どんづまりの街 25 ―決意の一撃―
幻惑魔法ってのはな、元素魔法とは根本から違ぇんだ。
元素魔法は前言った通り、火と水と空気と土だ。
だが幻惑魔法はそのどれにも当てはまらねぇ。
幻惑魔法は相手、もしくは自分の“脳”に直接魔素をブチ込む魔法だからな。
昔、幻惑魔法は魂に繋がる魔法だとか言われてたが、今はそんなんどうだっていい。
いいか。幻惑魔法で一番大事なのはイメージ。想像力だ。
相手にどんなハッタリを見せるか、どんな妄想を植え付けるか。それは術者のイメージに大きく左右されんだ。
どうやってイメージするか?
そうだな……、イメージってのは普段の思考。あとはこれまでの経験、つまりは記憶でできてるんだ。要は常日頃から想像力を働かせること。それと、過去を見つめ直すってことだな。
……お前の過去を蒸し返すつもりはねぇ。
ただ、そいつとどう付き合っていくかはちゃんと考えとけよ。
*
エルナの頭に過去ロキから教わったことを思い出していた。
自分の記憶とどう付き合っていくか。
そんなことは今まで考えないようにしてきた。
ずっと囚われ続け、今もこうして過去の記憶によって窮地に立たされている。
しかし土壇場に立ってようやくエルナは自分の忌まわしい記憶に向き合った。
汚くて臭くてじめじめした己の過去。
こんなもの――いらない。
男に組み敷かれつつも渾身の力で振りほどいた右手をエルナは男に押し付けた。
――幻惑魔法を相手にかける時に重要なことは、『相手と感覚を共有する』ってことだ。それは視覚やら聴覚っつった五感のことだ。慣れた使い手なら、目を合わせたり肌で触れ合っただけで幻を見せることができんだ。
ロキの言葉がまたしても頭によぎる。その言葉をなぞる様にエルナは自分の肌と男の肌を合わせた。触覚を繋げた。
そして今度は思い出したくもない過去を記憶の奥底から引きずり出す。
何度見ても怖気が立つ。そんな記憶を、エルナは男に触れた手を介して全身全霊の魔素に乗せて男にまるごと押し付けた。
「ぎっ! ああああああああああ!!!」
凄まじい雄叫びのような声を上げ男はのけぞった。
硬い石畳の上を悶え転がり、頭を抱え、喉を潰すような音と共に嘔吐する。
当然だ。男にはエルナの記憶。特に、自分を穢された過去をまるごと押し付けられたのだから。
そうでなくとも男の脳に一変に大量の情報がなだれ込み、脳の過負荷で尋常じゃない激痛を伴っているところに、人一人が壊れてしまうほどの記憶を押し付けられたのだ。
ただ奪うだけだった存在が耐えられる訳がない。
大の大人が転げまわって苦しむ様を、エルナは弱々しく起き上がりながら見つめた。
そして男の惨めな様を見て、嗤った。
そうか、そんなに酷いかと。
叫んで転がって、そんなに苦しいか。私の記憶は。
自分の記憶が自分を抑圧し続けた男をこうまで変貌させたことがエルナには可笑しくて仕方がなかった。
「どう、あたしの記憶は? 最っ低な味でしょ?」
ロキが浮かべるよな皮肉たっぷりの笑顔をエルナなりに浮かべそう言った。言ってやった。
――やった、できた。
エルナは強気に男に吐き捨てては見たが、内心では上手くいったことの安堵でいっぱいだった。
忌まわしき過去。それを利用してやった。
果たしてこれが強くなるということなのかはわからないが、エルナ本人には崖から飛び降りるくらいの決心だった。
今でも怖くて仕方がない。しかしそれを上回る安堵の思いが去来していた。
ただ、恐怖かそれとも一度に大量の魔素を使ったせいか四肢にうまく力が入らず未だ立ち上がることもできなかった。
それでも全身の力を振り絞りエルナは前に進もうとした。
やっと踏み出した一歩から勢い付けるように、石畳を這うように進んだ。
しかし物事は全て思い通りに行くとは限らない。
悶え苦しんでいた男は荒い息をしながらも壁に手をつき体勢を立て直した。
「クソッ……! 舐めた真似しやがって!」
悪態を付きながらも男はまたも嘔吐する。吐瀉物と一緒に形容できないほどの嫌悪感が湧き上がる。
悍ましいモノを見せられた。
自分は身に覚えもない記憶。しかしまるで自分自身が体験したかのような生々しさ。
蛆虫が体中を這いずり回るかのような不快感だった。
エルナとは対称的に力強い足取りで男は近づき、横たわったエルナの腹を蹴り上げ転がした。
「うっ! げほっ!」
内蔵に強い衝撃が与えられ、うまく呼吸ができず下手くそな咳しか出なかった。
「胸糞悪いもの見せやがって! ああ、クソォ!」
エルナに見せられた記憶の後を引いて男は気を荒立てていた。
せっかく一撃かませたというのに、結局は男を刺激するだけだったのかとエルナは落胆する。
「もういい、犯す気も失せたぜこんなアバズレ! 今すぐ殺してやる! どのみちそうするつもりだったんだ!」
怒声を張り上げながら男はずんずんと歩み寄る。
もうダメだ。今度こそエルナはそう思った。もはや指一本動かせない。
口の中に広がる血の味を噛み締めながらエルナ眼を閉じた。
――ロキ……。ごめん……。
もう届くこともないのだろと思いながらエルナはロキの名を心の中で呟く。
今に自分の命を絶つ暴力が降り注ぐ。
そう思った後エルナに訪れたのは、真綿で包み込むような優しい包容だった。
「ごめんね、えるえる。一人にして……」
「……え?」
驚き目を開くとそこには小さな体でエルナを包み込むヒカリがいた。
「なんだ、このガキ?」
突然現れた幼い少女に苛立ちのこもった声と眼差しを男は惜しげもなく注いだ。
そんなことに臆さず、ヒカリは可愛らしい顔を怒りに歪めて見返した。
「そういや、この間見たガキだな。お前もロキの仲間だろ?なら……」
「来ないで」
男が話しながら足を踏み出すと、ヒカリはエルナが聴いたこともない重い声色でそう言い放った。
「おじさんがえるえるをイジメたんでしょ? なら来ないで」
男はこんな取るに足らない小さな存在など気にすることはないはずだ。
しかしヒカリの一言で男は簡単に足を止めてしまった。
「えるえるをイジメる奴なんて、大っ嫌い」
男は愕然とした。
今ヒカリが言ったことなど本来はそよ風と同程度の些事だ。
しかし「大嫌い」。その一言が耳に入った瞬間、男は頭を殴られたような衝撃に駆られた。
これは、この感情は知っている。幼い頃親に見放されたとき。同い年の子供に白い目で見られた時と全く同じ感情。
拒絶され、疎外感を感じた。吐き気を催す感情。
――なんだ? 意味わからねぇ。俺はどうして、こんなガキの言葉に、傷ついた……?
想像だに出来ない感情を理解した途端、視界がぐらついた。喪失感のような絶望感のようなものの影響だろうか。
だから気がつかなかった。
男の目の前に拳を振り上げたギムレットがいた事に寸前まで気がつかなかった。
もはや反応できるタイミングを逸し、ギムレットの大きな拳を男は顔面に喰らい吹っ飛び、路地の端に積まれていた木箱に派手に突っ込む。
吹き飛んだ男のことは目もくれずギムレットはヒカリに抱かれるエルナに声を掛けた。
「おい嬢ちゃん、大丈夫か?」
「ギムレットさん……? どうしてここに?」
「それはこっちのセリフだぜ。医者の先生のアパートで寝てるもんだと思ってたらよ」
「何を暢気に喋ってんだ、ゴミクズ共ォ!」
エルナの安否を気にするギムレットの後方からこれまで以上の怒声が響いた。
頬を腫らし、口から夥しい血を流しながらも男は怨嗟の眼差しをギムレットに浴びせる。
ギムレットは声にも反応せず振り向こうともしなかった。
「次から次へと何なんだテメェらはっ!? 野良犬みたいに大人しくしてりゃいいんだ! 余計な手を煩わせんじゃねぇよ!」
思い通りにいかないことに憤慨し男は口から血の雫を吹きながら喚き散らす。
それでも、ギムレットは微動だにしなかった。
「そこの木偶の坊だよッ! お前に言ってるんだ! いきなりしゃしゃり出てくんじゃねぇよ!」
何の反応も示さないギムレットに苛立ちを募らせた男はギムレットに指差し叫んだ。
そこでようやくギムレットは反応を示した。しかし随分と面倒くさそうにため息をつきぼりぼりと頭を掻いた。
「うるせぇなぁ。んな叫ばなくたって聞こえてんだよ」
「舐めた口きいてんじゃねぞ! テメェらみたいな存在はな、俺らの食糧だ! 家畜なんだよ! 俺らに飼われてるってこと忘れていきがんなっつってんだ!」
「うるせぇって言ってんだろ」
ギムレットはようやく男の方へ振り向いた。その表情は侮蔑すら感じる怒気を放っていた。
「次から次へとはこっちの台詞だ。こっちの気も知らねぇで色んなことが起き過ぎなんだよ」
苛立ちをふんだんに含んだ声でギムレットは男へと歩み寄る。
「この数日で色んなことが起き過ぎなんだよ。もうついて行けねぇ」
目を爛々と血走らせる男の目の前まで近づき、お互い手の届く間合いまで来た。
「もう知るか。シナロア? 暴徒? 麻薬? んなもんどうだっていい。俺は俺の気に入らねぇもん全部ぶん殴る。いちいち驚くのも疲れんだよ」
ギムレットはこれまでの状況の変化についていくことが煩わしくて仕方がなかった。
この街のことも。ロキの異才さも。ギルバートの驚異も。
そもそもギムレットはこんな性格ではないのだ。
自分よりブッ飛んだ奴らを見て驚くのも、やかましい連中をやれやれと宥めるのも、もう我慢の限界だ。
「だから……、舐めた口きくんじゃねぇよ!」
男は訳のわからないことを言い続けるギムレットに全力の拳を放った。
男はホーキンスの側近であり、この街のシナロアの暴力の象徴だった。
もともと戦闘に関しては素人どころではない住民たちが束になってもこと男には太刀打ちできなかった。
それがわかるから住民たちは誰も手を出さない。
男もそれは理解していた。
己がこの街で最強だということは自負していた。
しかし――。
「何だぁ、そりゃ? パンチのつもりか? いいか、パンチってのは、こう打つんだよ」
しかし、世界四大国のブリティア王国王宮騎士団のギムレットにとっては、井の中の蛙でしかなかった。
ギムレットの拳が男の顔面にまたもめり込む。
今度は見えていた。
ギムレットの放つ拳が。自分に襲いかかる猛威が。
見えていても反応はできなかった。
極限まで研ぎ澄まされた感覚はギムレットの拳を捉えたが、体がついて来てはくれなかった。
自分の顔面に押し込まれる純然たる力。
拳を振り抜くよりも先に、男の意識は暗闇に没した。
ずがんと人を殴ったとは思えない音が路地に響き、殴られた男は叩きつけられるように地面に倒れ伏す。既に意識は無く、白眼を剥き冷たい石畳に横たわった。
たったの一撃。それで終わった。掃き溜めの街を統べる暴力は伝統と正義で鍛えた力に敵うわけもなかった。
倒れた男を一瞥し、それからは何事もなかったように振り返りギムレットはヒカリとエルナの元に戻っていった。
「もう大丈夫だ。とにかく先生んとこ行くぞ、ヒカリ」
見た目は大したことはなさそうだったが、未だに顔が血だらけのエルナがいたたまれずそう促した。
しかし呼ばれれた当のヒカリはギムレットの言葉に反応することはなかった。
「おい、ヒカリ。どうした?」
「ヒカリちゃん?」
「……ね。ごめんね」
心配そうに声をかける二人をよそにヒカリは弱々しく言葉を漏らす。
「ごめんね。一人にしてごめんね。怖かったよね。痛かったよね。一人ぼっちは辛いのに、一人にしてごめんね……」
ヒカリは懺悔のようにずっと謝っていた。
エルナの頭を抱きしめ、強く閉じられたまぶたからぽろぽろと涙を流し続けた。
謝る必要などない。この怪我はエルナが勝手に部屋を飛び出して自分の弱さゆえに負ったものなのだ。
それなのに、ヒカリは謝り続けた。
「やだ、謝らないで……。私が悪いの。ヒカリちゃんは謝らないで……」
口ではそう言ってもエルナの眼からは偽ることができないものが流れた。
怖かった。痛かった。
でもそれ以上に、自分が傷ついて心配してくれる人がいてくれたことが嬉しかった。
二人はお互いに何度も何度も謝りながら、さめざめと泣き続けた。
遠くからは白々しく思える程の喜びの声が響いていた。




