どんづまりの街 2 ―人ではない者―
ロキが根城にしている喫茶店がある二番街、その外れにある雑居ビルの非常階段。
冷たく乾いた風に煽られながらロキは錆びた階段をゆっくりと上がっていった。
ホァンの使いで薬を運んだトリスとリーンから徴収した薬代をホァンに届けるため彼が居を構える診療所へと向かっていった。
相変わらず踏みしめるたびにギシギシと耳障りな音を響かせる。
いつ底が抜けるか気が気ではない。
――それにしても……。
ロキは老朽化が進んだ非常階段よりも先程の料金徴収の件について、苦々しい息を吐いた。
三番街のトリスはまだ良かった。
彼女は生まれつき肺が弱いらしく、かなり前からホァンのもとに通い薬をもらっている。
ロキはホァンの使いで何度か顔を合わせているが、彼女が咳をしなかった日はなかった。
ホァンが言うにはあれでも良くなっているらしく、仕事も生活する分には稼いでいるらしい。
事実、薬を渡す時にもしっかりと金を封筒に入れて渡した。
この街の者にしては几帳面この上ない。
しかしリーンは一筋縄ではいかなかった。
リーンは獣人族の女で、街のとある娼館で働いている。
稼ぎがいいのかわざわざ医者の調合した薬を度々買っている。
ただ真面目に金を払おうとはしてくれない。
事あるごとに値引こうとする上、ロキのような男が渡しに来た時は体を売ってごまかそうとすらする。
今回ももちろんリーンはロキを誘ってきた。
着古して伸びたネグリジェでロキを迎え、必要以上にあらわになった乳房を見せつけてきたリーンに対し毅然とした態度で対応し、金も本来の値段通り徴収した。
この街で生きている以上そういった誘惑は日常茶飯事だ。
ロキはにべもない様子で料金を要求した。
なかなかリーンも折れなかったが、最終的に要求したとおりの金額を差し出した。
それとは別にリーンは肉体関係を迫ってきたがロキはそそくさとリーンの部屋を後にした。何故か大いに疲れた。
しかしこれが男のロキだったからまだ良かったのだ。
以前エルナがリーンの元に薬を届けた際、彼女はエルナに対して箇条書きにしたら便箋一枚簡単に埋まってしまうほどの嫌味を言われたらしい。
娼婦という職業柄見た目がいい同性というのはそれだけで嫌悪の対象になるのだろうかとロキはその時のエルナ愚痴を聞きながら思っていた。
さらに言うとエルナが亜人種だというのも問題だったのだろう。
エルナは普通の人間には現れない緑がかった髪色と、嫌でも目に付く尖った耳を持つ。
これは亜人種の耳長族の特徴だ。
もっとも純血の耳長族の髪はもっと鮮やかな緑色だそうなのだが、ロキは純血の耳長族を見たことがないのでよくわからない。
ともかく広義では自分と同じ人種が自分は体を売って生活しているにも関わらず、真っ当な生き方をしているのが気に食わないのだろう。
ただし、それはエルナのことを知らない者の言い方だ。
逆にリーンの生い立ちも、エルナは知らない。
自分の方が割を食ってきたとはとてもじゃないが言えない。
本人の苦労は本人にしか分からない。
不幸自慢をする趣味がないエルナはとりあえずリーンのその場の癇癪を受け流し薬の配達を済ましたのだが、今回の言い方だとやはりそう何度も顔を合わせたくはないのだろうと簡単に予想できた。
そうゆう理由なら重い腰を上げるのもやぶさかではないという言い訳を、ホァンへの後ろめたさに覆い被せた。
しかし疲れたことに変わりはない。
何度目かわからないため息をつくと、掠れた字で四階を示す字が書かれた扉の前に着いた。
鉄製の扉を、またしても錆だらけの取手を掴み開く。
照明も何もない、ややカビ臭い通路が底の見えない井戸のように続く。
その通路を躊躇うことなく進み、目的の部屋の扉をノックもなく入る。
「チィーッス。毎度どうもー」
返事はなかった。
通路よりもさらに陰気な部屋がロキの眼前に広がる。
消毒液のような何の薬かもわからない匂いの中に、僅かにコーヒーの香りがした。
――給湯室か……?
そう判断したロキは不躾に入口から影になる場所にある給湯室へと足を伸ばす。
給湯室の全容を把握する前に奥に白い布が揺れるのが見えた。
「んだよ。いるんなら返事くらいしたらどうだ、ホァン先生よ? 挨拶されたら返すのが礼儀だぜ」
「……ノックもせんと他人の家に押し入るチンピラに礼儀の作法を説かれるとは思わなんだ」
声を掛けたロキに対し、目の下に立派な隈ができた目から、どうでもよさそうな視線を向けた後、ホァンはそう皮肉を呟いた。
「そう言うなって。俺と先生の仲だろ?」
「貴様は単なる取引相手だ。それに、それなりの仲を求めるなら礼儀ってもんを心得て欲しいもんだ」
仕返しとばかりに言い返すホァンの言葉についつい頬を引きつらせる。
ホァンはそれっきりロキはいないものとして、マグカップに入れたコーヒーを持ち部屋の奥に引っ込んでいく。
「で、何の用だ?」
部屋の奥の簡素な診察用の机の前に腰掛けホァンはそう言った。
「何って、あんたの依頼だろ。ホレ、リーンとトリスの薬代だ」
ロキは懐に入れてあった薬代を机の上に投げ渡した。
ホァンは金の入った封筒を受け取るでもなく、コーヒーを啜りながら横目に封筒を眺めていた。
「ほぉ、今朝エルナに頼んだばかりだというのに、やけに殊勝なことだな。貴様のことだ、ここに来るのは二、三日あとのことだと思ったんだがな」
「ホンット口の減らねーおっさんだな」
「なに、お前には負ける」
そう口の端を歪めながら言うホァンにとうとうロキは舌打ちをうった。
「つか、やり方が汚ェんだよ。こないだの薬のことダシに使いやがって」
「……何を言っている?」
診察用のベッドに腰掛け悪態をつくロキだったが、当のホァンは訝しげに眉を寄せただけだった。
「はあ? 何ってエルナに入れ知恵したのアンタだろ? 俺が先生から二日酔いに効く薬貰ったことバラシやがってよぉ。それで脅せっつったんだろーが」
「……ふん、なるほど。そりゃあお前、エルナに一杯食わされたな」
ホァンは至極楽しそうにほくそ笑みそういったのを聞き、ロキは腹立たしげに「あぁ?」と声を出す。
「あの薬をお前にやったことはエルナには言っとらん」
「んじゃあ何でエルナがそんなこと知ってんだよ! 酒飲んでポロっと零しちまったんじゃねぇのか?」
「馬鹿め、貴様じゃないんだ。エルナにはウチの薬品の在庫管理を任せてる。胃腸薬なんぞ滅多に出さんからな、それで察したんだろ」
「そんなん俺に渡したなんて確証ねーだろが」
「お前がバカ酒飲んだあの日、相当盛り上がったそうじゃないか。何軒もはしごして? 大人数に絡んで? ちょっとばかし有名だったぞ」
そういえばとロキは思い返した。確かにその晩は自分でもやりすぎたと思うほど大騒ぎをした。
普段ならしないがどうも酒が入ると必要以上に陽気になる。
「普段は金には卑しいお前がな。どうせ仕事で小金でも入ったんだろ?」
「何言ってんだ、オレは常に懐の厚い男だぜ?」
「知るか。ともかくそれだけ大騒ぎしたんだ、当然エルナの耳にも入るだろう。それにエルナは貴様がそれほど酒に強くないことも知っている。だから俺のところから薬をもらったんだろうと見当をつけたんだろう」
「で、カマかけられたってわけか……」
まんまとエルナの口車に乗ってしまったと考えると苛立ちが抑えられなくなり、今日は何度目かわからない舌打ちを打つ。
「いい傾向じゃないか、そんな機転が利くほどに回復したんだからな」
「……まあな。とは言ってもあいつはもうだいぶ前からマトモになってんだろ」
その言葉に対する返答はホァンから返ってこなかった。
代わりに問い詰めるような視線をロキに向ける。
「なんだよ」
「いや、本当にそう考えてるのか。と思ってな」
「ハッキリしねぇな。言いたいことがあるなら言えや、オイ」
要領を得ない態度のホァンに苛立ち、ロキの言葉が刺々しくなる。
ロキから発せられた威圧をものともせず、ホァンはどうでもよさそうに体を診察台に向ける。
「まあいい。取立てご苦労。報酬は……。そうだな、この間の薬代に当てるとしよう」
もう話すことはないと言わんばかりにホァンは話を強引に切った。
その態度に怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、何の意味もないことを理解しているロキは診察用のベッドを思い切り蹴り上げ踵を返した。
ホァンの「足癖の悪い奴め」という小言を無視し部屋のドアノブに手をかけた。
「おい、ロキ。どうでもいいが今後どうするかぐらいはちゃんと決めておけ。一生この街で面倒見るって言うなら、話は別だが」
ロキの方を見ることもせず、あくまで他人事のように言い放たれた言葉に答えるでもなく、ロキは壊れんばかりの勢いで診療所の扉を閉めた。
別に珍しい話ではない。
この街、というよりこの時代では亜人種の人権はあってないようなものだ。
さらに面倒なのは亜人種と普通の人間の混血という存在だ。
人でもない。
亜人種でもない。
中途半端な存在。
――“亜”人種でもないなら、一体なんなんだろうな。
澱んだ空気の路地を歩きながら、なかば自嘲気味にロキは笑った。
しかしながらこの街ではそんな『なりそこない』たちが身を寄せ合って生きている。
街全体で考えれば、エルナの存在も当然のように埋没してしまう。
それなのに何故エルナだったのか。
わかっている。
意味などない。
ただ目の前にいたのがエルナだった。
それだけだ。
ただ、放っておけなかっただけなのだ。
そんな風に考え事をしていると、不意に腹の虫が泣き出す。
そういえば今日はまだ食事をとっていないことに気が付き、保存していた干し肉があったかと考えているうちに、間借りしている部屋がある建物が見える。
ちょうどランチの時間を過ぎ、穏やかな時間を過ごしているであろう下の店からコーヒーの香りが漂ってきて、
サンドイッチくらいならまだ出してもらえるだろうと思い一直線に店に入った。
「あらおかえり、ロキ」
出迎えたのは自分の部屋を掃除していたはずのエルナだった。
エルナはカウンターの中でご丁寧にエプロンまで付けて何か作業をしていた。
ついさっきまで目の前の人物について考え事をしていたためか、見咎められたように硬直してしまう。
懸命に平静を取り戻し、何事もなく返事を返す。
「おう、つか何でオメェがいんだ? 掃除は?」
「そんなのもう終わったに決まってんでしょ」
まぁエルナならすぐ終わらせるだろうなとは思っていたが、問題は何故この店で店員の真似事をしているのだということなのだが。
「どうせあんたまだ食事とってないんでしょ? マスターさんに言ってキッチン借りたからご飯作っといたわよ」
そう言ってカウンターから出したのは鶏肉の香草焼きだった。
その芳ばしい香りが入口に立ちっぱなしだったロキの下まで届き、その香りに釣られて腹の虫が盛大に鳴いた。
「マジかよ……。お前マジサイコーだぜ!」
感謝の言葉も程々にロキは、出来たての香草焼きにかぶりついた。
この街で上等な鶏肉が手に入るわけがないがそれでも丁寧に下味をつけたのだろう、
肉は絶妙に柔らかく、噛んだ瞬間に口に広がる肉汁が空腹と相まってロキの舌をこれでもかと刺激する。
辛すぎない程度のスパイスと鼻を抜けるハーブの香りが味に飽きを来させない。
さらに植物油で風味のついた茸がまた違ったアクセントが香草焼きを引き立てる。
――芸術だ!もはやこの料理は芸術だ!
どこからこんな技術を学んだのだとロキは目の前の少女に戦慄する。
しかしこの芸術品は食べたら無くなってしまう。
食べるのが勿体無いが、料理とは食されてようやく完成される。
そうこの料理を芸術へと昇華させるのは自分自身なのだとロキは思い至る。
胃に料理を流し込み消化し昇華させるのだと。
そんな宇宙的な考えを巡らしている間に香草焼きはあっと言う間に無くなった。
「うっっめえええ! 超うまかったぜ、ごちそうさん!」
「あはは、お粗末さま」
あれほど食べながら様々な言葉が巡っていた割にはロキから出た言葉は単純な言葉だった。
エルナも特に言うこともなく、満足そうに平らげたロキに同じく満足そうに頷いた。
「いや、オレもうお前無しじゃ生きていく自信ねぇよ……」
「あたしとしてはあんたの今後の人生が心配になるんだけど」
「なんでだよ、嫁の貰い手が見つかったんだぞ?」
「うっさい、甲斐性無しはお断りよ」
可愛らしく舌を出したエルナに対し、ロキもまた大仰に驚いてみせた。
そんな様子を店主は微笑ましく眺めていた。
いつの間にか、ロキの中の漠然とした不安のようなものはなりを潜めていった。
とりあえず、今はこんなんでいい。
そんなことを思いながら。




