どんづまりの街 16 ―人の愛し方―
「――というのが事の真相というやつだ」
話を終えたホァンはとうに燃え尽きた煙草を灰皿にねじ込み、新しく火をつけた。
ホァンの話す言葉は、非常に淡々としていて内容の凄惨さとはそぐわないものだった。しかしそれでもギルバートとギムレットから言葉を奪うのには充分だった。
「シナロアから身請けしたことになったエルナをロキはこともあろうか俺に押し付けてな。雑用でもなんでもいいからエルナに仕事を与えろとな。そこまでする義理はなかったんだが、ちょうど人手が欲しかったんでな。それにエルナは意外と器用で使えるから置いておいたんだ」
ホァンは付け加えるようにそう言った後にギルバートが丁寧な語調で尋ねる。
「ロキの依頼のことをエルナさんは?」
「言っておらん。言う必要もないとロキは言っていた。俺もそう思う。単にエルナは身請けの代金をシナロアに借金をして払っていると思っている、はずだ」
はず。ということはエルナはもしかしたら薄々気付いているのかもしれない。そう言った意味が汲み取れた。
しかし、おそらくはそれをエルナは言及してはいないのであろう。
ロキが隠しているように、エルナも聞く必要が無いと判断したのだろう。
「しかしなぁ。ただの運送業だと思ってたが、シナロアがそんなマフィアみてぇな事してとはな」
ギムレットの戸惑い交じりのその言葉にホァンは呆れるように応えた。
「何も珍しいことはない。シナロアはあくまで己の利益のための土台を整えただけに過ぎん。特にこの街のように外界から途絶された陸の孤島のような街には物流は生命線だ。シナロアのようなところがここを放っておく訳がない」
「つまり貴方がおっしゃったロキがこの街に喧嘩を売ったというのは、シナロアが管理する娼館をいくつも殴り込みをかけたということですか?」
ギルバートの確認の言葉に煙を吐きながら「そうだ」と答えた。
「さっきも言ったが生命線と同義のシナロアに敵対することはこの街では死活問題になる。当時この街に来たばかりのロキはそんなこと知りもしなかっただろうが、たった一人の女のために奴はそれをやらかした」
話を聞き終わったギムレットは頭を抱えるように掻きむしった。
理屈は理解できる。
話を聞けばロキが行ったことは間違いなく善行であるし、エルナも知り合った今では感情移入もできる。
しかしそれはあくまで背景を全て知った今だからこそ思えることだ。
果たして、自分はどうだろうか。
初めて出会った見ず知らずの人間を、助けを求められただけで手を差し伸べられるだろうか。
見ず知らずの人間のために、街そのものと言える存在に立ち向かえるだろうか。
そこまで強く、危うくなれるだろうか。
*
エルナが休む部屋の一室。話しを終えたエルナをシルヴィアとヒカリと共に静寂が取り囲んでいた。
「ロキは私のために名前をくれただじゃなくて、シナロアから私を買ってくれたんです。それからは、私はホァン先生のところでお手伝いをさせてもらってました。時々ロキに文字の読み書きや魔法を教わりながら……」
「そう、ですか……」
エルナの言葉にシルヴィアは恐る恐る答えることしかできなかった。
エルナの語った過去は、想像通りだった。
想像通り、最悪だった。
まるで物語の一節のように在り来りだったエルナの過去。しかしそれをいざ現実の話に置き換えるとなると、これほど辛いことはなかった。
エルナの話す過去はまるで刃がぼろぼろの包丁を突き立てられ、ぶちぶちと音を立てて肉の内に入り込む様な嫌悪感だった。
話を聞いているだけでそうなのだから、体験した本人の痛みは計り知れない。事実、話しているエルナは終始小刻みに震え、時折心を落ち着けるように深呼吸をしていた。
余程辛かったに違いない。もはや辛いという言葉自体安っぽく感じてしまうほどだった。
そんな様子を見たエルナはシルヴィアに力なく笑いかけた。
「そんな辛そうにしないでください。確かに私の過去は聞くに堪えないと思いますが、ロキのおかげで本当に救われたんです。彼のおかげで私は人間みたいに暮らせてるんですから」
エルナはシルヴィアを気遣うようにそう言ったが、シルヴィアは逆に胸を締め付けられるようだった。
人間みたいに暮らせている。
その言葉がエルナの心情の全てを表していた。
彼女は、未だ自分を人間だと思えていないのだ。
エルナの気遣いに何も返せずにいたシルヴィアに代わり、ずっとエルナに抱えられていたヒカリがエルナを見上げた。
「えるえるが怖いのは、ロキ坊がいなくなっちゃうことなんだね」
ヒカリの言葉につられるようにシルヴィアは顔を上げエルナを見つめた。
「……うん。私はロキに救ってもらった。ううん、違う。ロキに生き返らせてもらった。もう一度人間みたいに生きられるようにしてもらったの。私の全てはロキにもらった。なのに、これじゃダメだってわかってるのにロキがいなくなるのが怖いの……。私一人じゃまたあの地獄に戻ってしまうようで怖くて仕方がないの……」
エルナはそう言ってヒカリを抱きしめた。ぎゅっと閉じた目蓋は涙をこぼさない為に閉じられているようだった。
「エルナさんは、ロキさんのことが好きなんですね」
シルヴィアは思ったことをシンプルにそう言い表した。エルナの縋るようなその思いはそうとしか言えなかった。
しかし、エルナはシルヴィアのその言葉に直様頭を降った。
「違います。もちろん嫌いとかそういうんじゃないんです。でも、私はロキに救ってもらった。あの地獄から引っ張り出してもらった。ロキには返しきれないほどの恩があるんです。それを、好きとか、愛とか恋とかそんな安っぽい言葉で済ませたくないんです」
エルナははっきりと、そして力強い言葉でそう言った。
シルヴィアにはまるで自分にそう言い聞かせてるように聞こえたが、それを口にするより先にヒカリが口を開く。
「愛とか恋って、そんなに安っぽいかな……?」
まるで拗ねるように言ったヒカリに、エルナは先程とは打って変わって力なく首を振る。
「本当は、それもよくわからない……。だって、私はそれをもらった記憶がないんだもの……」
エルナは“それ”と言った。まさしく、安っぽくて取るに足らないものの言い方だった。
まるでそれが生きていく上で何の必要性もないもののような言い方だった。もちろんそれが重要というわけではない。しかしそれがあるからこそ人は他人に優しくできるし、それがあるからこそ自分も大切にすることができる。
シルヴィアが感じていた、エルナに欠けているものはそれだった。
他人から愛を受け取ったことがないから、自分が大した存在ではないと思い込んでしまう。
それは自虐を超えた自己否定の精神でもあった。
そう思わないと自分を保てなかったがゆえの真逆の解決法。
「でもいいんです。この街の中でも私はかなりラッキーな方なんです。私みたいな、私より酷い過去を持っている人なんていっぱいいます。だから私はこれでいいんです。これ以上を望んじゃダメなんです」
エルナはまたしても自分を貶める。そうすることで自分を守る。周りから傷つけられる前に自分で傷つける。
「でも、そうだとしても、ロキがいなくなるのがどうしても怖いんです。これ以上頼りっぱなしじゃいけないのに。縋ってばかりじゃいけないのに、一人になるとどうしても怖くて立てなくなっちゃうんです。そんな私が醜くて、嫌になるんです……」
徹底的に自分を傷つけるエルナは顔を隠すようにヒカリを抱えた。
愛を知らない少女は自分の愛し方も知らず、不器用なやり方でしか自分を守れない。
それなら――。
「そんな風に自分を傷つけないでください」
優しく語りかけたシルヴィアにエルナは驚いた風に顔を上げた。そして間を置かずにエルナはシルヴィアに優しく抱き寄せられた。
「そんなに、自分を貶めるのはやめてください。確かに辛い過去を送ったのは貴女だけじゃないのかもしれません。でもそんなのは関係ありません。貴女が、辛い思いをしたんです。その気持ちを蔑ろにしないでください。辛いなら辛いと言っていいんです。私たちを気遣う前に、貴女自身を気遣ってください。大丈夫、貴女は救われていいんです。貴女は、間違いなく私と同じ心を持った人間です」
シルヴィアは遠い記憶を思い出していた。
今は亡き故郷、愛すべき家族にそうしてもらったように、シルヴィアはエルナを包み込んだ。
エルナは愛を知らない。それならば今から教えればいい。今から与えればいい。
それくらいなら、今の自分でも出来るはずだ。
「……はい、はい。辛いです。辛かったです。もうあんな生活に戻りたくないんです……」
エルナはシルヴィアに抱きしめられたまま堰を切ったように言葉を吐き出す。
「私だって、普通の人みたいに生きたい。普通に笑って、泣いて、怒りたい……」
「うん。いいんだよ。そんなのみんな出来て当たり前なんだよ?」
エルナの言葉にヒカリも優しく応える。
「もっと美味しい料理を作りたい。作った料理を食べてもらいたい。普通の女の子みたいに可愛い服だって、本当は着たいんです……」
「ええ、きっとエルナさんならいろんな服が似合いますよ」
抱き寄せたエルナの頭をシルヴィアはそっと撫でた。
幼い頃、シルヴィアが母にそうしてもらったように。
そうしているうちに、エルナは声を上げて泣いた。
先程とは違い、幼い子供が泣くように。はぐれてしまいようやく母親に出会って安心して泣いてしまったように。
ようやく、エルナは心まで人間に戻れた。
これまで泣くはずだった分まで涙を流した。
泣き続けるエルナを、シルヴィアは優しく抱きしめた。
シルヴィアはそこでようやく理解した。
人を救っていくのは、こういうことの積み重ねなのだと。




