一杯目
「葵」
昼下がりの喫茶店。一本木のカウンターテーブル。その隅に追いやられた小型のテレビ画面に、彼女はいた。冴え冴えとした切れ長の瞳が、まっすぐこちらに向けられている。シュガーポットをひっくり返した俺を見つめている。
アメリカンコーヒーのぱっと際立つ華やかな匂いの湯気に混じって、香ばしさが鼻を刺激した。視線をやると、溶けきらなかった砂糖がこんもりと山を作っている。
「いやぁ、青い青い。青すぎるわ。ねぇ、茜さん」
隣の席を見ないで言った。我ながら無理のあるごまかし方だと思う。けれど、そうでもしなければ、今度は心臓をコーヒーに落としてしまいそうだった。
返事はない。代わりに、耳にまとわりつくため息が一つ。
さっきまで窓際の席を片付けていた男の店員が、カウンター越しに立った。袖を捲ったワイシャツに、生成りのエプロン。透き通るような薄い金髪に色白の肌。まるでマッシュルームから手足が生えたような見た目だ。
彼は両腕をちゃっかりテーブルに乗せ、もたれかかった。瓶底のように分厚い眼鏡の奥で、嫌みな色が揺れている。
「新しいものをお持ちしましょうか? それとも、他のものを?」
言葉遣いこそ丁寧だけれど、棘を含んだ口調だった。
店員がカウンターの右端をくいっとアゴで示した。スツールを二脚挟んだ向こうの柱に、ノート程度の大きさの黒板が打ち付けられている。
言われるがまま、ずらりと並ぶメニューらしきものを目で追っていた。けれど、動くのは目だけで、肝心の内容はこれっぽっちも頭に入ってこない。
軽蔑一色に染まった葵の残像が瞼に張り付いている。俺の脳みそは目詰まりを起こしたシュレッダーみたいに動かなくなって、彼女でいっぱいになっていた。
「もう一杯、同じものを」
そう注文するしかなかった。
「かしこまりました。そちらはお下げしましょうか?」
店員が俺の手元にあるカップに手のひらを向ける。無惨にも粗めの粒が散らばったそれは、スイーツという呼称のほうがお似合いだ。
「ああ、お構いなく。俺、甘党なんですよ」
「そうでしたか。少々お待ちください」
店員は薄ら笑いを浮かべ怠そうに体を起こすと、踵を返した。
置いていかないでくれ。そう呼び止めたいのを堪えて、バックヤードに消える背中を見送る。
すぐに「ちょっと秋さん、そんなところで寝ないでくださいよ。さっきのお客さんにアメリカン、淹れてあげてください」という声が聞こえてくる。秋さんというのは、このコーヒーを淹れてくれたヒゲ面のマスターのことだろう。
隣でゴンッと音がした。苺ミルクの波が、下膨れのグラスにぶつかって弾ける。俺は見てみぬふりをして、脇のスツールに置いたコートからスマートフォンを取り出した。左半身が焼けるように痛かった。
日曜日の、しかもこんな時間だというのに、俺たち二人以外に客はいない。それきり静まり返った店内に、テレビの音だけが響いていた。
この喫茶店“喫茶みちる”は、駅の裏手の通りにある寂れた商店街の一角に建っている。どこの店も子どもが後を継がないとかでシャッターが閉まり、他に開いているのは数軒くらいだそうだ。長らく駅を利用していなかったから、こんなところに喫茶店があるなんて、今日まで知らなかった。
シンプルながらもしっかりとした造りの白いドア。木目調の外壁。店内はこじんまりとしていた。カウンター席の他には、入口から入ってすぐ左手に四人がけの席が二つあるだけだ。その席の座面近くまである大きな出窓が、閑散とした街並みを映し出している。
赤茶色の島の端が崩れ、底の見えない不気味な海に沈んでいく。テレビなんか見ながら入れるべきじゃなかったなと、マドラーでその中心を突き崩したときだった。
「“葵”って誰よ」
茜さんがようやく口を開いた。だんまりを決め込んだ俺に、とうとうしびれを切らしたらしい。テーブルの上で人さし指がリズムを刻んでいる。
三発の打撃で、砂糖の島はあっけなく沈没した。ぷつ、ぷつと水面に浮かんだ泡が弾ける。
「人の名前じゃないってば。ケツの青いガキとか言うでしょ? ほら、テレビに映ってる子。青くさいことを言ってるなぁって」
「へぇ、なんて言ったのよ」
俺が言葉に詰まるのを期待しているのだろう。不機嫌そうに尖っていた蜜柑色の唇が、みるみるうちに弧を描いた。
頬杖をつき、身を乗り出すようにして俺の顔を覗き込んでくる。
「あたしには何も聞こえなかったんだけど」
竹内茜。まるで恋人のように振る舞っているけれど、茜さんには家庭がある。夫は過去に勤めていた広告会社の上司で、七年ほど前にできちゃった婚をした。部下を妊娠させた手前、しぶしぶといったどうしようもない男のようで、当初から二人の関係はうまく行っていないらしい。
そのせいか、茜さんは俺の女性関係によく干渉してくる。もっともこれまでは、取引先へ行くのに先輩と一緒にいる姿を見られたとか、打ち上げの後に会った日には、スーツに香水の匂いが染み付いているとか、すべて会社の関係者だった。
蝶の触覚のように巻かれた睫毛の下で、茜さんがにやにやと笑っている。
「で、誰なの?」
「だから、その……」
いい加減うんざりしていたところに、この仕打ちだ。
俺が返答を渋っていると、茜さんが小首を傾げ、やっぱり嘘なんじゃないとでも言いたげに目を細めた。
「本当に男の人って嘘つきよね。女が絡むとすぐこれなんだから」
得意げな顔をして、赤色のネイルを日に透かしながら、茜さんは肩をすくめた。
途端、すーっと頭の温度が下がっていくのを感じた。自分はどうなんだよ。嘘つきは茜さんのほうだろう。『話がある』と呼び出されたから来たのに、まさか、またそういう話を始めるつもりか。
底に沈んだ残骸をガリッ、ガリッと砕くたび、マドラーがたわんだ。
「旦那さん、今日は家にいるんでしょ。なんて言って出てきたの?」
「え?」
「正直に言ったの? 今から若い男と不倫してきますって」
厭な笑みを浮かべていたと思う。一拍置いて、茜さんが俺を睨んだ。
「……いじわる」
茜さんはふいとそっぽを向いた。ポテトチップスみたいな形のピアスが揺れる。反射した光が霰のようにテーブルの上を跳ねていった。
ゆるくパーマのかかった、明るい茶色のポニーテール。襟のない七分袖で、背中がV字に開いた小豆色のブラウス。豹柄の白いタイトスカートの側面は、大胆にも太ももが覗くほど切れ込んでいる。華奢な足元を飾る、目がちかちかするような銀色のハイヒール。
以前、茜さんが『小さな子がいるのにおしゃれする暇なんてない』とぼやいていたのを思い出す。茜さんの格好がおしゃれかトンチンカンなのかはわからないけれど、少なくとも“小さな子がいる”母親の格好でないことだけは確かだ。
視界の端で、茜さんが様子をうかがうようにゆっくりと振り向いたのがわかった。俺は気が付かないふりをして、カップに口を付けた。
そのときだった。
「最低」
左から声がした。よく通る声だった。その言葉に、声に、心臓を毟り取られたような気がした。勝手に目がテレビのほうを向いていた。
ブラウスの肩越しに、テレビの女性――葵が底冷えのする眼差しを向けてくる。茜さんのことなんて、もうどうでも良くなっていた。
たっちゃん、なんで不倫なんてしたの。汚い。獣みたい。最低。だいっきらい。もう二度と顔も見たくない。
息が詰まった。足首を掴まれて、ぐらぐらと揺らされる心地がした。体の毛穴という毛穴から冷たいものが噴き出してくる。頭がくらくらとして、葵の姿が遠ざかっていく。
これまで葵が俺に対して感情を露わにしたことは、一度もなかった。ただの一度もだ。けれど、今日は違った。音のない水底のような目の奥に、静かな怒りを湛えている。
葵のそばで、アロハシャツを着た男がいやらしい笑みを浮かべている。男がねちっこい声で続けた。ちょっと待ってくださいよ、奥さん。
続きは聞こえなかった。
――奥さん。
その言葉で、一気に現実に引き戻された。
昼下がりの喫茶店。一本木のカウンターテーブル。入り口の頭上を飾る振り子時計が、急にカッ、カッ、カッと動き出した。
いつの間にか現れたマスターが、コーヒー豆を挽いている。新鮮な豆ならではの滑らかな音。それを掻き消すように、うらめしそうな顔をした茜さんが、ズルズルと苺ミルクをすすっている。
ああ、そうだ。頭から冷水を浴びせられたような気がした。
テレビの中の女性にもう一度目を向ける。覚えのある顔だ。けれど、葵ではなかった。
場面が切り替わり、エンドロールと音楽が流れ始めた。街頭インタビューでもなければ、ドキュメンタリー番組でもない。ドラマの再放送だったのだ。さっきの女性が街中で立ち止まり、驚いた顔をした初老の男と見つめ合っている。
名前はなんだったか、演技派とかで最近よく見る若手の女優だ。すだれ睫毛の涼やかな目元以外は、葵とは似ても似つかない人だった。
そもそも、葵があんなところにいるわけがないのだ。彼女は結婚などしていない。いや、できなかった。