どんづまりの街 6 ―癒しの詩―
「大変申し訳ありませんでした」
そう言ったギルバートは、頭を深々と下げシルヴィアたちに謝罪した。
シルヴィアが店を出た後、程なくして先に出たギルバートとギムレットに合流した。
しばらくはギルバートはロキとの一件が尾を引いていたのか苛立った雰囲気だったが、突然我に返ったように頭を下げそう言った。
「話も途中で席を立ってしまって。どうも頭に血が上ると後先考えられなくなってしまいまして」
頭を下げたままのギルバートは非常に申し訳なさそうな声色だった。
その様子を見ているギムレットはギルバートのその言葉に内心頷いていた。
昨晩、ホテルでのことのそうだがギルバートは見た目とは裏腹にかなり直情的な性格なのだと思った。
「気にしないで、ギル。彼もあんな様子じゃ協力してくれるそうにはなさそうだし。それにああ言ってくれたおかげで気合が入ったわ。確かに『逆十字』を壊滅させるのに半端なんかしてられないわ。むしろ感謝したいくらいよ!」
「いや、関係ない。いずれあいつには改めて謝罪させるやる」
シルヴィアの言葉にギルバートはくい気味でそう言った。
あまりの頑なさにシルヴィアも戸惑ってしまった。
「いや、しかしなぁ……。わざわざ出国手続きまでしてこんな辺鄙なとこまで来て収穫なしってのはいてぇな」
「ギムレットさん失礼ですよ、辺鄙なんて。でも、それは否めませんね。せっかくなので大きな街へ出て人を探してみましょう。傭兵ギルドへ向かえば名のある剣士が見つかるかもしれません」
「あれ? もうどっか行くの?」
シルヴィアのその提案に後ろから意外そうな声がした。
「ヒカリちゃん。あ、ごめんね。置き去りにしちゃって……」
そういえば先程の店に置き去りにしていた事を途端に思い出し謝罪の言葉を出したが、ヒカリはいつものように屈託のない笑顔だけ返した。
「それはそうと、もうちょっとロキ坊にお願いしよーよ。大丈夫、あの子なんだかんだチョロいからしーちゃんが一生懸命お願いすればうんって言ってくれるよ!」
ヒカリはまるで先程のやり取りなど忘れてしまったかのようにそう提案した。
シルヴィアはその提案には流石に素直に了承できなかった。
別に初対面の相手にギルバートの言うように侮辱ともとれるような物言いをされたことに怒っているわけではない。
むしろ先ほど言ったように感謝さえしているのだ。
確かに自分は浮かれていた。
かつての幼馴染に十年ぶりに再開したことで判断が甘くたっていたのは確かだろう。
ギルバート自身は以前、ブライストンでの一件で申し分ない力を見せていた。
その彼が言うのだからそのロキという人物も能力的には申し分ないと勝手に判断してしまったのだ。
本来ならまず真っ先に高名な魔導師、実力のある剣士に声を掛けてしかるべきなのだ。
おままごとと揶揄されても言い返すことはできない。
だからこそ、それを諭したロキにもう一度勧誘の言葉を向けるというのが忍びなく感じた。
「ううん、もう大丈夫よ」
「しーちゃん、もしかしてロキ坊デリカシーなくて怒っちゃった?」
「そんなことないわ。彼の言ってることは当然のことだもの。私はもっとなりふり構わずやらなければならなかったの。それに今日いきなり『黒い逆十字』をなくしたいから手伝って、って言われたら普通の人は困っちゃうのは当然よ」
「いや、そんなことはない」
ヒカリに気を使うように話しかけていたシルヴィアの後ろから、ギルバートの否定の言葉が割って入った。
「『逆十字』を根絶やしにするというのなら、奴は決して無碍に断ったりはしない。むしろ向こうの方から協力を申し出るくらいのはずなんだ」
ギルバートのその言葉には強い確信のようなものが込められていた。
それと同じくらい、だったら何故断ったのかという疑問のような思いも込められていた。
「でも、さっきのあいつの様子じゃとてもそうは思えなかったぜ? もしそうだとしても、あいつにも事情があるのかもしれねぇんだから無理に誘わなくてもいいんじゃねぇか?」
ギルバートの言葉がイマイチ信じられなかったギムレットは宥めるような口ぶりでギルバートに言葉をかけた。
「いえ、そんなことはありません。ここまで来たのなら無理を言ってでもロキを仲間に引き入れるべきです」
「お前あの店で顔も見たくねぇって言ってたじゃねぇか……」
「それに……」
ギムレットの呆れるような突っ込みを無視してギルバートは続けた。
「それに、『黒い逆十字』を潰すにあたってロキは必要不可欠だと俺は思っています」
「それってどういうことなの、ギル?」
理解ができないシルヴィアの言葉にギルバートはシルヴィアをまっすぐ見てこういった。
「俺も半端な思いで言っていたワケじゃない。俺は世界中を旅して天才と呼ばれる人を多く見てきたが、ロキほど天才という言葉が似合うやつを俺は見たことがない」
*
チェスを好き好んでやる奴はナルシストか、世の中全てを自分の思い通りにできると勘違いしている奴のどちらかだ。
ロキは盤上を眺めながらそう考える。
別にチェスそのものを否定しているわけではない。
暇つぶしには最適だ、とロキ自身も多少は嗜む。
しかし、このスモッドの街ではチェスをするような心の余裕を持つ者はほとんどいない。
尚且ロキの実力に見合う者はもっと少ない。
たまには悪くない、が……。
そう思いながら、ロキは盤の向こう側の人物を見る。
「いやぁ、やっぱり楽しいね。チェスは実力が拮抗している相手と指すのが一番だ。ウチの者とじゃこうはいかない」
その相手の男は心の底から楽しそうにそう言った。
相手のナイトがこちらの陣地に切り込む。
「そりゃよござんした」
ロキのクイーンが相手のナイトを刺す。
「おおっと、しまった。さてどうする……」
相手の白々しい言葉がロキの琴線に触れる。
面と向かってチェスを指しているにもかかわらず、まるでこちらを見ていないかのような態度が腹立たしい。
「そうそう、いい加減例のブツの出処わかったかな?」
次の駒を動かしながら相手は天気の話をするかのような軽々しさでそう言った。
「あんたらが掴めねぇ尻尾を俺個人がそうホイホイ掴めるわけねぇだろ」
「なんだい、そうか。一応君のことは信頼してたんだがね」
「そんなこと言って、実は出処がわかんなくてよかったって思ってんじゃねぇのか?」
「何を馬鹿な」
「だって俺が簡単に見つけちまったら、そんだけあんたらが無能だって事なんだからな」
ロキの言葉に相手は心の底から愉快そうに笑う。
「確かに。一応組織で動いてる僕らが結果を出せなかったんだ。ある意味、簡単に結果を出されては困ると言えるね。これは一本取られた」
相手の言葉にロキは眉をひそめる。相手の言葉、行動全てが気に障る。
「でもね、僕らだって遊びでやってるつもりはないんだ。一刻も早く出処を掴んで欲しい。なんならこっちから人員を貸そうか?」
「いらねぇよ。あんたの子分一人二人増えたところで変わりゃしねぇよ、と」
ロキはそう言いながら駒を動かす。
ビショップが相手のキングの首に手をかけた。
「っと、しまった。話に夢中になったな」
「チェック。さあ、こっからどう動かすよ?」
「……いや、ダメだ。これ以上は悪あがきしか出来そうにない。僕の負けだ」
そう言って相手は両手を上げる。
「これで僕の何敗だっけ?」
「俺の四十九勝五十敗八引き分けだ」
「ふー危ない危ない。そろそろ勝ち越されそうだ」
とても危機感を待ってるとは思えない相手の態度に嫌気がさし、ロキはソファから立ち上がった。
「あれ、もう行くのかい? もう一回やろうよ」
「ふざけんなよ。わざわざ呼びだして何かと思えばチェスするだけかよ。いいから要件言え。それともただ進捗聞きたかっただけか?」
「うーん、違うとは言えないけど……。随分とイラついてるね。何か嫌なことあった」
どこまでも人を食った態度に嫌気がさし、とうとうロキはテーブルの脚を蹴った。その拍子に盤の駒がいくつか倒れる。
「足癖悪いな。え、チェス楽しくない? 僕、君と指すの好きなんだけど」
「野郎に好きとか言われても、嬉しかねぇんだよ」
いよいよ取り付く島もないと悟った相手はため息をついた。
自分のスーツの胸元から葉巻を取り出し、悠然とした所作で葉巻に火をつけた。
「いやなに、最近この街に妙な輩が立ち入ってるて言うんでね」
「なんだそりゃ。そんなん今に始まったことじゃねぇだろ」
そうなのだ。
ここ数ヶ月の間この街にスモッドの住民とは思えない人間が断続的に入ってきている。
もともと浮浪者や犯罪者。身売りされた娼婦などが行き着く街ではあったが、最近はあからさまに物騒な輩が入り込んでいた。
それは傭兵崩れの剣士やら柄の悪そうなチンピラとあまり穏やかでない雰囲気の者たちばかりが目立つ。
今更なにを当たり前なことを。ロキの呆れのこもった言葉に男は軽く首を振った。
「もちろんそれはわかってる。けど問題はそういった連中の侵入に比例して余計なものの侵入が増えてる。」
加速度的にね。男はそう付け足した。
「例のブツも、か?」
ロキの言葉に相手も無言で頷いた。
「流石にこれ以上は看過できない。そろそろ僕も安眠したいんだ。君だってそうだろ?」
「そうだな。ま、その妙な連中はこの街に入ってきてるってんなら、そいつらふん縛って吐かせりゃいいだけだ」
「それだけじゃない。つい数日前今までと少し様子の違う奴らも入ってきてる」
「んだそりゃ?」
ロキが眉をひそめて聞き返す。
「何やらね、これみよがしに帯剣した身なりのいい女性が数日前にこの街に来てる」
ロキはその言葉を聞いて少しだけ頬を引きつらせる。
相手はその様子を感じた様子はなく話を続けた。
「まさかとは思うが、大陸評議会の監査官とかだったら、もう面倒どころの話じゃない。こっちはマトモに動くこともできない。わかる? 君だけが頼りなんだ」
そう言う相手はやや顔を伏せ影を増した。
そんな相手の様子の変化を無視してロキは部屋の出口へ向かった。
「言われなくてもこっちは真面目にやってるっつの。あんたはその高ぇ葉巻吸いながら待ってろや」
十中八九、相手の言った帯剣した女性というのは昨日ロキが会ったシルヴィアだろう。
流石に大きな街ではないため噂が広がるのが早かったのだろう。
前回は、また伺うと言っていた。
その時には早々にこの街から出るように伝えるかとロキが考えていたその時。
「ホント頼むよ。早く何とかしないと、君の知り合いのあの娘も大変なんじゃない? なんて言ったっけ……ほら、エルナとか言った」
その言葉が言い終わるか終わらないか、ロキは凄まじい怒りの視線を相手に向けた。
「テメェがエルナのこと言うんじゃねぇよ……。今度はテメェごと潰してやろうか?」
まるで地獄の底から発せられたかのような言葉だったが、言葉を向けられた当の本人はわざとらしく狼狽した。
「おいおい、それは本当に勘弁してくれ。これ以上の損失は勘弁だ」
そんな相手の様子に心底嫌気がさし、ロキは再び出口に向かった。
扉をあけ部屋を出ると相手の愉快そうな声が聞こえる。
「じゃあね、信頼してるよ」
ロキは返事をせず扉を思い切り閉めた。
あいつは気に食わない。
あいつは、少なくともナルシストではないのだから。
*
「やっほーロキ坊―! あたしだよー! 開けてちょー!」
日が丁度真上に位置する頃、ロキが根城にしている部屋の扉を激しく叩く音が響いた。
「おっかしいなぁ、ロキ坊がこんなに騒がしくして怒らないはずないのに……」
「怒らせようとしちゃダメよ、ヒカリちゃん……」
「うーんそれにこんな時間からロキ坊がどっか行くのも変だしなぁ」
「こんな時間って真昼間じゃねぇか」
ロキの部屋の前の狭い踊り場でそんな会話をしていたのは一晩明けて改めてロキのもとへと訪問したシルヴィアたちだった。
昨日、ギルバートの言葉により改めてロキに力添えを乞おうと日を改めて来たのはいいが、当の本人はこれだけの大騒ぎをしても扉の向こうから息遣いの一つすら感じさせなかった。
「仕方ありません、時間を改めましょう」
「どうせなら下の店で待とうぜ。昨日のことも謝んねぇといけねぇしよ」
シルヴィアがギムレットとそう言いながら階段を下ると、丁度階段を上ろうとする人物と鉢合わせ危うくぶつかりそうになった。
「きゃっ!」
「あっと、スミマセン!」
「いえ、全然……って昨日の」
ぶつかりそうになったのはエルナだった。
エルナはロキに持っていこうとしていたのかバスケットから芳ばしい香りのするパンを持っていた。
「ああ、昨日は慌ただしくしてしまってすみません。お礼もせずに……」
「いえいえ、私は構いませんから」
階段の降り口でそんなやり取りをしているのを見かねたようにギムレットがエルナに声を掛けた。
「よぉ嬢ちゃん、ロキって奴どこいったか知らねぇか?扉叩いても返事ねぇんだよ」
「え。彼、いないんですか?」
エルナもやはり知らないようで、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。
「おかしいですね、特に用事があるとは聞いてませんでしたが……。中で寝てるってことは?」
「それはないよー!ドアいっぱいバンバンしてもウンともスンとも言わないから絶対あの中いないよ!」
ヒカリが元気よくそう答えるとエルナはまずヒカリに笑顔を向け「あ、おはよ、ヒカリちゃん」と短く挨拶した。
「でもそうですか……。そうなると私でもちょっと……」
「では、そこのお店で待たせてもらいましょう」
「いえ。彼、たまにふらっといなくなって二、三日家を空けるってことよくあるので無駄になってしまうかと……」
「マジかよ……」
ギムレットはうんざりとした風に頭を掻いた。
何故かそのギムレットの様子を見てエルナは申し訳なさそうな顔をしていた。
すると、今まで黙っていたギルバートがエルナの前に出た。
「貴女が気に病むことはありません。ロキのいい加減さは昔からですから」
「は、はい! あの、ありがとうございます」
エルナはギルバートの丁寧な対応にあからさまに慌てていた。
ギルバートの微笑み混じりのフォローを、頬をほんのり染めて上目遣いで見返していた。
「そうです! ギルの言う通り、貴女が気にする必用はありません! 私たちは一度ホテルに帰りますので!」
そう言いながらシルヴィアはエルナとギルバートの間に割って入り、やたらと大声でそう言った。
その様子をヒカリとギムレットはニヤニヤと眺めていた。
「あの、よろしければお店に寄って行きませんか? コーヒーご馳走しますよ」
「え、でも……」
「ロキに会いに来たのに無駄足になっちゃうのもなんですし。それに昨日ロキが失礼なこと言ったのでそのお詫びも兼ねて」
「わー! いーじゃんいーじゃん! えるえる、またあのシチュー食べたーい!」
シルヴィアが返事をする前にヒカリがエルナの手を取ってぴょんぴょんと跳ねた。
「うん、いいよー。多分残ってると思うから」
ヒカリのワガママとも言える要望もエルナは笑顔で快諾してくれた。
エルナはシルヴィアたちと話すときは表面上笑顔だが、どこか怯えを隠したような笑顔だった。
もちろんいくらロキの知り合いだったとは言え、昨日初めてあった余所者に心から好意的に接することはできないが。
しかし間にヒカリが入ることによって、ぼんやりと引かれた境界線が瞬く間に消え去ってしまう。
真面目な話をするときはどこか気が抜けてしまうところはあるが、こういった場合ではヒカリのその天真爛漫な明るさは非常に助かっていた。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
「ええ。そういえばちゃんと自己紹介してませんでしたね。エルナって言います」
「ふふふ、確かに。シルヴィア・ヴァレンタインです。シルヴィアでいいですよ」
そう言って二人は笑いあった。
その笑顔は紛れもなく、お互い心からの笑顔だった。
*
「では、ここの店員というわけではないんですか?」
「はい、ロキが上の部屋を間借りしてるのでお礼じゃないですけど、流れで手伝ってる感じで……」
店内に入りシルヴィアたちはカウンター席に座り、エルナに淹れてもらったコーヒーを飲みながら談笑していた。
シルヴィアとエルナは馬があったのか、少ない会話ですっかり打ち解けていた。
ギムレットはそんな二人の様子を見て、感嘆のこもった息を吐いた。
――女ってあっと言う間に仲良くなるよなぁ……。
ギムレットはエルナの淹れたコーヒーを飲み干し、もう一度ため息をついた。
そんなギムレットをみて横のギルバートが心配そうに声を掛けた。
「ギムレットさんどうかしましたか?そんなにため息をついて」
「ん? ああ、いやな。女子ってのは不思議な生き物だと思ってな……」
「それはわかります。俺も未だに女心というものはわかりません」
「ははは……。いやお前さんはそんなもんわかんなくてもどうってことねぇだろ」
それは今まで共にここまで旅してきたギムレットの本心だった。
これまでギルバートはただそこにいるだけで、大陸鉄道に乗合馬車、街中を歩いているだけで嫌というほど異性からの視線を向けられているのがわかった。
ギムレットはここに来るまで、女性の視線をギルバートが独占していたことにこれでもかというほど突きつけられていた。
「いえ、俺は今までどこに行っても女性から奇異な視線を向けられてきました。気づかないうちに何か粗相をしてしまったのかと思いますが、意を決して話しかけても避けられてばかりで……」
それはそうだろう。
こんなに顔立ちが整い過ぎてる男にいきなり話しかけられれば大概の女は気が動転してしまうだろう。
ギムレットはギルバートのその態度に呆気にとられたが、本人に悪気が無いのもわかる分それ以上何も言えなくなりただただため息だけを吐いた。
「はぁー……。もうなんかキッツい酒煽りたい気分だぜ……」
「もー、お父さんこんな時間からお酒飲んだらロクデナシになっちゃうんだからね!」
「あれ?ヒカリちゃんと貴方って親子だったんですか……?」
ギムレットの言葉にヒカリがいつものようにそう呼んだらカウンターの向こうのエルナが驚いた。
「ホレみろ! こうやって勘違いされるからお父さんって呼ぶなっつたじゃねーか!」
「ち、違うんですか……?」
「ちげぇって! 全然似てねぇだろ!?」
「えー、もういいじゃん親子で。こんなカワイイ女の子が娘になるんだよ? 嬉しくない?」
「嬉しかねぇっつの! なんで彼女もいねぇのにいきなりコブ付きになんだよ!」
ヒカリが頬に人差し指をあててかわいこぶってるのをギムレットはカウンターを叩きながら猛抗議した。それをエルナは苦笑いしながら眺めることしかできなかった。
そんなエルナをシルヴィアは笑顔でなだめた。
「気にしないでください、いつも通りなので」
「そ、そうなんですか? 賑やかでいいですね……」
そんな風にエルナの言葉が店内に溶けた時、入口の鈴が鳴った。
「なんだい、今日は随分繁盛して……るわけでもないか」
「あ、ドンさん。久しぶりー」
エルナはそういってひらひらと手を振った。
入口にいたのは立派な髭をたくわえた気の良さそうな老人だった。
「よお、エルナちゃん。こいつはラッキーだ」
そう言ったドンと呼ばれた老人はカウンターの奥で新聞を読んでいたマスターのもとへ向かう。
マスターと他愛ない冗談を言いながらカウンター席についた。
「ところでエルナちゃん。ロキの奴はおらんのかい?」
「すみません、またどっかプラプラしてるみたいで……」
「まったく、あいつの放浪癖も何とかしてほしいな」
そう苦言を漏らすドンにマスターがコーヒーを差し出した。
そんな様子を見てヒカリはなんの躊躇もなくエルナに問いかけた。
「ねーねーえるえる。あのおじーちゃんもロキ坊の友達なの?」
「うん、たまにここでロキとチェスしたり何か話してたりするの」
「お? なんだ、あんたらもロキの知り合いか?」
「そだよー! ロキ坊を育てたのはあたしと言っても過言じゃないね!」
「はっはっは。面白いお嬢ちゃんだ。どれキャンディーでもやろう」
「わーい! おじーちゃん大好きー!」
そう言いながら嬉しそうにドンのもとへヒカリは駆けていった。
そんなヒカリの行動をハラハラしながらシルヴィアが追いかけた。
「す、すみません。この子すごく自由で……」
「いやあなんのなんの。じじいになると幼気な子供に弱くてなぁ。あんたこの子の母親……じゃあないね。保護者かい?」
そう聞くドンの視線が一瞬こちらを探るように鋭くなるのを見逃さなかった。
シルヴィアは慎重に質問を返した。
「ええ、訳あって一緒に旅してます」
「そんなに身構えなさんな。こんな小汚いじじいにそんな敵意向けんでもいいだろう」
ドンはケラケラと笑ってその場の雰囲気を散らした。
シルヴィアはドンの対応とは裏腹に、さらに慎重になった。
いくらシルヴィアが若いといっても、自分の緊張を相手に気取られる程未熟ではない。
しかし相手はそれをあっと言う間に看破した。
ただ、それをものともせず好々爺とした態度をとり続けている。
――この人、“普通”じゃない。
シルヴィアのその考えに同調するように、後ろに控えるギルバートとギムレットは警戒心を強めた。
「しーちゃん」
緊張の糸が張り詰めたシルヴィアに気安い声がするりと入り込む。
「大丈夫だよ。おじーちゃん、悪い人じゃないから」
そう言われても警戒しないわけにはいかない。けれどヒカリに言われるとどうもそう気になれない。
不思議だ。
この少女にそう優しく諭されるだけで、疑う気がなくなってしまう。
そのやりとりを見ていたドンが乾いた声で笑う。
「本当に面白い嬢ちゃんだ。なんちゅうか毒気を抜かれるというか、逆らう気になれんな」
「んふふー。それはひとえにあたしの可愛さのなせる技だね!」
そういってヒカリは凹凸の少ない胸を誇らしげに張った。
その様子をみてドンはただ愉快そうに笑うだけだった。
それを見てシルヴィアも力を抜くようにゆっくりと息を吐いた。
「ところでお嬢さん。こんなご時世にこれみよがしに帯剣しとるなんて珍しいね。見たところ、そっちの黒髪のお兄ちゃんもそうだね」
やはり、と老人の抜け目のなさに再度シルヴィアは構える。
「こんな田舎に来るなんて、まさか監査官とかかい?」
「いえ、とんでもない。ただの旅の傭兵です。近くで討伐クエストがあったので寄らせてもらっているだけです」
もちろんブリティア王国の騎士だと堂々というわけにもいかず、傭兵ギルドの者とういう体でごまかした。
ドンは納得したのかしないのか「へぇ……」と気のない返事だけ返した。
「監査官……? って何、ドンさん」
ドンから出たある単語にカウンター越しのエルナが反応した。
「なんだエルナちゃん知らんのか? 新聞にも書いてあるだろう」
「誰もが新聞が読めるようなご身分だって思わないでくださいね」
「おっとっと、スマンスマン。……監査官ってのはな大陸評議会の連中が『黒い逆十字』の影響を調べるためにそこらじゅうに派遣しまくってる奴らのことさ」
「その大陸なんちゃらってのからもうわかんないんだけど……」
エルナのイラついた声にさすがのドンも困ったように肩を竦めた。
そんなドンを助けるようにエルナの目の前にいたギムレットがエルナに説明を始めた。
「大陸評議会ってのはな、六十年前に終わった大陸戦争の後にできた国際組織のことさ。
もうこれ以上世界で余計な戦争を起こさねぇようにってな」
ギムレットの説明にエルナは素直に「へぇ……」と頷いた。
「評議会は四大国はもちろん、世界の百近い数の国が加盟してる。評議会の本部がある中立国ヴェルトロに代表が集まっていろいろ会議してんだよ。どうすれば戦争がなくなるとか、どうすればみんな幸せになれるかってな」
「なんだか、それだけ聞いてると怪しい宗教みたいですね」
ギムレットの説明にイタズラじみた笑顔でエルナが言うと周りから笑い声が上がった。
「そうさなぁ、関係ない人間からするとそんなもんだな。確かに儂も政治家と宗教家の違いはあまりわからん!」
ドンはそう言うとたいそう愉快そうに大笑いした。
その笑いが落ち着くとドンは重たい腰をゆっくりとあげた。
コーヒーはいつの間にか飲み干されていた。
「さて、ロキがおらんのならもうお暇させてもらおうか」
「え、もう帰っちゃうの? もう一杯飲んでいってよ」
「そうしたいが、儂も用事があってな。じゃあなマスター、また来るよ」
ドンがそういうと、マスターは何も言わず柔和な笑みで返した。
そんなマスターに直接料金を払いドンはそそくさと店を後にした。
「おもしろいおじーちゃんだったね、えるえる」
「え、うん。あんまり来てくれないんだけど物知りでいろんな話聞けるから私も楽しみだったんだけどな……」
そう言うエルナは残念そうに出口を見つめた。そしてそれに応えるかのように店のドアがあいた。
しかし、現れたのは意外な人物だった。
「すんませーん。あ、よかった丁度エルナさんいた」
その特徴的な声ですぐにボボだとそこにいる皆がわかった。
しかしそこにいる面々が一人残らず言葉を失った。
出入り口に立っていたボボの顔は無数の痣と流血に塗れ、右手で押さえている左腕は不自然に腫れてた。
「ちょっと! どうしたの、ボボ!?」
顔色を一瞬のうちに変えたエルナは直様カウンターから飛び出した。
「いちち……。いやまた『あいつら』っすよ~。ヤベェんすよ左手全然動かなくて」
「バカ! あんたそれ折れてんじゃない!」
エルナの言うようにボボの左腕の腫れと歪な曲がり方を見れば骨折していることは一目瞭然だった。
「大変! 早く病院に行かないとっ!」
事態の深刻さにシルヴィアはそう言って慌てた。
「うほっ! ききき昨日のおっぱいさん! やべぇラッキー!」
シルヴィアの心配する声をよそに、ボボは既に血で赤い顔をさらに赤くさせた。
「いや……、そんなことはいいですから早く!」
「ああ、ああ。いいんすよ、医者ならここにいるんすから」
ボボの言葉の言う意味がわからず眉を寄せると目の前のエルナがひっそりと歌うように何かをつぶやき出す。
「『お願い、葉を摘まないで。お願い、枝を折らないで。お願い、幹を剥がさないで。お願い、根を断たないで。これじゃ貴方を支えられない。これじゃ貴方を庇えない。貴方を守りたい。だから私を暴かないで。私の中の汚いものをどうか見ないで』
何かの詩だろうか。
一瞬綺麗に言葉を連ねるエルナにシルヴィアは何も言えなくなった。
そしていつの間にかボボの腫れた腕に添えたエルナの手から淡い光は灯る。
そうしていると、みるみるうちにボボの腕の腫れは引いていった。
「よし、とりあえずこれで骨はくっついたでしょ。ほら、次は顔見せて」
そういうエルナはテキパキとした所作でボボの傷口に手を添える。
先程と同じ台詞を発すると、腕よりも早い時間で傷はふさがった。
「まったく、気をつけなさいよ。あんたそうでなくても怪我多いんだから」
「いやー、サーセン!でもエルナさんのいつ見てもスッゲェすね!
もうなんも痛くないっすもん!」
ボボは興奮気味にそう言いながら着ていたシャツで顔に残った血の痕を拭った。
そんな彼を心配するようにヒカリがボボに近づく。
「大丈夫ー? すっごい痛そうだったよー?」
「あっどもっす! あんくらいたいしたことないっすよー!」
「ちょっと、治したの私なんだけど」
そんな風に穏やかに話している三人の様子を見たシルヴィアは絶句していた。
――今のって治癒魔法?
エルナから発せられた光は正しく魔法を使うときの魔素の発光現象だ。
それによりボボの傷は完治したのだから間違いなく治癒魔法だ。
しかしそれならそれで驚くべきことだった。
いくら魔法科学が発展した今の時代でも、治癒魔法を使えるものは少ない。
治癒魔法は簡単に言えば、自分の魔素を相手に纏わせて無理矢理自己治癒能力を上げているのだ。
つまり相手に自分の魔素で闘気を纏わせているということと言える。
これが、言葉で言うより非常に難しい。
原理や理論を理解して使用する通常の魔法と違い、闘気は自分の体の強化という漠然としたもののため魔素のコントロールするのが困難なのだ。
シルヴィアたち王国騎士団は入団の時は闘気のマスターが必須条件のため、騎士団を志望しても闘気を使えず涙をのんだ志望者たちがごまんといた。
それだけ闘気は習得が難しい。
さらに、治癒魔法は自分の体ではない他者の体に闘気を纏わせるというのは想像を絶する難易度なのだ。
実際ブリティアだけでなく、四大国、軍隊を持つ国のなかでも治癒魔法を使えるものはかなり少ない。
ゆえにどこも治癒魔法使いを重宝する。
「エルナさん。貴女、治癒魔法使えたんですか?」
「え? ええ、まぁ……」
シルヴィアの問いかけにエルナは素の表情で返した。
それは何故そんな質問をしたのかがわからないといったふうだった。
まるで使えるのが当たり前のように。
「ええ、まぁって、すごいことなんですよ? 使える人はとても少ないですし、治癒魔法使いは国の軍隊でも要職になるほどですし」
「そ、そうなんですか……?」
「確かに、この街でこれ使えんのエルナさんかロキさんくらいっすよねー」
「なんだぁ? あのロキって奴も使えんのかよ」
ボボの何の気もなしに発せられた言葉にカウンター近くにいたギムレットが驚きの声を上げる。そんなギムレットにヒカリがそれこそ当たり前のことのように。
「別にそのくらい驚くことじゃないよ?ロキ坊、大概の魔法使えるもん」
とそう言った。
「そうですね、私も使える魔法の全部ロキに教えてもらったものですし……」
「全部って、治癒魔法だけじゃないんですか?」
「はい。治癒の他には水系統の魔法とか、あと幻惑魔法とか教わりました」
ちなみに幻惑魔法とは、対象の人物の認識を操作し、本来あるはずのないものを誤認させる魔法だ。
「じゃあ、あの詠唱もですか?」
そう。シルヴィアがなぜここまで動揺しているかというのは、エルナが治癒魔法を『詠唱』して使ったからだ。
詠唱とは呪文と言って魔法言語学という分野に属する技術で、魔法の全容を理論化し、言語に変換することだ。
しかし、長い魔法の歴史の中で治癒魔法の理論化・言語化が成功したというのはシルヴィアは聞いたことがなかった。
それはつまり人の感情を、心を理論化したといっても過言ではないのだから。
「ええ、全部ロキからの受け入りです。たしか自分で考えた詠唱文って言ってました」
エルナはそんなありえないことを言葉にした。
「うそだろ……。もしそうなら、ブリティアの王立大学で博士号。いや、評議会から勲章だってもらえんじゃねぇか?」
ギムレットもその事実が信じられず困惑したふうにそう言った。
シルヴィアとギムレットが唖然としている空気の中、ヒカリはため息混じりにこういった。
「だから言ったじゃん。ロキ坊、頭がおかしいって」




