね。温まるから」
「うん。ありがとう」
タオルを握り、そっと耳を隠した。「いつものスウェット、取ってくるね」という葵の声に、うなずきを返す。
馬にされていたときは雨足が強くなっていたけれど、茜さんの家を出る頃には小雨になり、再び駅前を通る頃にはやんでいた。ワイシャツも生乾きのように湿る程度だ。
雨で冷えた体を温めたいというより、体に残る穢れた痕跡を消したかった。葵にだけは知られたくない。葵にだけは軽蔑されたくない。
「あ、そうだ」
リビングのドアを開けかけたところで、葵が振り返った。いたずらっ子みたいな表情を浮かべ、格闘技の選手のように構えの姿勢を取り、続けた。
「遅くなったお詫びにゲーム、付き合ってよね」
「わかったよ。もう遅いから一回だけね」
二つ返事で了承すると、葵は「やった」とガッツポーズをした。何も知らない、普段どおりの葵だ。
白を基調とした部屋の中でさえ、まるでそこだけ塗り替えたかのように、彼女の姿はまぶしかった。
風呂から上がると、葵はソファーの上で丸くなっていた。部屋の明かりを煌々と付け、静かな寝息を立てている。
宙ぶらりんの右腕。器用に麻のソファーカバーを掴む足の指。テレビのゲーム画面が、“play start”の文字を点滅させたまま主人を待っていた。
カーペットに転がるコントローラーを、切り株の形のしゃれたテーブルに置き、葵の顔を覗き込んだ。
相変わらずかわいい顔をしている。氷を連想させるような張りつめた顔立ちなのだけれど、こうして眠っていると案外幼く見える。
「葵」
俺の呼びかけに葵は「ううん……」と唸ると、自分の体を抱きしめるようにいっそう丸くなった。
「風邪を引くよ。寝るならベッドに――」
頬に垂れた髪を掻き上げようとして、手を止めた。髪と髪の間から覗く丸い頬に、涙の乾いた跡があったのだ。
「ごめんなさい……」
葵が虚ろな声で呟いた。閉じた目から涙が流れ、鼻を伝い、カバーにシミを作る。
思わず息を飲んだ。葵の涙を見るのは、就職したての頃のあのとき以来だ。
「葵? どうしたの、何かあった?」
おそるおそる背中を撫でると、ぎゅうっと眉根が寄った。涙が次から次へと溢れてくる。
しゃくり上げる間に、今度ははっきりとした口調でこう言った。
「ごめんなさい、知らなかったんです。もう二度と……あなたの……」
言葉はそこで途切れ、あとは嗚咽を繰り返すだけだった。なんのことだかさっぱりだ。けれど、ただの夢にしてはタチが悪い。
葵をベッドに移動させることもできず、彼女をなだめているうちに、いつの間にか俺も眠りに就いていた。
翌朝、それとなく聞いてみたけれど、葵は箸を止め茶碗に目を落とし、「悪い夢でも見てたんじゃない?」と他人事のように笑うだけだった。
初めて見る眼鏡姿。その奥の、赤く腫れた目元が痛々しかった。
とうとう最後まで、葵が理由を話すことはなかった。
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