どんづまりの街 1 ―深い沼のそこから―
部屋のどこからか、本がずり落ちて床に低い音を立てたのをきっかけに、ロキは目を覚ました。
本が山積みになった部屋に埃が舞い上がる。
そういえば掃除もしばらくしていないなと思った矢先、自分の顔にのせておいた本が無くなっていたことに気が付き、落ちたのが自分が読んでいた本だということを理解した。
その本は事実を基にした冒険小説で、エトルリアの冒険団が南の人食い部族に出会い、密林の中でサバイバル生活をする物語だ。
作中では密林の中で満足に食料も調達できずに人食い部族や獰猛な魔物たちに襲われ、冒険団の団員が一人、また一人と減っていく。
最終的には主人公である冒険団の団長が、自分以外の最後のひとりとなった団員を殺し、その団員の肉で飢えをしのぎ、命からがら祖国に戻るという結末だ。
この時の滂沱の涙を流し、散っていた団員たちに謝罪の言葉を呟きながらも一心不乱に仲間の肉を喰らう団長の心理描写が悲痛ながらも人間の本質を物語っているようでロキは気に入っていた。
だんだんと覚醒していくにつれて思うのは、部屋の掃除のことでも、椅子の上で眠ってしまったことでもなく、眠るのならちゃんと栞を挟んでおくのだったということだった。
――……いや。
実際、そんなことは必要ないかとロキは自己解決をした。
本来は一度読んでしまえば、完全に頭に入ってしまうロキだが、本を開きページをめくって文を目で追い、その物語に自分が入り込むには『本を読む』という行為は欠かせない。
魔導書や研究書といったものは一度目を通してしまえばその本を開くことはおそらく二度とないだろうが、物語に関してはそうではない。
気に入った本があればこんなふうに何度も読み返してしまう。
実際ロキがこの本を読むのは三度目だった。
ロキは落としてしまった本を拾うでもなく、目が覚めた姿勢のまま窓から差し込む陽の光に照らされ、狭い部屋の中で悠然と舞い上がる埃をぼうっと眺めていた。
さっき読んでたのは何ページだったかと思案していると、部屋の扉が開き可愛らしい咳払いが聞こえてきた。
「うわっ、すごい埃! ちょっと何? また本増えてない? ちょっとは自分で整理しなさいよ!」
部屋に入ってきた濃い緑色の髪を後ろでくくり肩から下げた少女がけたたましくがなり立てた。
濃緑の髪から突き出た、普通の人間と比べてやや鋭利な耳が小刻みに揺れている。
本人には言わないが、少女は感情か顔や態度よりも先に耳に出る。
ロキは彼女と話すときはよく耳を見て彼女の様子を伺っている。
ちなみにこの耳の揺れ方は苛つきながらも、呆れてしまっている時の揺れ方だ。ということは彼女の言葉だけでもわかる。
「……っせぇな。オレがどこにあるか解ってんだから別にいいだろうが」
「よかないわよ。あんた一人の部屋ってワケじゃないでしょうが。それに本は埃がたまる原因になるんだから掃除もしろって言ってるでしょ!」
ロキは母親というものがいないから実際にはわからないが、まるで保護者が小さな子供に言う説教文句のようなものを少女が言ってきてげんなりする。
ちょうどそろそろ掃除をするべきだなと思っていた分、人からいざやれと言われると自分でも驚く程やる気がなくなる。
やっぱり人から言われるよりも、自分で考えて行動することに意味があるんだなとロキは思う。
先程読んでいた小説の団長も、自分で生きるために最善を考え、仲間を喰らうという行動に至った。
これによって団長は仲間を食べた罪悪感と共に人間の業と命の尊さを知った。
やはり小説はいいもんだという結論に至ったワケだが、目の前の少女にそれを言ったところで火に油にしかならないことは簡単に想像できた。
大げさにため息をつきながら観念したと言わんばかりにロキは両手を上げた。
「ああ、わかったよ。後でいつか多分きっとやるって。神に誓う」
「なによ、神様なんて毛ほどにも信じてないくせに」
「当たり前だ。オレは目に見えるものしか信じねぇかんな。……で? 何の用だよ、エルナ?」
エルナと呼ばれた濃緑の髪の少女は部屋に散乱する本の山を掻き分けロキの目の前までやってきた。
「何って仕事よ。はいこれ、ホァン先生から。これを五番街のリーンさん、これを三番街のトリスさんに届けてって」
ロキは目の前に突き出された紙袋をみて辟易とする。
ホァンとはこの街の唯一のまともな医者だ。
しかし金にがめつく、事あるごとにロキにこういった雑用という名の仕事を押し付けてくる。
ロキはこの街で何でも屋まがいなことをしている。
特に看板を出して商売をしているというわけではないが、噂が噂を呼びこのようにエルナや知り合いを通して仕事が舞い込んでくる。
「あのよぉ、先生にも言っとけよ。薬届けるのなんざエルナで十分だろ? 三番街なんかすぐそこじゃねえか。」
「嫌よ、あそこ売人や薬で気がふれた人ばっかで絡まれたら面倒なんだもん。女の子が一人で歩いてたらいつ襲われるかわかんないって」
そう言うエルナはわざとらしく肩を竦めてそう言った。
襲われるということに恐れているというのではなく、それを対処するのが本気で面倒くさいのだろう。
「そういう時のために魔法教えてやったんだろが。大丈夫、お前は出来る子だ。俺の自慢の教え子なんだからな」
「じゃあ、自慢の先生様。可愛い教え子のためにひと肌脱いでくださいな。エルナは怖くて怖くて仕方ありません」
エルナの芝居がかった台詞と動きに苛立ち、つい舌打ちが口から出てしまう。
それが聞こえたのか、エルナの耳が軽く揺れる。据わった目から粘着質な視線も感じる。
「そういえば先生。この間ロキにあげた二日酔いの薬、あれ高かったなーって言ってたなー」
エルナのその言葉に、ロキは固まる。
ロキは先日とある仕事でまとまった金が手に入り、その金で酒場で豪遊した。
普段飲めないような高い酒を浴びるように飲み、翌日には当然のように二日酔いになった。
あまりの辛さにロキはホァンに泣きつき、世間に流通している胃腸薬をもらっていた。
普通の薬剤師が調合した薬は本来なら簡単に手に入るが、この街ではそうはいかない。
そもそも薬と言えばこの街は真っ先に麻薬のことだと皆想像する。
体を壊す方ならともかく、身体を治す薬はこの街ではある意味宝石並みに貴重だ。
そのため取り寄せるのも容易ではなく、金も元値よりもかかる。
それを知っている分ロキはその話題を出されると流石に罪悪感に駆られてしまう。
普段の軽い二日酔いなら、水をたらふく飲んで一日中寝っ転がっていればなんとかなったが。
先日は調子に乗って浴びるように酒を飲み、胃が裏返るような感覚と体中の体液まで出てしまうのではないかという程の吐き気に襲われ、
これはダメだと判断しホァンの足にしがみつき惨めったらしく泣きつきようやくの思いで手に入れた薬だった。
薬を飲んだ直後はそれこそ天にも昇るほどの快復を見せたが、後々に来るであろう精算に怯えていた。
それが今回の仕事というわけだ。
東の国の宗教書に書かれていた因果応報という言葉を思い出しながらロキはエルナの持っていた二つの紙袋をもぎ取った。
「リーンにトリスだな? わぁーったよ、行きゃあいいんだろ、行きゃあ」
椅子から立ち上がり、本の山に掛けてあったコートに袖を通し部屋の出口にのそのそと向かった。
「最初っから素直に行けばいいのよ。行ってる間にこの部屋掃除しといてあげるから」
言いながらもエルナは近くにあった本を数冊拾い、足の踏み場を確保しようとしていた。
迷いなく片付けを進める姿は手際の良さと、この部屋の隅々まで理解していることを物語っていた。
てきぱきと掃除を進めるエルナに背を向け「頼んだ」と短く声をかけロキは部屋を後にした。
部屋を出てすぐの階段を降り、下の階の店の店主が頭を下げてきたのを手を挙げて返した。
この店は昼は喫茶店、夜は酒場としているこの街ではよくある形態の店で、以前酒場の方にやってきていたガラの悪い客が店主に飲み代を積み倒しそうにしていたところをたまたま一見でやってきていたロキが追い返したところに恩を感じ、空いていた二階の部屋を格安で借りることになったという関係だ。
店主はこの街で生きていくにはやや気が弱いが、必要以上にこちらに干渉もせず、付かず離れずの心地よい雰囲気をつくる、通には堪らない人格の店主だ。
ロキもこの店主の人となりが気に入り、遠慮なく部屋を借りることにした。
最近は部屋に本が増えて来て、いつか部屋の床が抜けて下の店に迷惑がかかったら申し訳がないなと思っている。
ふと強い風が路地の奥から抜けてくる、
昨夜降っていた雨の匂いとすっかり日が昇ったにも関わらず漂う吐瀉物の臭いが鼻腔の奥を突き刺す。
顔をしかめながら、肺に滞留する濁った空気を一刻も早く体から出したくてため息のように吐き出す。
この街の名はスモッド。
住民の半数以上が亜人種で、そのほとんどが物乞いやら娼婦という歪んだ街。
行き場を失った者が最後に流れ着く街。
どんずまりの街。
ロキは濁った空を見上げながらスモッドの路地を進む。




