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どんづまりの街 11 ―踏み出す一歩―



 エルナの様子を見に行こうとシルヴィアはヒカリと共にホァンに言われた部屋へと向かう。

 その部屋に入ってすぐは何もない部屋だった。部屋を間違えたかと思ったが、よく見ると奥にもう一つ扉があった。

 おそらくそこが寝室だろうとシルヴィアは部屋に足を踏み入れた。


 ドアノブに手をかけ、いざ部屋に入ろうとしたとき、シルヴィアの脳裏に昼間のあの場面が思い出される。


 あの狭い路地で、エルナが人が変わったように絶叫をあげるあの姿を。

 必死でそれを頭から振り払い、シルヴィアはドアノブを回す。


 暗い室内。シルヴィアが部屋に入ると既にエルナは起きていた。

 上体を起こしベッドの上で放心しているようだった。


「エルナ、さん……?」


 その言葉に返事は返ってこなかった。

 ゆっくりと声に反応するように顔だけが扉に向けられる。


 しかしシルヴィアを認識していないのか、表情は虚ろなままだった。

 瞳は色を完全に失い、ガラス玉のように光を反射するだけだった。


 とても昼間の少女と同一人物とは思えなかった。

 昼間の時の彼女はこちらを気遣っていたのもあったのだろうが、とてもはつらつとしていて芯の通ったような佇まいだった。


 しかし今の彼女にその面影はない。

 その変わりざまにシルヴィアはつい息を呑む。


 意を決して一歩、部屋へと足を伸ばす。

 するとようやくエルナの目に魂が入り込むように焦点が合ってくる。


 ただそれは、混じりけのない怯えだった。


「ひっ……!」


 みるみるうちに恐怖の色に染められた表情がエルナの顔に広がる。


 シルヴィアは咄嗟に強くエルナを見返してしまった。

 ここで自分まで引いてはいけない。彼女を真っ向から受け止めなければというシルヴィアが本来持つ責任感からくる行動だったが、半恐慌状態に陥っていたエルナには逆効果だった。


「大丈夫で……」

「いやあああああーーーーーーーーー!」


 シルヴィアが声をかけたことを合図に耳を(つんざ)くような悲鳴が響いた。


 髪を振り乱し、腕を意味なく振り回した。


「やだっ! やだあ! こないで! もうやなの! でたくない!」


 まるで幼い子供がただをこねるように。いやそれ以上に切実な声でエルナは叫ぶ。


「もういや! いやいやいや! 何であたしがこんな目に会うの? やだよ! お母さんどこ? 助けて! 助けてよぉ!」


 命乞いのような叫びに合わせ無我夢中で掴んだ枕をエルナはシルヴィアへと投げた。

 シルヴィアはその枕を受け止めることができず、枕はシルヴィアの胸に力なくぶつかりそのまま落下した。


 枕が当たったこと自体は大したことはない。しかしシルヴィアはまるで大槌で殴られたかのような衝撃を受けた。正直、立っているのがやっとだった。


 一人の人間がこうまでして取り乱す様子を直視し、受け止めるので精一杯だった。


――どうして? 昼間はあんなに元気だったのに。彼女は一体、何を見てきたの? 何を経験したらこんなふうになってしまうの?


 胃の奥からせり上がってくる嘔吐感を必死に飲み込む。

 嗚咽が漏れそうな口を必死に手で抑える。


 いつの間にか涙を流していた。

 逃げ出したい。

 初めてパニックを起こした人間を目の当たりにしシルヴィアは心の許容量を超えその場で佇んでしまった。


 なんということか。『黒い逆十字』を殲滅する? 世界を救う?


 自分はそんなことを宣っておきながら目の前の助けを求める少女にすら手を差し伸べられないのか。

 シルヴィアは自責の念で押しつぶされそうになったその時、足元を小さな存在が通り抜ける。


「えるえる!」


 そう叫んだ存在はベッドの上で暴れまわるエルナの頭を抱えるように抱きしめた。


「ヒカリ、ちゃん?」


 囁くようなシルヴィアの声が部屋に広がった時、既にそこには静寂だけが残っていた。


「えるえる、大丈夫だよ? ここにはえるえるをいじめる奴なんて一人もいないよ?」


 ヒカリに抱きかかえられそうなだめられたエルナは次第に落ち着きを取り戻し、呼吸も安定していった。


「うぅ……。ぁああああ」


 いつの間にか力の無い泣き声がエルナの口から漏れ出した。


「うん、うん。いっぱい泣いとこ?」


 ヒカリはそう言いながらエルナの頭を優しく撫でた。


――まただ……。


 シルヴィアはまるで母親が幼子にそうするようにエルナを慰めるヒカリを見てあることを思い出した。


 初めてシルヴィアとヒカリが出会った街ブライストンでヒカリがシルヴィアに向けた、まるで聖母のように相手を慈しむような振る舞いを。


 それは、とても年端もいかない少女が持つとは思えない包容力だった。


 何故ヒカリがそうなのかはわからない。

 しかし、今はどうでもいい。

 シルヴィアは先程踏み込めなかった一歩を踏み出した。


     *


「いろいろとご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」

「いえ、こちらのことは気にしないでください。それよりもご自身のことを大切にしてください」


 シルヴィアはそう言いながらエルナにコップに入った水を差し出した。それを受け取ったエルナは喉が渇いていたのか一気に飲み干した。


 ヒカリの力もあってようやく落ち着いたエルナはなんとか平常の精神状態へと戻った。

 しかしそれでもかなり衰弱した様子で受け答えの言葉に力はなかった。それでもエルナは気力を振り絞りシルヴィアへと向き合っていた。


 ヒカリは、エルナが落ち着いたあとは、逆にエルナに抱えられて体を預けるように寄り添っていた。しかしヒカリは常に心配そうにエルナを見上げていた。


「本当にありがとうございます。昨日今日会った私なんかのためにここまでしてくれて」


 エルナは終始こちらに気を使うようなことばかり口にしていた。シルヴィアはそれが逆に申し訳なくて仕方なかった。


 本来なら辛いのはエルナなのだ。

 理由はわからないが、昼間のエルナのあの取り乱し方は尋常ではなかった。

 ロキが言ったように精神的なものが原因なのだろうが、まるで人が変わったかのような変貌ぶりにその時のエルナは驚愕した。


 きっと、シルヴィアの想像を絶するような過去があるのだろう。

 それなのにエルナは、こんな時なのに自分より相手のことばかり気にしている。


 ふと、コップを持つエルナの手を見ると小刻みに震えている。こうして話をするのも辛いはずなのだ。

 必死に自分を殺して、他者に尽くそうとしている。

 そんな様子を見て、シルヴィアは心に引っかき傷をつけられているような気持ちになった。


「ねぇ、えるえる。えるえるは何が怖いの? 昼間会ったあのスーツのおじさん?」


 突然ヒカリは脈絡なくそう聞いた。それと同時にエルナの顔が急激に強ばった。


「ヒカリちゃん!」


 シルヴィアはいつもはヒカリにはやや甘い対応だったが、今回は流石に看過できずに声を張り上げてしまった。


 正直エルナがここまでになってしまう過去に関心が無いと言ったら嘘になる。しかし下手をしたらエルナのパニックが再発してしまうかもしれない。

 もしかしたら、今度こそ本当に心が壊れてしまうかもしれない。冗談ではなく本当にそうなってしまうかもしれないという不安がシルヴィアには拭えなかった。


「いくらなんでもそれは聞いていいことと悪いことがあるのよ! 話して楽になるどころか、取り返しのつかないことになるかもしれない! それを……」

「いいんです!」


 シルヴィアのエルナの想っての発言を、まさかの本人からの制止の言葉が飛び出した。


「いいんです。ヒカリちゃんは悪くないんです。いつまでも過去にとらわれて前に進めない私が悪いんですから」

「違う……、そうじゃなくて……」


 どこまでも自分を貶めるようなことを言うエルナにシルヴィアはもどかしくなった。


 違う。エルナは他人に気を使ってる場合じゃない。もっと自分を守って欲しい。もっと自分を甘やかして欲しい。


 そんな言葉を思いついても、シルヴィアの口は短い呼吸を吐くことしかできなかった。


「ねぇ、ヒカリちゃん。もしかしてヒカリちゃんはわかってるの? 私が本当は何を怖がってるのか」

「……ううん。あたしは何もわからないよ。わからないから教えて欲しいの。えるえるは自分じゃ持ちきれないもの持とうとしてるから、あたしも手伝ってあげたいの」


 ヒカリの言葉を聞いてシルヴィアはとうとう体の力が抜けた。


 手伝う。そんなことができるのだろうか。


 所詮自分の問題を他人に話したところで責任が減るわけではない。問題が軽くなるわけではない。

 しかし、もしそれができるのなら。


「シルヴィアさんも聞いてもらえませんか? ホァン先生も言ってたんです。それを他人に話せるようになれば、それはもう過ぎた話だって」


 シルヴィアは何も喋らなかったが、首を縦に振ることはできた。



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