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どんづまりの街 27 ―ロキの実験―



 誰もが想像したことがあるだろう。


 一度見聞きしたことを完璧に記憶できるということを。

 どんなに他愛もない出来事も完璧に想起することができるということを。


 超記憶症候群(ハイパーサイメシア)。あるいはサヴァン症候群というものがある。


 これはどんな些細な情報も事細かに記憶できること。とある障害と伴い、特定の分野に限って優れた能力を発揮するというものだ。

 大抵の場合は記憶できる情報を取捨選択できるものではない。


 しかしもしも。一度見て、聞いて、経験したことを完璧に記憶することができるとしたら。

 人類はそんな夢のような能力を大昔から憧れてきた。


 しかし人より記憶力が良すぎるということというのは、冷静に考えれば疾患でしかない。

 人の脳は記憶、情報を忘れるように出来ている。

 そうでなければ人は膨大な量の情報を処理しきれないのだ。


 忘れる、つまり健忘とは自己防衛の本能と言える。

 それは脳機能だけではなく、心を守ることにも言える。


 もしもかけがえのないものを失った過去に永遠に囚われることになったら。

 もしも身を裂くような過去に永遠に付き纏われることになったら。

 それを想像して戦慄しない者はいないはずだ。


 全ての情報を記憶できるというのは、言い換えれば忘れることができないということ。

 もはやこれは、呪いとすら言える。

 もしもそれを有効に扱える者がいたとしたら――。



       *



 完全に暗闇に没した倉庫の中、男はひりついた空気を感じていた。


 ロキは迎え討つ気だ。雇用主であるホーキンスからロキのことは事細かに聞いていた。

 ロキは魔法の知識は膨大であるが、内に宿す魔素はお粗末にも程があると。

 決して表立って戦うような魔法使いではないと聞かされていた。


 どこぞの大学で机に齧り付いて研究しているような学者肌だと。

 しかしそんな男が自分を倒すとのたまったのだ。


 馬鹿らしい。どうせ口から出まかせ。力で劣る分こちらを精神的優位に立たせまいとうそぶいているだけだ。男はそう思っていた。


 ただこの暗闇だけは危険だ。

 先程自分が言ったとおりこの倉庫内は男が毎日出入りしているだけあって荷物の配置は完璧なほど理解している。


 それでも流石にこれほどの暗闇だと記憶も判然としない。

 何とか配電盤の場所まで行って証明をつけなければ。


 男はそう思いながら積まれた荷物に手を付きながら足を進める。

 幸いにも自分が落ちた場所はおおよそ理解していた。


 落ちる前にいた四階の廊下の場所からほぼ中央辺りに落ちたのであろうと当たりを付け頭の中の倉庫の配置と照らし合わせて進んでいく。

 この先は丁字路になって右に曲がると直ぐに突き当たり。左に進めばまた丁字路。そこを右に進む。そうすれば配電盤はすぐそこ。


 手を付きゆっくりと進みながら記憶通りに進んでいることに安堵する。

 やはり地の利は自分にある。

 ロキはこの倉庫の中はほとんど知らないはずだ。いくらこのビルに何度も来ているとは言え行動の自由は許してはいなかった。そもそもこの倉庫の中にはロキは入れてはいない。もしそんなことをして隠してあるクスリを見つけられるわけにもいかない。

 きっと今頃は場所の把握で精一杯だろうと男はほくそ笑んでいた。


 とその瞬間左に曲がれば配電盤だというところで、あるはずのない壁に激突した。

 顔面に訪れた鈍い衝撃とともに男の思考が停止した。


――壁? バカなこんなところに? まさか道を間違えたのか?


 男はそのことに気がつくと一気に気が動転した。ここまで記憶通りだと思っていたルートはただの偶然で全く違う道を進んできたのかという現実に激しく混乱した。


 まずい、時間を無駄にしてしまった。せっかくの地の利を活かすどころではなくなった。

 混乱した頭でそういった言葉が駆け巡る。

 ただでさえ冷静さを失っていた男はますます動揺する。


 頭の中の倉庫の地図が完全に崩壊し、今自分がどこに立っているかすらわからなくなった。


「あーらら。道がわからなくなっちまったのか? 地の利はそっちにあるんじゃねぇのかよ」


 すぐ近く。まるで耳元で囁かれるくらいの距離から聞こえたロキの声に男は即座に振り向いた。しかしそうしたところでこの暗闇の中でロキの姿を確認できるわけでもなく、依然として空虚な黒が広がっていた。


「こっちだ、バァカ」


 そう聞こえた途端、背中を蹴られるような衝撃に襲われた。

 その攻撃事態は大したことはなかったが、この暗闇の中で自分の位置を理解し的確に攻撃してきたことに衝撃を受けた。


――どういうことだ、あの野郎。この暗闇の中で俺が見えてるのか!?


 まさかとは思うがそうとしか考えられない状況にますます男の思考が乱れる。そんな時近くから走り去るような足音が聞こえる。間違いなくロキだ。


「待ちやがれ、この野郎!」


 叫びながら男はロキの足音を追った。暗闇の中荷物に体をぶつけながらも懸命に追った。

 ロキの足音は依然として軽快な音を奏でている。

 そこで男は追いながら疑問を浮かべる。


――どういうことだ?何であいつはどこにもぶつからずに走っていられるんだ?


 やはりこの暗闇の中で視界を確保できている何かがあるのかと思ったがわからない。

 闘気を目に集中させれば微かな光を取り入れ多少夜目をきかせることはできるが、ここまでの暗闇ではほとんど意味がない。現に男も闘気と合わせて目を凝らしても視界は未だ黒塗りのままだった。


 答えの出ない疑問に頭を働かせていると、視界の端でぽうっと淡い光が灯ったような気がした。

それと同時に壁に手をついていた男の手が弾けた。


「な……に!」


 一瞬だけ闇を振り払うような光が瞬いたと思っていると遅れて男の手に激痛が走る。


 そうしてやっと何が起きたのかを理解した。

 先程の視界に映った淡い光は魔法が発動したとき特有の発光現象だ。そしてそれは己の手を弾く魔法だったのだろう。


 それはきっと走り去るロキが追ってくる自分に向けた罠だということは容易に理解できた。

 暗闇で確認はできないが先程の爆発で自分の手から夥しい量の血が溢れ出ていることがわかる。意図しないタイミングと場所からの攻撃に闘気でガードすることすらできなかったのだ。


 痛みとまんまと罠にかかってしまった苛立ちでますます男は頭が働くなる。逃げるがままのロキを眼前に餌をチラつかせられ、マヌケにも飛びつく犬猫のように追ってきたため、いよいよどこにいるのかがわからない。


 自分がロキの掌の上で転がされている妄想が頭をよぎり一気に脳に血が昇る。

 そんなとき、男は荷物に足を取られ体勢を崩した。手の怪我を無意識に庇ったため簡単に膝をついてしまった。


 すると遠い闇の奥からそんな惨めな自分を嘲るようなロキの小さい笑い声が聞こえた。


「馬鹿にしてんじゃねよ、オイ! ガアアアアアアアアアア!!!」


 ロキのその笑い声を皮切りに男はとうとう憤慨し、出鱈目に叫び暴れた。


 嗤った。嗤いやがった、この自分を。

 この街で恐怖の象徴である自分を。見下した。


 それは男にとって最大級の侮辱だった。

 誰もが自分を恐れた。誰もが逆らわなかった。

 そんな自分をロキは、こともあろうか吹けば飛んでいっていしまうような枯れ木のような痩身の男は嘲笑った。そのことが男は我慢できなかった。


 大事な商品のことなどお構いなしに男は積まれた荷物を殴り蹴飛ばし暴れた。

 こうなったら倉庫中の荷物を全てひっくり返してやると開き直ったのだ。


「あーあー……。キレちまったらシメーだぜ」


 その様子をロキは安全圏から荷物の上に座り嫌味のこもった笑みで眺めていた。


 ロキが男の位置を把握できるのは先程男の背中に蹴りをくらわせた際に発光塗料を塗られた札を貼られたからだ。別にそれは魔法でもなんでもなく、男の完全な死角にあるためそれは男からは解らなかった。


 しかしそれはロキが倉庫内の荷物の配置を理解してることとは関係がない。

 何故この暗闇の中、倉庫の中をよく理解している男よりもなぜ把握しているのか。

 それは魔法や特殊な技能といったものではなかった。


 ロキは、記憶力が良すぎるだけなのだ。


 ロキがそのことに気がついたのは十歳の頃だった。

 それもとある人から言われるまで自分自身が特別記憶力がいいとは思っていなかった。


 しかし、とある人によりその異常性は明るみに出ることになった。

 ロキは、一度見聞きしたこと。体験し、感じた思い。その全てを忘れることができないのだ。

 それは、一度呼んだ本を一語一句漏れなく暗記できるほどに。

 それは、一瞬見せられた膨大な数の豆の数を瞬間的に把握できるほどに。


 ロキがこの倉庫内を男以上に把握できたのは、倉庫に落ちる最中に倉庫の全体像を見れたからというだけなのだ。


 もちろん倉庫の中は暗闇で全体像などわからない。そのための『火炎弾(ファイアーボール)』だ。あの『火炎弾(ファイヤーボール)』は男を仕留めるためのものではなく暗い倉庫を照らし隅々まで見るためだけに撃ったのだ。


 実は配電盤を目指して彷徨った男の記憶は正しかった。本当は壁の向こう側には目的の配電盤があったのだ。ではなぜあと一歩というところで壁に阻まれたのかというと。それは男の糸を察知し先回りしたロキが事前に『空気固定(エアリアルフィックス)』で壁を作っていただけだった。


 しかしあの暗闇の中ではただの空気の壁とは思わず、単に自分の記憶違いだと思っても仕方がない。普通はどんな人間であれ己の記憶に確固たる自信は持っていないのだから。


 ただし全体像を見れただけでどこにもぶつからず走り回り、相手の行く手に空気の壁を狙った通りに作れるわけがない。それを可能にしたのは異常な程の記憶力と共にそれを脳内で完璧に展開出来るだけの空間認識能力もあってこその芸当だった。


 ロキ自身、記憶力が自分の強みだとは微塵も思ってはいなかった。

 所詮記憶力がいいところで何の意味もない。それを有効に扱える応用力があってこそなのだ。

 魔法の基礎理論を文字でなぞったところで応用魔法が使えるわけではない。

 呪文や魔法陣を表層だけ理解しても、全く新しい魔法を一から構築できるわけがない。

 蓄積した知識を己が望むがままに組み替える知能。それがロキの武器だ。その証拠にロキは治癒魔法の言語化を始めとしてあらゆる魔法を言語化・理論化してきた。


 ヒカリは常軌を逸したこの頭脳を知ってこう言い表した。

 頭がおかしい、と――。


 男が暴れ続けていると、足元からまたしても淡い光が点灯し間もなく破裂音が鳴り響く。


「クソがぁ! あちこち仕掛けやがってウザってぇ!!!」


 そう悪態をついたが今度は全身に闘気を纏っていたため靴を吹き飛ばす程度で済んだ。それより気になったのは今回の破裂音はさっきと違って複数なったような気がしたのだ。


「よしよし。循環術式はきっちり作用してんな」


 一方のロキはその破裂音を聞いて安心していた。

 ロキが仕掛けたのは『炸裂(クラップ)』と呼ばれる基礎的な魔法の魔法陣だった。しかし『炸裂(クラップ)』の魔法陣に一つ手を加えていた。

 『炸裂(クラップ)』の魔法陣の中に同じ魔法が複数回発動するようなる術式を書き加えたものだ。

 ちなみにそれもロキが考案した術式だった。


 既に出来上がった魔法陣の中に別の術式を書き加えるのは、下手をすれば魔法そのものが発動しなくなる可能性を孕んでいる。

 それを実際運用できるか。ロキの言った実験というのはそういうことだった。


 男がロキを見つけるために荷物を薙ぎ倒しながら彷徨ううちにロキがそこかしこに仕掛けた『炸裂(クラップ)』が喝采のように鳴り響く。


 三連発。四連発。五連発。そして六連発――。


 いたる場所から破裂音が鳴り響く。その一つ一つの威力は高くはないが全くの無傷で済むというわけでもない。

 地味に男の体に傷をつけていく攻撃が、姿を見せずに癪に障る言動をやめないロキそのもののようで非常に苛立たしかった。


 当のロキ本人は鳴り響く音を聞き苦い顔をしていた。


「……やっぱ七発以降はうまくいかねぇな」


 実際にくらっている男にはわからなかったが、七発以上の『炸裂』は途中で不発が混ざったり、威力そのものが落ちたりと機能不全を起こしていることをロキは感じていた。

 おそらく循環術式は六回分が限界なのだろう。


「まあ、いいさ。次の実験だ」


 そんなことは意にも介さずロキは懐から新しい札を取り出した。


「ハァ……ハァ……! クソッタレッ! どこに居やがんだ!」


 男の方は感情のままに暴れ続けるもロキを見つけることはできず、大量の荷物とそこかしこに仕掛けられた罠に翻弄され息も絶え絶えだった。


 決定打にならなくとも、何度も何度も『炸裂(クラップ)』によりめくられた肉は脳に響くほどの痛みを訴えている。闘気で痛みをごまかすことも限界だった。

 そうして歩き回っているとまたしても足元から爆発が起こる。


「アアア! 一体いくつ仕掛けてんだ!」


 叫びながら流石に男は気づいた。

 今回の爆発は明らかに数が多かった。

 今までは四、五発程度だったが、先程の爆発はゆうに十発は超えていた。


「気づいたか? 今のは一つの魔法陣から発した魔法をもう一回使える『再動(リプレイ)』っつー術式を上から重ねたんだ」


 ロキはわざとに男に聞こえるように暗闇から説明を始めた。


「そっちかっ! 待ってろ、今すぐ殺してやる!」


 男はロキの説明など聞かずに周りに散らばる荷物をかき分けて声の発生源に向かう。


「『再動(リプレイ)』は魔法陣が発動した瞬間にもう一回魔素を取り込んで全く同じ魔法を発動できるように出来る。こいつは循環術式をそのまま魔法陣にしたようなもんだ。二つの魔法陣を重ねて使うことから俺は『積層魔法陣』って呼ぶことにした」


 ロキもロキで男の様子もお構いなしで説明を続けた。

 凄まじい音を出しながら男が向かってくるが、まるで焦る様子はない。

 それもそのはずだ。もう決着は見えているのだから。


 走り寄る男の足元でまたしても爆発が起こる。しかも今度の爆発は回数が桁違いだった。

 数秒に渡る爆発が男の足を取り走っていた勢いもあり思い切り転がった。


「がああああああああああ!」


 たまらず男は叫ぶ。連続した爆発は男の靴を、衣服を、肌を吹き飛ばした。暗闇でも自分の足がどんな状態かはわかる。もはや歩けるものでもないだろう。


「今のは同じ魔法陣を順番に発動できるように魔法陣自体を繋げた『連結魔法陣』だ。遊びのつもりで作ったんだが、こんなふうに役に立つとはな」


 ロキの説明は続く。もうロキは男のことなど頭にないのだろう。自分が作った術式の魔法を読み上げるだけの存在になっていた。


「くそっ! くそぉっ! コケにしやがって!」


 男の頭には足を吹き飛ばされた痛みよりもまるで自分がロキの掌で転がされているこの状況の方が我慢ならなかった。


 本当だったら自分が上に立っているはずだ。

 本当だったらロキなど赤子の手を捻るように簡単に抑圧できる存在のはずだ。


 それが今はどうだ。まるで箱に入れられた虫を無邪気な子供が突き回すように弄ばれている。

 こんな屈辱があるか。


「おいおい。そんなとこにいていいのか? そこはとっておきがあるところだぜ?」


 その声に反応して男はうつ伏せになりながら辺りを見回す。そこは暗闇があるだけだったが、やや間があって己の体の下から淡い燐光が灯る。


 また“あれ”が来る――。


 あの爆発が恐怖として頭に刷り込まれていた男は咄嗟にその場から逃げ出そうと思ったが、なぜか周りは壁に囲まれていた。

 もちろんその壁はロキが張った『空気固定(エアリアルフィックス)』の壁だ。しかし男には関係ない。


「やめろ、やめてくれ! もういい、俺の負けだ!」


 パニックを起こし、自尊心もかなぐり捨て命乞いを求めたが、もちろんロキにも関係なかった。


「さて、ここで簡単な算数の問題です。『再動(リプレイ)』の積層魔法陣で重ねた六連式『炸裂(クラップ)』。それと全く同じモンを連結魔法陣で六枚かけ合せました。さて何連発の『炸裂(クラップ)』になるでしょうか?」


 ロキはまるで幼い子に問いかける優しい教師のように話した。しかし四方を空気の壁に阻まれた男はもうロキの声など聞いていなかった。


 そして眼下に浮かび上がる燐光が膨れ上がる――。


「答えはテメェの体で確かめな」


 ロキが合図として指を鳴らす。広大な倉庫の中に百四十四回の拍手(クラップ)が鳴り響いた。



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