どんづまりの街 15 ―名前の意味―
ロキが少女を診察台に乗せてからは治療は滞りなく進んだ。
そもそも体中に点在する擦り傷は見た目ほど深くなく、ホァンの的確な処置によりあっと言う間に手当は終わった。
しかし問題はそれだけではなかった。
しばらくしてから、少女は突然叫び声を上げて狭い診察台の上をのたうちまわった。
この世の終わりに直面したような鬼気迫る表情で暴れまわる。
鎮静剤を打っても落ち着く間もなく今度は激しい嘔吐などの異常な程の反応を示した。
そのほか少女の様子を診てホァンは少女が薬物の中毒症状が出ていると即座に判断した。
しかしそれがわかったところでできることはかなり限られる。
とりあえず水を飲ませそして吐かせるといったことを行い胃を洗い流し、体の中の薬物を薄めることでしか応急処置はできない。
さらに少女はかなり薬物に犯されているらしく、強い幻覚・幻聴により、喉から血を吐きながら叫び続けた。
ロキはそんな少女をベッドに抑え続ける日々だった。
しかし少女は冗談ではなくまさに命を脅かされている幻を見ているため全身全霊で抵抗した。
その証を刻むようにロキの腕や首には少女の爪や歯で生々しい傷跡が絶えず残った。
そんな不毛と思える日々が数日続き、少女とロキがやっと会話ができるようになるまで、二週間程が経過していた。
しかしそれで事態が好転することはなかった。
少女はほとんど廃人同然で、こちらの呼びかけにうわごとのように応えるだけだった。
そして一番深刻だったのは、
「ここは、どこですか?」
「病院だ。なんとなくわかるだろ?」
「びょういん? なんで病院に?」
「なんでって怪我してたからだろ」
「けが……?」
「……。おい、お前なんで怪我したのか覚えてるか?」
「わからない……」
「お前……、名前は?」
「……わからない」
深刻だったのは、少女は記憶が抜け落ちていたことだった。
「おそらく、薬物による記憶の混濁だろう。あの様子じゃあかなり薬物を摂取していただろうからな」
少女の容態を報告するとホァンはそう言った。
薬物は脳にかなり悪影響を及ぼす。ホァンはむしろ話せるだけでもマシだと言った。
「しかしまあ、忘れたなら忘れたで都合がいいんじゃないか?」
「どういう意味だ?」
「薬物に溺れる奴なんてのは、ろくな人生歩んじゃおらん。これまでの暴れ方からもそれは大体想像できる。それならこのまま忘れたままの方が幸せってもんだ」
「そういうもんかね?」
「だが、それも一時的なものだろう。いずれ段階的に記憶は思い出されるはずだ」
ホァンがそう言う通り、少女の記憶は壊れた水道から水がじわりじわりと漏れ出すように思い出されていった。
その度に少女はパニック状態となりロキやホァンを相手に癇癪を撒き散らした。
しかし、どんなに凄惨な記憶が思い出されようと、少女は自分自身の名前を思い出すことはなかった。
「もしかしたら、そもそも私に名前なんてなかったかもしれませんね……」
少女は力なくそう言った。自虐ともとれるその言葉は、もはや他人事のようだった。
「名前って人だったら皆ついてますよね? でも私は人でも、耳長族ですらないから、名前なんて付けてもらえるわけないですよね」
少女はまるで自分に言い聞かせるようにそう言い続けた。
事実、それは少女が自分に対して戒める言葉だったのかもしれない。
自分がこんな目に会うのは人間ではないから。
人間ではないから、自分は救われないのだと。
「やっぱり亜人は亜人なんですね……」
ロキは、少女のその言葉が気に入らなかった。
「おい、エルナ。いい加減ベッドにへばりついてないで少しは立って歩け。ちったあ体動かさねぇと立つことも出来なくなるぞ」
ある日突然、ロキは少女を『エルナ』とそう呼んだ。
少女はその言葉に反応し、目を剥いてロキを見つめた。
「なんだよ、エルナ。んな泡食った面しやがって」
また呼んだ。
少女は記憶の水たまりからそれを掬い上げるように口に出した。
「『泉の妖精と真面目な青年』……?」
「お? なんだよ、知ってたのか。流石有名なだけあるな、あの絵本」
少女のかすかな記憶の中でも、それは優しい光に包まれた思い出だった。
ボロボロになった絵本。それを何度も何度もめくる記憶。
なぜその絵本が少女の手元にあったのかはわからない。
もしかしたら母親が少女に愛を忘れる前に買い与えたものなのかもしれないし、はたまた母親がそのまた母親に買ってもらったものなのか、それを知るすべはもう無い。
「名前が無ぇのは不便だろ。とりあえずそう名乗っとけ、エルナ」
「なんで、エルナ?」
「別に、なんとなく。有名だし覚えられやすいだろ? 俺、あんまあの絵本好きじゃねぇけど」
確かに、エルナという名は少女の中になんのしこりもなく馴染んでいった。まるでもともとそう呼ばれていたかのような感覚さえした。
しかし少女はどうしても、自分に名前があるということに違和感を感じてしまう。
どうしても名前は人間のものだという認識が拭えなかった。
「いいじゃねか。エルナ。人間になりたい妖精。お前にぴったりじゃねぇか」
ロキのその言葉を聞き少女は初めて理解した。自分が人間になりたがっていたということ。
そして、こんなにも汚れている自分を妖精と言い表せてくれた事が、とても嬉しかった。
「エルナ……」
少女はその言葉を噛み締めるように呟く。そして大事に大事に抱えるように自分に染み込ませた。
そうして、少女はエルナになった。
ロキによって少女は人間になることができた。
*
エルナが徐々に心身を回復していくにつれ、ロキは別の問題について考えるようになった。
それはエルナがああなってしまったことの原因だ。
「なあ、ホァン先生よ。この街でクスリ売ってる場所ってわかるか?」
「……なんのつもりかはわからんが、お前がやろうとしていることは無意味だ。この街はクスリを売ってる場所というものは無い。そこら辺のゴロツキが小遣い稼ぎのように薬物を売ってるんだ。エルナに薬物を売った人間を特定することなど出来ん」
「そうか、じゃあもうひとつ聞きたいことがある」
「なんだ」
「この街にある娼館の場所。全て教えてくれ」
ロキが行ったのは非常に非効率的な方法だった。
手当たり次第、ホァンから聞き出した娼館に入り、エルナの容貌と同じ娼婦を買っていたかということを聞き出すだけだった。
さらにそれはとても穏便なやり方とは言えない。
娼館は本来男性客が性的快楽を求める店であり、ロキのやっていることはただの営業妨害と言える。
娼館にはそれぞれ厄介な客を追い出すため、そして店に逆らおうとする娼婦を押さえ込めるための抑止力というものは存在する。
娼館は訳のわからない要求をしてきたロキを丁重に追い返そうとしたが、頭に血が上ったロキには何の意味もなさなかった。
向かってくる抑止力を羽虫を払うように薙ぎ払い、娼館の責任者に問い、違うのであればあっと言う間に娼館をあとにする。
そんな気が遠くなりそうな作業を、ロキはエルナの面倒をみる傍らで続けていた。
それは単純な八つ当たりだった。
言葉に出来ない。いや、言葉にすることすら嫌悪するような感情のはけ口をそれに当てているだけだった。
正直、エルナの居た娼館を見つけるのは二の次だった。
とにかく、この感情をぶつける先が欲しかった。
そしてロキの熱心な八つ当たりの成果か、目的の場所はあっさりと見つかった。
「……ウチの娼館に面倒な客が荒らしまわってると聞いたが、思った以上に面倒な客だね」
ロキが目的の娼館を見つけ出し、その娼館の責任者にこれまで溜めに溜めた鬱憤を精算しているところに、場違いな高いスーツを着た男が他人事のような口ぶりで乱入してきた。
「テメェ、誰だ?」
「それはこっちの台詞なんだけどな。僕の娼館で何やってるの?」
「そうか、テメェが客やテメェの店の娼婦クスリ漬けにするクソ野郎か……」
「クスリ……? 何のこと?」
「とぼけんじゃなぇよ。こいつらベラベラ吐いたぜ。娼婦に客から盗ったクスリ飲ませて仕事強要させてたんだろ?」
ロキの声に体をびくりと震わせた娼館の責任者はまるで肉食獣に睨まれた草食動物のようになった。
しかし、その目線の先にいたのはロキではなくスーツの男だった。
その男は責任者に向かって恐ろしい程無感情な瞳を向けただけだった。
興味をなくしたように男は目線を責任者からロキに逸らした。
冷徹なほど感情のないその顔は何を考えているかわからない。
男はロキに向かって、笑いかけた。
「そうかい、じゃあ君は僕の手伝いをしてくれてたんだね」
「……あ?」
想像すらしていなかったロキは苛立ちを込めるように声を出した。
「いやね、最近ウチの娼婦がやたらと薬漬けになるのが増えててさ。正直困ってたんだよ。別にね、代わりはいるんだよ。でも薬代欲しさに、たまに店の売上に手をつけるような娼婦とか、娼館の外で仕事する娼婦も出てきてる。勘弁して欲しいんだよ、娼館も慈善事業じゃないんだから」
耳障りだった。
「けれどその薬がどこから流れてくるのかなかなか解らなかったんだ。僕も本業があってあんまり力入れられないし。あ、僕、実はシナロアの重役なんだけどね」
この男の発する言葉はまるで、薄っぺらくて、場違いで。
「まさか、責任者が薬に手を付けてたとはね。これは申し訳なかった!なんとお詫びしたらいいか……」
まるで、全てを見下しているような口ぶりだった。
一瞬で理解できた。
この男は、信用できない。
「うるせぇ!」
ロキは怒号とともに近くにあった椅子を蹴飛ばした。
その椅子は男のすぐ近くの壁に当たり派手に壊れたが、男は身じろき一つしなかった。
「それ以上その軽口叩くんじゃねぇよ。別に俺は見返りも詫びも欲しいわけじゃねぇ。ただこの娼館にいた娼婦の一人を自由にしろ。そいつはな、このカス共のせいで地獄見てんだよ」
「……娼婦を解雇しろってこと? 話を聞く限りその娼婦は薬漬けにされたのかな? なんで君がわざわざそんなこと言いに来たのかな?」
「決まってんだろ。そいつは今ここに来られる状況じゃねぇんだよ」
「まぁそれはどうでもいいけど。僕が聞きたいのはなんで君がここまでするのかってこと。そんなにその娼婦が気に入った?」
「助けてって言われた」
「はい?」
「助けって言われたんだ。だったら問題の根っこから解決しねぇと意味ねぇだろ」
「そりゃそうだけど。助けてって言われたから助けるって、そんなくだらない理由だったんだ」
男が笑いながら、嘲笑するようにそう言う。
しかしロキは、そんな男の言動を受け流し、男と同じように笑った。
「確かにな、くだらねぇ。そんな偽善者みたいなこと好き好んでやるわけねぇだろ」
男は先程ロキ自身が言っていたことと真逆とも言える言葉に眉を顰めた。
「ただな、俺は昔にある人に誰かに助けてと言われたら有無を言わずに助けてやれって言われてんだ。この先その人に堂々と会うためには約束一つ破るわけにはいかねぇ。それじゃあ、胸張って会うことができねぇんだよ」
ロキは当たり前のことのようにそう言った。
朝起きたら顔を洗うことのように。
腹が減ったら食事をするように。
眠くなったら眠るように。
そんなロキを見て男は諦めるように目を伏せため息を吐いた。
「充分偽善者じゃないか」
「うるせぇよ。で、どうするんだ?こっちの要望聞かないってんなら、このままこの娼館も潰してやるぜ? そうすれば結果的に戻る場所もなくなるんだからな」
「やめてくれ、やめてくれ。これ以上の損失はホント勘弁だ。いいよ、持って行きたければ持っていって。どうせ薬漬けになった娼婦なんて使い物にならないだろうし」
ロキは男の言い方が気に入らなかったが、これ以上この男と喋る気にもならずそのまま娼館を出ようとした。
「けど、こっちとしてもウチの商品をホイホイ持っていかれるのもオーナーとして面目がたたない。どうだろう、ここは交換条件というのは」
「交換条件?」
「そう。さっきも言ったけど、これ以上薬が出回るのは僕としては本当に迷惑だ。ということで君に薬の出回ってるルート、そして出処を割り出して欲しい。その前金として娼婦は君に身売りしたということにしよう」
男は舞台上で役者が弁舌を並べるようにそう言った。
嬉々として、そして皮肉をたっぷり込めて男はロキを見た。
「どうだい? 君だってこれ以上薬が蔓延してるところを見逃すのは、例の約束の人を裏切ることになるんじゃない?」
男がその人のことを口にすることは耐えられないほどの怒りに駆られたが、言われていることはその通りだった。
さらにこの話に乗れば、エルナは自由になるのだ。
断る理由はなかった。
「わかった。その条件のんでやる」
ロキの返答を聞き、男は満面の笑みを浮かべ手を差し伸べた。
「良かった。僕はアルベルト・ホーキンス。君とは是非仲良くしてきたいね」
ホーキンスと名乗った男の伸ばした手を見つめロキは口の端を引きつらせた。
そしてロキはホーキンスの手を、手の甲で弾いた。
「まっぴらゴメンだ。クソ野郎」




