三杯目
あの日、警察の聴取を受け、その最中に葵が一命を取り止めたと報告を受けた。
安堵すると同時に、あんな行為に走った理由が気になった。葵から何か聞いていませんかと尋ねると、『それがねぇ、教えてくれないらしいんですよ。わからないの一点張りで』と苦笑していた。
直接、連絡を取ろうかとも考えたけれど、やめた。
自殺を図ったのが突発的ではないことは確かだ。俺が訪ねてくる時間だとわかっていたのか、それともそんなことを考える余裕がなかったのか。後者だろうとは思いつつ、俺の干渉が引き金になっていたら、と考えると怖かったのだ。
十ヶ月が過ぎた今でも、葵からなんの連絡もないことが答えである気がした。
茜さんが苛立たしげに足を組み直すたび、覗く太ももが表情を変える。
半分くらい残っていた苺ミルクを飲み干した。もう一杯。ヤケ酒でもしているようにグラスを置くと、茜さんはこちらに向き直った。
「それで、“葵”ってどこの女? いくつ? まさか彼女なの?」
鋭い針のような声が鼓膜を貫いた。
「別に……その、そういうのじゃないけどさ。茜さん、声が大きいよ」
肘で茜さんを小突くと、彼女ははっとしてカウンターに目をやった。
店員はフォークの背で黙々と苺を潰している。こういう修羅場には慣れているのか、単に聞こえないふりをしているのか。彼の表情からはなんの感情も読み取れない。
茜さんの口端がつり上がった。ふぅんと何度か頷き、侮蔑にも似た視線を向けてくる。
「だから何よ。達也がはぐらかすからこうなるんじゃない。か、の、じょってたった三文字、言えばいいだけでしょ」
茜さんはつんと顔を上げて、勝ち誇ったように言った。
会話を聞けば、俺たちがふしだらな関係であることは想像に難くない。駅近の喫茶店。いつ知人が来るともしれない場所で、こうも大っぴらに話す彼女の意図がわからなかった。
惜しいものなど何もない。失うものなど何もない。そんなはずはないのに、茜さんの瞳が、記憶の中の葵と重なる。
「……彼女じゃないよ。俺にそんな資格はないから」
俺はあられもない方向に視線を向け、白状した。
「そうなんだ」
落胆や歓喜とは違う。引っかかって前にも後ろにもいかなかったものが、急にするりと抜けるような声だった。
また嘘ばっかり。てっきりそう言われるものだと思っていたので、拍子抜けしてしまった。
振り返る。その表情には彼女らしからぬ後ろめたさが滲んでいて、拍子どころか力まで抜けていく。
行き場を失った指先を膝の上で遊ばせながら、茜さんがおずおずと口を開いた。彼女の顔からは、もう好奇心は消えていた。
「ねぇ、達也。その子ってさ」
店員が慣れた手つきでグラスに砂糖を入れた。
トプトプと注がれるミルクの音が、やけに大きく聞こえる。生まれる時には白かったそれは、毒々しい苺の赤と混ざって斑模様になった。
「その子の名字ってさ、灰谷?」
カーン――! カン! カラカラ……。
茜さんの言葉を遮るように、金属音が鳴り響いた。どうやら店員がティースプーンを取り落としたようだ。
茜さんと床に転がったスプーンとを交互に見つめ、狼狽している。
なじみのある名字と、店員の挙動を眺めているうちに、あれ、と思った。見覚えがある。金髪の隙間から覗く顔が、どこか懐かしい。
「大変失礼しました……」
店員は眼鏡を押し上げると、深々と頭を下げた。
コーヒーを注文した時はまともに直視できなかったけれど、ついまじまじと見つめてしまった。
小刻みに震えるすだれ睫毛。伏せた切れ長の目。筆でさっと描いたような鼻筋。薄い唇。男の俺から見てもイケメンだと思うけれど、かっこいいというより美しいと形容したほうがしっくり来る。
「お待たせしました」
その声からは、すっかり棘が抜けていた。
「スプーンは新しいものに取り替えましたのでご安心ください」
一息にそう告げると、店員はグラスを置いた。淡いピンクの水面が揺れて、ミントが思いのままに操られる。
バックヤードとカウンターとを仕切る深い緑色の暖簾が開き、ワイシャツを着崩したヒゲ面が緩慢な動作で現れた。手には推理小説らしきタイトルの文庫本が握られている。
「大きな音がしたけど、大丈夫? 灰谷くん」
懐かしさの正体は、思っていたより早く暴かれた。思わず店員――灰谷の顔を二度見してしまった。
「秋さん、ちょっと」
灰谷は振り向きざま、語気を強めて言った。
どうもすみませんね、お騒がせしました、と俺たちのほうに軽く手を上げると、マスターは灰谷の顔を覗き込んだ。
「なに、どうかした?」
「いえ、別に……」
口ごもる。バツの悪そうな顔をちらりと俺に向けると、灰谷は手近なスツールにエプロンを放り、足早に入り口へと向かった。
「買い出しに行ってきます」
ドアに向かって言う。「えっ、今から? もう在庫、切れちゃったの?」というマスターの声には耳も傾けず、そのまま店を出ていった。
店内に漂う微妙な空気とは裏腹に、入り口のベルが軽快な音を立てる。
「いやぁ、参ったなぁ」
一拍置いて、間延びした声が響いた。文庫本に肘を付くような体勢でアゴヒゲをさすり、ため息をつくと、首だけをこちらにひねった。
「今コーヒーを淹れますんで、お待ちくださいね」
「はい」
かなりルーズな人らしい、ということはわかった。バックヤードに向かって本を読み始め、戻ってくるまでに数分かかった。
マスターは暖簾を掻き分け、「灰谷くん、フィルターってどこ? あ、出かけたんだっけ」などと一人ごち、戸棚という戸棚を開けていった。あっという間にカウンターを散らかしていく彼を横目に、俺たちはどちらからともなく顔を見合わせた。
いつの間にか、グラスの中身はほとんどなくなっていた。海藻みたいに潰れた苺が、水面から覗いている。
「同じ名字っていうだけで、あんなに驚くものかしら」
「……さぁ? そういうものなんじゃない?」
他人事のように相槌を打ちながら、ティースプーンを落とした直後の彼を思い浮かべていた。
金髪に染めていたし、あどけなさは消えすっかり大人びていたけれど、間違いない。触れた点から崩れてしまいそうな、いつも不安そうな表情をしていた葵の弟――樹にそっくりだ。
最後に会ったのは七年前、彼はまだ中学二年だった。
「お、あったあった」
マスターが一段目の引き出しにあった袋からフィルターを引っ張り出し、ジーンズの腰でそれを閉めた。頭上の戸棚は開きっぱなしだし、なにやら細々としたものが近くのテーブルに散乱している。
ああ、これを片付けるところから樹の仕事は始まるのか。樹が小さな頃は俺や葵が代わりにやっていたことなのに、とつい嬉しい吐息が漏れる。
「達也」
「なに? 茜さん」
目をやると、茜さんがさっきと同じ顔をしていた。まるで親に粗相を叱られた子どものようだ。
急にしおらしくなった茜さんに、言いようのない違和感を覚えていた。
「さっきあたしが聞いたことは忘れてね」
茜さんは空になったグラスに目を移し、続けた。
「もう詮索するのはやめる。あたしがあんたと同じ立場だったら、嫌だし」
「そうしてくれると助かるよ」
俺の答えに、茜さんは唇だけで笑んだ。
ふと、茜さんのなんとも言えない反応が脳裏をよぎった。“彼女じゃない”という俺の言葉にあんな顔をしたのは、なぜなのか。なぜ、灰谷という名字を知っていたのか。
今すぐにでも問いただしたかった。けれど、どうしようもなく嫌な予感がして、口を閉ざす他なかった。葵の面影にすら踏み込む勇気がなかった。
だんだんと薄くなっていく湯気の向こうで、モノトーンの顔が俺を見つめている。
葵はあの日、誰に謝っていたのか。それがずっと心に爪痕を残したまま、消えてくれない。
まさか茜さんに? そうだとしたら、一体、葵が何をしたというのか。そもそも二人に接点などあったのか。
横目に茜さんを見る。彼女はグラスの縁を爪で弾いてみたり、なぞってみたりと、しらけた空気を持て余しているようだった。
「茜さん、話があるんだよね。そろそろ出ようか」
茜さんが小さく頷く。
カップをあおり、頭の中のもやもやと一緒に飲み込んだ。コーヒーとは名ばかりの液体は、朝顔の蔦のように絡みつき、舌の感覚を鈍らせていく。砂糖にコーヒーをかけたメニューではないか、と錯覚してしまう一杯だった。
挽いた豆をフィルターに注いでいたマスターにことわりを入れた。
「すみません、それ飲んでください。俺の奢りです」
一方的にそう告げ、カウンターに四杯分の料金を置いた。
「どうもありがとう。ごちそうさまです」
マスターはおどけて右腕を体の前で交差させると、ドリップポットを傾けた。粉の表面がぱちぱちと湯を弾き、風船のように膨らんでいく。
入り口の脇に、深みのある橙色のソファーが佇んでいる。つい三十分ほど前に樹が片付けていた席だ。机を塗りつぶすように丁寧に拭き、シュガーポットや紙ナプキンの位置を整えていた。
茜さんから話を聞いたら、また来よう。あの様子だと歓迎はされないだろうけれど、樹ときちんと話がしたい。いや、しなければならない。
カーディガンに袖を通し、財布とスマートフォンぐらいしか入らないような小さな鞄を手に取る茜さんを待ってから、席を立つ。
「いつものホテル、予約を取っておいたけど」
頭一つ分背が低い茜さんに耳打ちすると、手首を強く握られた。もう一方の手が鞄の持ち手に食い込んでいる。うつむいているせいで、表情がうかがえない。
「茜さん?」
「今日のお金はあたしが払うから。ここの分も。ホテルに着いたら渡すね」
呟くように言ったので、危うく聞き逃すところだった。
「いいよ、そのくらい。今月は厳しいんじゃないの?」
「ううん、平気。もうこれで……」
言いかけて、口をつぐんだ。
「これで、なに?」
茜さんは俺を見上げると、力なく首を横に振り、掠れた声で「なんでもない」と吐き出した。そのまま腕を引かれる。
振り子時計が、カッカッカッと追い立てるように時を刻む。ドアに身を任せているだけの呑気なベルさえも、俺たちを責めるように大きく鳴り響いた。




