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二杯目

軽度の性的な言葉が含まれます。ご注意ください。

◇◆◇


 葵は幼なじみだ。彼女とは実家が隣で、まるで兄妹のように育った。

 葵の家が母子家庭ということもあって、彼女の弟である(いつき)とも共に過ごすことが多かった。

 いつも一緒にいるのが当たり前だったから、葵のことが好きだと自覚するまでには時間がかかった。高校に上がる頃にはぼんやりと気が付いていたように思う。けれど、気持ちは伝えられなかった。

 ずっと家族ぐるみの付き合いをしてきたし、親同士は俺たちが恋人になることを期待していた。俺自身も自然とそうなるものだと思っていたけれど、葵は違ったのだ。

 “兄妹”という足枷に差し込んだ鍵は、中途半端なところで止まって左にも右にも回せなかった。


「たっちゃんと幼なじみで良かった。これからもずっと一緒にいてね、たっちゃん」


 それはどういう意味だったのか。俺の恋心に気が付いていたのか、葵はまるで牽制するかのように言った。

 葵は俺の目を見なかった。教室の一番後ろの席で、窓に映る自分の姿よりももっとずっと遠くのほうに視線を巡らせていた。


「なに、当たり前のことを言ってるんだよ」


 そう返すだけで精いっぱいだった。動揺を気取られなかったことはせめてもの救いだ。

 初めて恋が怖いと思った。

 バレないように鍵を抜いて、心の奥にしまい込んだ。

 ぎくしゃくするとかそういうことはなかったけれど、何か今までとは違うような、隔たりというか、とにかく俺たちの関係は変わった。葵と俺とを繋ぐ足枷の間で揺れていた鎖が、ぴんと張られるような、そんな些細な変化だ。

 まもなくして、葵に彼氏ができた。相手は俺のクラスメイトでもあり、そこそこ仲のいいヤツだった。「灰谷(はいたに)ってかわいいよな」とよく葵のことを気にしていた。けれど、それだけだ。葵と話しているところなんて見たことがなかった。

 わかっていた。わかっていたけれど。

 俺はあてつけみたいにどうでもいい女の子とばかり付き合ってセックスをして、葵への気持ちに無理やり蓋をした。熱いものを出しきって体は満たされたのに、心はいつまでも空っぽのままだった。

 思いがけずチャンスが訪れたのは、二十二歳のときのことだった。地元から二駅離れた町にある、総合病院の事務局に勤務してまもない頃だ。

 職場は実家から通えない距離ではなかった。少しでも早く自立したい。そう理由を付けて、病院まで徒歩数分の距離にある古いアパートを借りた。

 部屋の畳は歩くたびにギィギィと軋むし、湯船には体育座りをしないと浸かれない。それでも実家で暮らすよりはマシだった。自立したいだなんて理由は建前で、本当は葵の顔を見たくなかったからなのだ。

 そんな俺の心情などお構いなしに、当の本人が部屋を訪ねてきた。

 女の子というのは、たった四年でこうも変わるものなのだろうか。ドアスコープ越しのほてった顔は、父親似の整った目鼻立ちが際立ち、最後に会ったときよりずっと大人びていた。

 部屋に招き入れた途端、葵はしゃがみ込み、「彼氏と別れた」とだけ言うと泣き出した。

 数いる女友達ではなく、俺を頼ってきたことに高揚した。男というのは、なんて単純なのだろう。顔をしかめたくなるほどキツい酒の匂いが、心地よかった。

 その彼氏は高校のクラスメイトとはまた違う男だった。


一回り以上も離れた人なの。大事な話があるって言うから、てっきりプロポーズされるのかと思ってた。でもね……。


 好きな女ができたから別れてほしい。

 大学一年の秋から三年半続いた恋は、ほんの三秒でしめくくられた。


好きな女って誰なの? どんな人? そのくらい教えてくれたっていいじゃない。そのくらい、私にも知る権利はあるでしょ。でも何も教えてくれないの。


 水の入ったコップを酒みたいにあおり、葵は延々と愚痴を吐いた。襟足の短い黒髪から覗く横顔。針金を通したようにすっとした鼻が、赤くなっている。

 葵の言葉は耳から入って反対の耳から抜けていった。

 葵は俺とは違う。付き合った相手をちゃんと好きになろうとする。

 俺には到底できないことだ。見せかけの“好き”をあげることは得意だけれど、そういうのは長く続かない。月に何度か会って、食事をして体を求めてくるだけの男の本心なんて、いつか見透かされる。

『付き合うってこういうことじゃないよね』

『あなたといてもつまらない』

 いつも別れの言葉を切り出される側だった。そう、さようなら。淡々とひどい対応をしていた気がするし、その都度、頬を張られたような、水をかけられたような。振り返るほどの思い出なんてないし、記憶の中の名前も顔もまるで靄がかかったようにぼんやりとしている。

 いつだって頭の中にいたのは、葵だった。


「えっと、たっちゃん……?」


 葵の困惑したような声で我に返った。

 すり抜けてしまいそうなほど細い体が、腕の中にあった。頰をくすぐる毛先。

 葵が身じろぎをするので、いけないことをしているようで、なんだかいたたまれない気持ちになる。


「ああ、ごめん」


 腕を緩めると、葵が驚いたように口をぽかんと開けていた。頬が赤らんでいる。とうに酒は抜けたと思いたかった。

 足元で重たい音がした。コップから勢いよく飛び出した水が、畳の上を這っていく。スーツの膝を、足の甲を濡らしていく。

 濁りひとつない。透き通って、畳のささくれまでよく見える。

 葵は水の行く先を目で追って、それから俺を見つめた。ゆっくりと瞼を閉じる。仕事帰りのワイシャツの脇を、強く握ってくる。

 動揺した。心臓にこびり付いている臆病な虫が、一斉にぶるりと震えた。

 この光景には見覚えがある。何度も似たような表情を見てきた。けれど、違う。元カノにねだられるのとではわけが違う。全然、違う。

 ふいに、俺と幼なじみで良かったという葵の言葉が蘇る。まだ春なのに、背中がじわりと湿る。血の流れが早くなった気がするのに、思考は同じところをさまよっていた。

 失恋した事実を口にできるのは、相変わらず俺に気がないからでは? それなのに、どうして。


 俺、葵を妹だなんて思ってないよ。

 俺じゃダメかな?

 好きだよ。


 気持ちをのどの奥にぶら下げたまま、「葵」と呼びかけた。ほんの少し上向いた頬に触れる。葵の肩がぴくりと跳ね、瞼に力が入るのがわかった。

 緊張しているのか、怯えているのか。どっちつかずの反応だ。

 唇を重ねても、きっと葵は受け入れてくれるだろう。けれど、それでいいのだろうか。酒に酔いヤケになっているだけで、元カレの代わりを求められているのではないのか。

 そうしたところで、お互い、何が残るというのか。

 首筋に手を滑らせる。髪の間から、丸みを帯びた耳が覗いた。それと比べれば、粗暴に感じるくらい大ぶりなトライアングルピアスが揺れる。

 穴を開けたのは、いつなのだろう。


「……葵」


 震える手を後頭部まで滑らせて、また葵を抱きしめた。

 腹の底が熱い。グツグツと煮えたぎって、(はらわた)が飛び散りそうなほど、熱い。今まで自分がしてきた行いの報いであるような気がしていた。


「たっちゃん?」


 葵のくぐもった声が聞こえてくる。一度離れた手が、俺の背中をなぞった。

 “好き”なんてセックスの片手間に安売りしていたのに、葵の前では言えなかった。

 その後も時々、互いの部屋に入り浸ることはあった。けれど、なんの進展もないまま一年と二ヶ月が過ぎた。

 結局、葵の気持ちがどこに向いているのかはわからずじまいだった。

 何度目かの約束のとき、壊れてもいないのにピアスがゴミ箱に捨てられていた。特に気には留めなかったけれど、あれは葵なりのSOSだったのではないかと、今では思う。




 その日は朝から雨が降り続いて、じめじめとした蒸し暑い一日だった。

 葵の様子がおかしくなったのは、一週間前、彼女の部屋に泊まったときのことだ。風呂から上がりしばらくすると、寝言が聞こえてきた。「ごめんなさい。知らなかったんです」と言いながら、葵は泣いていた。

 それから毎晩、仕事帰りに葵を訪ねた。魂を抜き取られたような顔をして「気にしないで。疲れてるだけだよ」と言ってみたり、そうかと思えば「また来てくれたの。たっちゃんは心配性だなぁ」なんていつもみたいに笑っていたりもした。

 本当に葵の言うとおり心配性で、俺の考えすぎで気のせいだったら良かったのに。何も心配することがないなら、あわよくば……。またバカみたいな下心を抱いたから、バチが当たったのかもしれない。

 その日に限って、インターホンを鳴らしても葵は出てこなかった。胸騒ぎがした。借りていた合い鍵で部屋に入ろうとして、ドアが重たいことに気が付いた。

 葵はドアノブにくくり付けた延長コードで首を吊り、意識を失っていた。

 何か叫んだと思う。偶然居合わせたのか、駆けつけてくれたのか、誰かが救急車を呼んだところまでは覚えている。

 耳になだれ込むような強い雨音に、記憶も何もかも掻き消されてしまった。


◇◆◇

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