血糊
俺は24番目のゴンドラのドアを開いて、演技を続ける。
「ではどうぞお客様――」
「浦野、どうせ音声は録画されていないんだからもう演技はしなくていいぞ」
池田は『純子』を先に乗せ、自分も乗り込みながら俺に声をかけてきた。
「ああ、そうだな。じゃあ遠慮なしついでに、もう1人乗り込むから」
俺がそう言った瞬間を見計らっていたように、黒水美登里が突入していく。
「ああ、あ、あんたがなぜここに!? おい、浦野! どういうことだ? 僕は降りるぞ、おい浦野そこをどけぇー!」
黒水美登里がゴンドラに入った瞬間、池田は慌てふためき、叫び始めた。
池田が降りる分には構わない。純子と『純子』がいれば入れ替わりができるのだから。しかし、池田は『純子』の腕を引いて一緒に降りようとしているから俺は必死にその動きを制する。
「何を騒いでいるんだ池田! お前らは黒水さんに誘われて撮影会に来たんだろ!?」
「はあっー!? 浦野おまえ何を言っているんだ? その女は危ない女だ! ストーカーなんだ!」
「――――えっ?」
その一瞬、時間が止まったような感覚にとらわれた。
池田の動きを制するのに必死だった俺は、ゴンドラの中に乗り込む形になっていた。
慌てて遊園地スタッフが外からドアをロックした。
池田は『純子』の隣に座り、頭を抱えながら大きく息を吐いた。
『純子』はまったく状況が飲み込めないらしく、涙目でおろおろしている。
そんな2人を対面に座る黒水美登里が満足そうな表情で観察している。
呆気にとられて立ったままの俺に向かって、
「淳君も座りなよ。ほら、こっちに。時間はたっぷりあるのよ。楽しみましょう!」
と、左側の口角を上げて首をわずかに左に傾けながら言ってきた。
白いリボンで縛った長い黒髪が、ゆらりと揺れる。
俺は黒水美登里の隣に座る。彼女から香水の匂いがした。
「浦野から今日の撮影の話が出されて変だなとは思っていたんだ。そのときに気づくべきだった……」
池田が頭を抱えたままの姿勢で、独り言のように呟いた。
「だって、お前たちは黒水さんに誘われたんじゃないのかよ。お前ら2人で携帯ショップに行ったときに……ちがうのか?」
「僕たちは出演者募集の動画サイトを見て申し込んだんだよ。誰にも誘われていない。それに僕ら二人で携帯ショップに行ったこともないよ」
「えっ? ウソだろ!?」
「ウソじゃない。浦野が何をどう聞いたのかしらないが、恐らくすべてがその女の狂言だよ。そいつはそういう女だ。じつは……その女とは僕が去年携帯ショップに行ったときに意気投合してさ……それ以来時々逢っていたんだよ」
「ねえ……その時々って言い方……お姉さんあまり好きじゃないなぁ……哲君!」
黒水美登里が池田を見つめながら、寂しそうな声で語り始める。
「哲君たら、毎夜毎夜、私を求めて来てくれたじゃない? 時々じゃあないよね?」
「で、でも……それはもう半年以上前の話じゃないか! 僕たちの関係はもう……」
「もう……なあに? ねえ、覚えてる? 哲君、私の上でもう一生君を離さないよって言ってぎゅっと抱きしめてくれたよね? あの舌はどこに行っちゃったのかなぁ?」
その言葉を聞いた俺は、黒水美登里と初めて会った日のことを回想していた。危うく俺も同じ運命になるところだったのか? いや、あのとき俺が結ばれたのは黒水美登里ではなくて、あくまでも純子と……
いや、今はその話はどうでもいい! そんなことよりも俺には今、どうしても確かめなければならないことがあるだろう!
俺は気が動転してどうしていいか分からないという表情の純子に向かって、
「おい、俺にちゃんと質問させてくれ! 純子、お前の身体の中にいるのはお前自身なのか? 赤の他人じゃなくて?」
「えっ? ごめんなさい……何を言っているのか分からないんだけれど?」
不意に俺に質問をされた『純子』は、目をまん丸に見開いてそう答えた。
「純子」という俺の呼びかけに、もう黒水美登里は反応を示すことはなかった……
「なあ、お前ら二人は、この『24番の観覧車』に……乗ったことは……」
「ないわ。だから今回の動画撮影の話をネットで見て面白そうねって池田君と相談して申し込んだんだけれど……ねえ淳君、私たちの関係はもう終わりにしたよね? もう関わらないでって頼んだのにどうして……どうして池田君の前カノを連れてきたりしたのよぉぉぉ!」
純子は顔を手で覆い、嗚咽混じりに泣き始める。
「あらあら、淳君たら……女の子を泣かしちゃ駄目じゃない。ねえ、純子さん。もう一度……淳君とやり直してみない? そうしてくれたらお姉さんも助かるんだけどぉー……どうかしら?」
そう言いながら、黒水美登里はズボンの後ろポケットから何かをゆっくりと取り出す。
俺はこの期に及んで都合のよいことを考えていた――
純子が池田をあきらめ――
俺と純子が縒りを戻す未来を――
この絶望的な密室空間の中で、現実から逃げようとしていたのだ。
「いやぁ、絶対に池田君と別れないからぁぁぁー!」
純子の叫び声に、俺と池田がはっとして顔を上げる。
「ならば死になさい!」
ナイフを両手に握った黒水美登里が純子に迫る。
とっさに身を引こうとする純子だが、イスの背もたれとガラスの壁面に背中をぶつけることしかできない。
ナイフが身を刺す鈍い音がした。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
悲鳴を上げる純子の顔に血しぶきが付着している。
しかし純子は無傷である。
直前に池田が覆い被さり、純子を守っていた。
池田の背中から脇の下のあたりにナイフが刺さっている。
「――哲君! どうしてそんな女をかばうのよぉぉぉー!」
黒水美登里はナイフを池田の身体から抜き、よろよろとふらつきながら後ろに下がり、かくんと膝を曲げて元のイスに座った。
彼女の持つナイフの刃わたりいっぱいに、池田の血糊がぬるっと付着していた。